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【科学者#004】科学界に一石を投じた科学者は、実は科学は副業だった⁉【ニコラウス・コペルニクス】

前回紹介した科学者はガリレオ・ガリレイだったのですが、ガリレオは地動説がもとで2回裁判にかけられました。
今回は、そんな地動説が有名になったきっかけをつくった科学者、ニコラウス・コペルニクスについてです。


ニコラウス・コペルニクス

コペルニクス

名前:ニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)
出身:ポーランド
職業:聖職者、天文学者
生誕:1473年2月19日
没年:1543年5月24日(70歳)


研究内容

地動説

この時代、プトレマイオスの天動説が信じられていました。
プトレマイオスは、83年~168年の古代ローマの学者です。

プトレマイオス

天動説は地球を静止させ、地球の周りを天体が動いているというものです。
プトレマイオスはこの天動説をもとに、円運動を組み合わせて天体の運動を説明する理論を作りあげました。

地動説

しかし、プトレマイオスの天動説では説明できないことがありました。
(火星、木星、土星が逆行するとき、いつも惑星が太陽のちょうど反対側にあることが説明できませんでした)


このことを説明しようと様々な科学者が研究しており、第一回で取り上げたティコ・ブラーエのティコ体系もそのひとつです。
コペルニクスもこの問題を研究し、たどり着いた答えが『地動説』です。

惑星は太陽を中心に運動しており、月は地球を中心に運動しているというのが、コペルニクスの地動説になります。
このような惑星に関することを、晩年コペルニクスは小冊子にまとめ出版しました。


グレシャムの法則

コペルニクスは通貨の改革もしており、お金関係にも大きな業績を残しています。

当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を大量に作って流通していました。
そのせいで近隣の経済が混乱しつつあり、これを調べたコペルニクスがグレシャムの法則というのを発見します。
この法則は、貨幣の額面価値と実質価値の間がかけ離れてしまった場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は使用されず流通しなくなるというものです。


生涯について

誕生から大学卒業まで

コペルニクスはポーランドのトルンに誕生しますが、10歳のときに裕福だった商人の父親が亡くなります。
そして、母親の実兄のルーカス・ワッツェルローデに兄弟と一緒に引き取られました。

このルーカスは、教会の律修司祭(カノン)で、のちにプロイセンのヴァルミア司教となります。
この出来事により、コペルニクスが将来聖職者になる道が決まりました。

1491年コペルニクスはポーランドのクラクフ大学へ入学します。
そこで、哲学、天文学、占星術、幾何学、地学を学びます。

そして、10年間イタリア各地へ遊学をします。
遊学中3年半は教会法を学びますが、その他にも数学や天文学も学びます。
さらに遊学中に、法律学で学位を取得したり、ギリシャ語の勉強もします。
1501年から3年間はイタリアのパドヴァ大学で医学を学び学位も取得しています。



帰国後

遊学から帰ってきたコペルニクスは、伯父であるルーカスが管轄している区域で聖職につきます。
医学の知識を持っていたので、伯父の秘書兼侍医として働きます。

伯父が死んだあとは、エルムンランド聖堂のあるフラウエンブルクへ行きます。
昼は聖職、医療、税務関係の仕事をこなします。

そして、夜は聖堂の塔で天体観測をします。


政治的業務の日々

1516年からは、地方庁及び会計検査・会計事務の監督官になり、お金関係の仕事をします。
この時期に発見したのが、悪貨は良貨を駆逐するというグレシャムの法則です。

1523年には、新通貨政務について案をプロシア議会に提出し、通貨の改革をします。

さらにポーランドは当時ドイツ騎士団国と戦争していたのですが、その終結にも重要な役割をはたします。
戦後の処理に必要な書類を作成し、逃げ去った住民を呼び戻すなど敏腕を振るいました。


出版

コペルニクスは地動説などまとめたものを出版しています。

まずは、1532年地動説の概要を記した『コメンタリオルス』を出版します。
出版することで、カトリック、プロテスタントの両方の人たちが地動説に触れ、コペルニクスは反発を受けます。

さらに、1543年に地動説について書いた『天体の回転について』を出版します。
この執筆に着手したのは1530年ごろで、完成してから9年後の出版になりました。
しかし、着想自体はその4倍もの年月がかかっていて、出版まで長い年月がかかっています。

ちなみに、コペルニクスが亡くなった年は1543年で、『天体の回転について』が出版したのも同じ年の1543年でした。
コペルニクスが亡くなった後に出版されました。

コペルニクスの時代は異端審問制度がなく、のちのガリレオほど宗教が科学を圧迫はしていませんでした。
すなわち出版に関してローマ教会から許可が必要ないので自由には出来たのですが、それでも反発を避け出版を先延ばしにしました。


最後に

コペルニクスは生活面での苦は特になく、本業は聖職者でローマカトリック教会組織の重要な人物でした。
そのため、会計事務や通貨の改革、そして戦後処理など多岐にわたって政治面に対して才能を発揮します。
さらに、若い時には医者の仕事もしており、当時の人にとっては科学者というイメージはなかったのかもしれません。
科学はコペルニクスにとっては副業のひとつでした。

コペルニクスは次の言葉を残しています。

『自分が何を知っているのかを知っていることを知り、自分が何を知らないのかを知っていないことを知ること。それこそが真の知識です』

この言葉がその当時の天文学の世界観を変えてしまった人から出た言葉だと思うと、この言葉にさらに深みが増してくるような気がします。

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