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裁判員の経験を通して考える罪と罰

1万3500分の1。
これは裁判員(補充裁判員も含む)に選ばれる確率です。
今年、僕はとある刑事裁判に裁判員として参加しました。
そこで見たもの、感じたことはきっと生涯にわたって僕の中に残り続ける経験だと思いました。
これは、裁判員として選ばれて任期を終えるまでの感想をまとめたものです。前半では裁判員の活動について、後半ではタイトルにもある罪と罰について書いていきます。
今後裁判員に選ばれた人や、裁判員というものに興味を持ってる人に届けば幸いです。
なお、裁判員の守秘義務の範疇で記載するため、そこはご了承ください。

裁判員に選ばれた日

2019年11月。
最高裁判所から僕宛に1通の手紙が届きました。
中身は「裁判員候補者名簿への記載のお知らせ」。
裁判員制度については知ってはいるけど、身近で裁判員になった人もいないし、自分にはあまり関わりのないものと思っていました。
なので手紙を貰った時は正直驚きました。まさか自分に来るなんて。
裁判員候補者名簿への記載とは、裁判員の候補としてあなたを登録しましたよという意味です。毎年、20歳以上で選挙権のある人の中からくじ引きで候補者を選び、各裁判所で裁判員候補者名簿を作成しています。(名簿の有効期限はだいたい1年間)
この名簿に名前が載った段階で手紙が来るだけで、実際には事件毎にさらに候補者の中からくじ引きをして「裁判員選任手続き」に呼ばれる人が決まります。
そして、その選任手続きに呼ばれた人の中からさらに、くじ引きをして裁判員6名と補充裁判員2名を選出します。
ちなみに選任手続きに集まった人は30~40人でした。ここで裁判員と補充裁判員に選ばれなかった人は、その年に選任手続きに呼ばれることはありません。

裁判員の活動「審理への出頭」

日本弁護士連合会HPより抜粋
(https://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/index.html)

上図にあるように、選任されてからは実際に裁判の審理に参加し、検察側・弁護側双方の主張を聞いていきます。この辺はドラマで実際に見る法廷のシーンを想像すると分かりやすいです。
僕はドラマ「リーガルハイ」が大好きだったので良く観ていたのですが、やはりドラマはドラマ。あんなドラマチックな展開は起こらないし、傍若無人な弁護士はいません(笑)。
それでも、裁判を傍聴すること自体が初めての経験だったので新鮮に感じました。
聞いていた印象としては、僕ら裁判員や傍聴席の人たちのことを思ってか、検察側も弁護側も双方ともにとても丁寧な説明をしてくださいました。
難しい専門用語とかはほとんど出てこないし、一部出てきたとしてもちゃんとその場で説明をしていただけました。
逆に大変だったことは情報量の多さです。今回の事件の事情もありますが、事件の全体図を理解するのに必要な情報が多く、被告人が置かれている状況も理解しないといけないため本当に大変でした。
裁判員の期間は5日間だけで、その短い時間の中で内容を理解し結論を出さねばなりません
初めての経験のため、どの情報が大事なのか自分の中での重みづけも出来ない状態でした。
それでも何とかなったのは、裁判官が評議でファシリテートしてくれたおかげでした。

裁判員の活動「評議」

先の画像の④「評議・判決」では、裁判官と裁判員みんなで判決をどうするか評議します。
全員で意見を出し合いながら、起訴状に対しての有罪・無罪の認定と、有罪の場合は量刑(どのくらいの懲役とするか)を決めます。
裁判官によるファシリテートの元、全員が意見を出し合っていきます。例えば「あの証言についてはどう思ったか?」「(他の同様の案件と比べて)被告人の責任の重さをどう評価するか?」「被告人の反省の具合はどう感じたか?」「懲役何年が妥当だと思うか?その理由は?」等の問いについて意見を出していきます。(他にもたくさんあります)
様々な観点から今回の事件について考え、みんなで意見を出していきました。
議論が足りないところは後で改めて深堀っていったり、疑問点やスッキリしてない部分をつぶさに拾ってくださったり、丁寧な進行だったと思います。
裁判所で貰った資料は家に持ち帰れないため、帰宅してから裁判について考えることは難しかったのですが、逆にそれが良かったと思います。
というのも頭を切り替えられたので、必要以上に心労がたたることもなかったのです。
ただでさえ情報量も多く、人を裁くという責任の重さで疲弊していくので、メリハリを持って臨まないとしんどくなっていくばかりだと思いました。
そのへんのメンタルケアも裁判員には用意されていて、心理カウンセラーによるカウンセリングも無料で受けられるようになっていました。
僕の周りで受けている方はいませんでしたが、事件によっては心理的に負担となることは容易に想像出来ます。
評議では参加している人全員に意見を求められるため、何かしら自分の考えを述べる必要があるのですが、僕は最初これが苦手でした。というのも、自分が意見する資格はないと思っていたからです。
裁判員に選ばれたとは言え、法律に関してはズブの素人。
事件のことも全てを分かっているわけではないし、知識も理解も浅い自分に人を裁く資格があるのか…。
そんな悩みを裁判長にした事があります。すると裁判長はこんな風に言ってくれました。
「だからこそいいんですよ。正しいとか間違ってるとか、そんな事は気にしなくていいんです。あなたの意見をこの場では必要としているんです。」
これを聞いた時、救われたような感覚になりました。あぁそうか、僕は自分の意見を言えばいいのか。僕一人で頑張る必要はないんだな、と。
思えば仕事でも私生活でも、「自分なんかが意見するのはちょっと…」って遠慮することは良くあったなと思います。
僕は「正しい意見」を出そうとしていたんだと思います。しかし、正しい意見とは一体何でしょうか?何を以て正しさを決められるんでしょうか?考えれば考えるほど、それは極めて難しい、ほぼ不可能なことだと分かります。
僕はきっと自分の意見に自信がなかったのです。だから「正しい意見」を求めていた。でもその必要はなかったんです。僕は、僕の意見を言えばいいのだと。
裁判長とのこのやり取りの後に哲学者モンテーニュの言葉を思い出しました。
『私は自分の意見を述べる。それが良い意見だからではなく、自分の意見だから述べるのだ。』
実際に議論を重ねていって、全員の意見がバラバラであることに驚きました。
被るところもあれば、全く逆の意見のところもある。かと言って、まるで理解出来ない意見というわけではなく、共感できる部分もあったりしました。
そして、正解のない議論であるため、誰かが評価を下さなかったのも有難かったです。僕も素直に自分が思ったことを話せるようになりました
裁判官の中でも迷う部分があったりする事が分かって、とても嬉しかった記憶があります。裁判官も僕らと同じ人間であり、必ず正しい選択が出来るわけではないのです。ある程度の経験則で以って答えは出せるかもしれないが、議論を重ねたという手順そのものが大事なんだと思いました。でなければ裁判員制度は必要ないからです。

裁判員の活動「判決内容の評議〜記者会見」

判決の内容についても、裁判員と裁判官で一緒に考えました。
今回は有罪だったため、量刑(懲役をどのくらいにするか)を考えなければなりませんでした。
一人一人が被告人に妥当だと思う刑の長さとその理由を述べていき、議論を重ねます。そして、最終的には多数決で決めます。この多数決にはいくつかルールがありますが、そのうちの一つに「裁判員、裁判官それぞれ一人ずつ票が入ってるものでなければならない」というのがあります。つまり、裁判員だけの票でもダメだし、裁判員の票がないものもダメというわけです。
そして、量刑が決まり、裁判員立ち会いのもと裁判長が判決を被告人に言い渡して裁判は終わります。
この後、裁判員は任意の人だけで記者会見を開きます。
記者会見と言ってもテレビで観るような大掛かりなものではなく、新聞記者二人だけの軽いインタビューを受けるような感じです。
裁判員をやってみての感想を聞かれ、素直にそれに答えていき、およそ20分くらいで終了します。
これで僕の裁判員の役目を全て終えました。
終わって地方裁判所から出た時は達成感に満ちていました。大変な日々だったけど、裁判員と裁判官みんなで結論を出せた事はとても有意義だったと思ったからです。

罪と罰について

さて、ここからは裁判員という経験で特に悩まされた「罪と罰」について書いていきます。
今回の被告人は有罪であったため、量刑を決めなければいけなかったのですが、これが難しかった。
自分が下した決断によって人の人生を変えてしまうということの責任の重さをずっしりと感じました。
そもそも刑罰は何のためにあるのか?裁判官には以下の三つの目的があることを説明していただきました。
①被告人の反省を促し、再発を防止すること
②社会一般の人が犯罪をしないようにすること
③犯罪行為に見合った責任を負わせること(応報)

上記の目的を忘れないように量刑を考えていましたが、裁判員と裁判官の中でも意見が分かれたのが「被告人が置かれていた事情をどう判断するか」というものでした。
犯罪行為自体を切り取り、被告人の個別事情を取り除いた上で量刑を考えた時はそこまで意見のバラつきはなかったのですが、被告人の事情については人それぞれ評価が異なっていました。
詳しいことは書けませんが、審理の中で被告人が置かれていた状況をかなり細かく聞くことが出来ました。
僕はそこで「自分にとって当たり前に思っていることが、当たり前じゃない人がいる」ということに気づかされました。僕が過ごしてきた環境とはあまりにも違っていたからです。
恐らく本やニュースなどで罪を犯した人の半生を知る機会はあったはずですが、実際に生で当事者に会って聞くとそれが現実感を持って脳裏に焼き付くのです。
自分の世界の狭さに少し嫌気がさしました。
よく「なんであんな酷いことするんだろう」と犯罪のニュースを見てて思いましたが、それをまざまざと見せつけられたような感じです。
犯罪行為に共感するつもりは毛頭ないですし、被害者の心の傷を思うと僕も被告人に対しては怒りと恐れの気持ちが湧いてきますが、その置かれていた環境を知ると「これは社会の問題でもあるんじゃないか」と思わざるを得なかったです。
犯罪はダメです。被告人は自覚の上での犯罪行為であったため、断じて断罪されなければいけないです。
ですが、悪事に手を染めるしかなかった環境を生み出したのは一体誰なんでしょうか。僕は今回の被告人の置かれていた状況を聞いていて、それは社会の受け皿がなかったのも大きな要因なんじゃないかと思っています。被告人自身の意思の強さや、周りのサポートも当然大事ですが、やはり大きな仕組みとして被告人を支えることも必要だったのではないでしょうか。
そんな事も考えていたため、量刑を決める上での被告人の事情の評価はとても難しかったです。被告人の罪は、被告人の事情とは切り離せないものなんだということが良く分かりました。
一体、どれくらいの期間刑務所にいれば被告人は更生してくれるのだろうか?
僕は最後まで正解が分からなかったですが、自分が一番正しいと思った意見を評議では出しましたし、みんなで議論をたくさん重ねて結論を出せたので満足しています。
僕は、人にとって最大の罰とは自由と時間を奪うことなんじゃないかと思うんです。
皆さんも生活をしていて、突然ご自身の自由と時間を奪われたらどうでしょうか?
その奪われた時間の中で罪と向き合い、悔いて、社会に生きる者として貢献するよう更生する。これが大事であるため、刑務所に入れてはい終わりというわけにはいかないんです。
何にしたって一人で立ち直れるほど人間は強くない。だから、周りのサポートが絶対に必要です。そのためにも、家族や友人といった身近なところだけじゃなくて、国や自治体の支援も不可欠だと思います。
そして、僕ら一般人も罪を犯した人に関心を持つことが一番重要かもしれません。
僕は裁判員をやるまで、犯罪を犯した人は勝手に刑務所に入り、自分が知らないうちに刑期を終えていくと思っていました。
でもそれは間違いでした。多くの人が奮闘し、被告人は罰を与えられ、そして刑務所に収監されていくのです。刑務所の中での刑務生活を終え、そして社会復帰をした後で新たに人生をやり直すまで一体一人でどうにかなるでしょうか?
多くの人が関心を持ち、何か行動に繋がれば、きっと変わると思っています。別に国を変えようとかそういう話をしたいんじゃなくて、「自分に出来ることはなんだろう?」と考えることが重要だと思うんです。
僕も最近良く考えますが、まだ答えは出ていないです。

おわりに

長くなりましたが、裁判員の経験についての感想を書かせていただきました。
これを読んでいる皆さんにも選ばれる可能性はありますが、もし選ばれることがあればぜひやってみて欲しいと思っています。
あなたの人生においてきっと有意義な経験になるからです。

もし裁判員経験者の方でこれを読んでいる方がいらっしゃったら、お話ししませんか?お互いの感想や考えを話したいなと思っています。

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました。

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