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バンドがやりたい大学生③

5月連休も中盤。外出制限下、子供と滑り台をしたり家で昔のクレヨンしんちゃんを観て果てなく笑っている僕は三流のまま。飼い猫の目つきが「今日もいるのか」と言っている気がするようになってきた。

前回の記事、バンドがやりたい大学生②ではバンド「Jackknife Bicycle(JKB)」と「Pastwalker」の話を書いたが、今回はもう少し大学のサークルでの出来事、そして「Die Communications」の結成の経緯や当時のことを書いていこう。

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前述の「デマンドファック事件」後の学園祭ライブを終えるとサークル運営は3年生から2年生に移管され、そこから1年間を「幹部」というものものしい名称の立場となる。

それくらいになると大学のサークルメンバーともそれなりに打ち解け、活動を楽しむ余裕が出てきていた。活動時間以外にもサークルメンバーと時間を共にしたり、好きな音楽を教えあったりすることも増えた。僕はあまり詳しくないので教えられるばかりだったが。それだけ彼らの音楽の知識はとんでもなかったし、それが自分の音楽性にも影響を与えた(影響を受けやすい性格なので)。

特に先輩がやっていた「The Tigers」や「The Lions」、そして松岡、ナカジ、コンくんによる「キリエ」といったバンドによる「メロディックパンク」は、今まで僕が聴いてきたパンク(「最近のメロコア」と呼んでおこう)とは似て非なる衝撃があるものだった。

中でもキリエのナカジは「メロコア好きなら多分これも好きやで」と言っていろいろなメロディックのバンドを教えてくれた。枚挙にいとまがないがI Excuse、NavelなどSnuffy Smileというレーベルに関係していたバンドが多かった。もとはHi-STANDARDなどメロコアとして有名になったバンドもそこからレコードを出していたという。

その頃、今まで好きだった「最近のメロコア」に関しては、好きなバンドのライブを観に行っても観客同士で盛り上がって肩を組んだりハイタッチが始まったり、バンドが観客に組体操をさせたり…もともと内向的な性格だった僕はそんな雰囲気が徐々に居心地の悪さに変わりはじめ、曲は好きなはずなのに、少し嫌気を感じていた。

いつからか自分の中では「メロディックパンク」こそ崇高なもので「最近のメロコア」は良くないものという思想が芽生えていた。本当は好きなのに。

…そう呼び分けていたけど両者の音楽性違いは明確に説明しづらく、僕は男らしいかそうでないかくらいの区別しかしてなかった。上でリンクを貼ったYouTubeの動画のコメントでも「この感じのメロコアは好きなんだ」というコメントがあるが、確かに「この感じ」とかで区別されている気がする。そもそも「メロコア」だって「メロディックハードコア」の略だけど、まさしくメロディックなハードコア音楽をそう呼ぶこともある(というか本来そういうバンドに対して使う言葉のはずだ)し。

どんな音楽でもあると思うけどこういうジャンル分けは人によって認識が違うのもあるし、あまりこのバンドはどうだとか言うのはやめておいたほうがよい。好きな音楽は応援、気に入らなければ放置しておいたらよい。余計な干渉は平和をもたらさないし、読んでるみなさんも「メロコア」のゲシュタルト崩壊が起きてきたころと思いますので。

ちなみに僕は当時よくない方に判定された場合、他の人に見られたら恥ずかしいとか思って以前聴いていたバンドの曲をiPodのライブラリから消したり、YouTubeに低評価をつけたり(やめましょう)していた。今思い返すととても心が狭いな。本当は好きなのにね。中学生かよ。


ともかくそんな自分が勝手に作り上げたつまらない了見に左右されてはいたが、アンダーグラウンドな活動をしていたメロディックパンクバンドに内面から燃え上がるようなあつい魅力を感じていたのは事実だった。

特に同い年のキリエは京都内外のライブに頻繁に招聘されるなど精力的な活動を見せており、サークル内での人気も高かったしライブも説得力がありかっこよかった。僕はそれをクールな目線で眺めながらも内面では羨望のまなざしで見つめていた。

高校生のときにドラムを始めていれば今頃自分がドラマーだったかもしれないのに…と、いわれのない恨みを向けられる高校生の僕なのであった。

そんななか3年生から4年生に上がるころ、とあるバンドから加入の誘いを受けた。

「HADASI」というバンドだ。ギターにキリエの松岡、とパラメヒコというバンドとThe Tigersの小池さん、ドラムが当時パラメヒコの高橋さん、そしてボーカルがジロウと呼ばれるシューゲイザーとブラックメタルが好きな男だった。

今回その高橋さんが卒業・就職するため、その後任として白羽の矢がたったのだ。思えば今まで僕の同年代でドラムに誘うのならコンくんというのが定石で、キリエ以外にもポップな音楽のバンドからパワーバイオレンスまでドラムを務めていた。彼は楽器に関しては努力を努力と思わない才能がある(だけでなくスマブラや魔界村もうまいなど多才である)。

それだけに僕がドラムに誘われたのは、自分の中でひとつ次のフェーズに入ったように思えた。技術的にはかなわないのは置いといて。

この動画はベースレスなんだけど、ベースは小池さんが弾いたり弾いてなかったりしていた。  

その年の学園祭ライブにJKB、HADASIの両者が出れたのも嬉しかった。    

学園祭ライブのフライヤー。GEZANとかbachoとか出てるバンドも良いけど、イベントタイトルも時代を感じられて良い。


そういえば、同時期にMOTHERというバンドのオオツカとキリエのナカジと3人で「デマンズ」というバンドを組んだが、そちらは学園祭のオーディションに落ちあえなく消滅した。

コンくんが参加していたパワーバイオレンスバンドの映像もあった。彼が参加する前はアメリカ人の留学生がドラムだったらしい。


そうして秋が深まったころだった。

松岡とコンくんから新しくバンドを組まないかと持ちかけられた。

もう僕たちは大学4年生。「今から?」とも思ったが、仲のよい友人でもあったし、卒業までの思い出が増えるのは大歓迎だった。新しく4人組のメロディックパンクバンドを組みたいらしく、そこでコンくんはギターを弾きたいらしかった。コンくんは「ベース弾く?」と言っていたが、僕は入学当初30秒で挫折したベースを彼に売りつけていたため、ドラムを担当させてもらうことになった。

ベースがいなかったので、サークルで毎週土曜日に開かれているミーティング(ここで練習部屋の使用時間を決める。少しでも遅刻すると立たされる上にそのバンドの練習が取れないという旧日本軍スタイル)に参加し、「新しくバンドをやります。ベースを弾きたい人はいませんか」とみんなの前で募った。すると1人の手が挙がった。

知らない1年生だった。

名前は「あつき」。別の大学に通っていたが、この旧日本軍に入りたいというめちゃめちゃ熱い思いを持って入部してきたソルジャーだった。しかしまだバンドを組めていないらしく挙手したらしい。

僕は今でも当時3つ上だった先輩に話しかけるのは勇気がいるが、そんなバンドに入ろうとした彼の心意気はすごい。  

メンバーが揃った。「The Die Communications」というバンドをやるということだった

(「The」はいつのまにか無くなった。ちなみにこのダイコミ、以前は大学内のライブでギター2人が「Die Communication」という名でドラムの打ちこみに合わせてギターを弾いているという謎のユニットだった時期がある)。

4人で練習に入ると、どうやらあつきはレッチリが好きで今まであまりピックでベースを弾いたことがないらしい。そういえば入学当初サークルの見学か何かをしにきた際に、ずっとスラップ弾きをしていたという理由だけで「ボンボ・ピピ夫」という心ないあだ名をつけられていた。  

当然メロディックパンクも聴いたことがなかった彼は松岡にこう指示されいていた。「ベースはピックで弾け、これは先輩命令だ」。彼は困惑していた。

そんな彼に松岡は「ルート音だけで良いから」と言って曲作りを始めた。「ルート音だけなら僕にもできるかもしれない」と内心思ったが、すぐ3曲が完成し、大学内の演奏会で初ライブを敢行した。

ついにサークル仲間とメロディックパンクのバンドを組めたことで、僕には今までにない充足感があった。2011年の暮れのことだった。


年が明け、松岡から「2月に岡山でのライブに誘われているので出よう」と提案があった。広島の「Fixing A Hole」というイギリスのメロディックパンク(「UKメロディック」と呼ばれている)のバンドの作品をリリースしているレーベルのイベントだった。

佐賀県鳥栖市からSLEEP LIKE A LOGとJIM ABBOTT、広島のCOBRAHEAD、岡山のWHAT'S WHATといった、僕にとっては今まで経験したことがないメロディックパンクのライブ。

Fixing A Holeは聞いたことはあるレーベルだったが、ホームページがめちゃくちゃシンプルなので、おそらくスキンヘッドでめちゃくちゃストイックな熊みたいな人がやってるんだろうという話をして4人で戦々恐々としていた。

こうなると武器になるCDがほしい。しかしライブは来月だからスケジュール的にレコーディングスタジオでの制作は困難。ちょうど個人的にMTR(マルチトラックレコーダー、それぞれの楽器をバラバラに録音できる機械)を買っていたこともあり、サークルの練習部屋で録音を開始した。

勢いだけで6曲の楽器を録音した。いやこの部屋・この設備なら勢いに頼るしかない。

また、他のサークル員も使用する兼ね合いもあり、歌の録音だけは別の場所でおこなう必要があった。

ノリと勢いで進めているレコーディングだったからとりあえずへんな場所で録音したくなったのだろうか、僕たちはコンくんのマンションの部屋にマイクスタンドを立てた。

おおかたの予想通り、松岡のシャウトにより、1曲目の序盤で苦情が寄せられ宅録は中止になった。


数日後僕たちは「京都市北文化会館」を訪れた。

バンド練習ができる練習室があったのを知ったからである。なぜ普通のスタジオに行かなかったのか、それはもはや説明がつかない。それがこのデモCD制作における我々の勢いだったのだ。

京都市の施設の一室に松岡の絶叫が響き渡った。部屋そのものがキンキン共鳴しており、建物ごと突如崩壊するのではないかと思った。


そうして録り終えた音源を松岡の当時住んでいたマンション「ぽえむ西陣館」でミックスした。松岡、このマンション、名前で選んだのではないかと思う。

さてそうして僕たちの卒業制作ともいえるデモCD「Risk」が完成した。

制作期間は20日ほどだった。


実はCD完成を急いだのにはもうひとつ理由があった。

Die Communications結成以来、練習後などことあるごとに4人で訪問していた「うさぎ屋」というラーメン屋さんがあった。

とくにバンドをやってる京都の大学生中心に当時絶大な支持をあつめた二郎系ラーメン屋だが、毎回4人で行くので徐々に大将「かやまさん(Hawaiian6のハタノさん似)」とも仲良くなり、「バンドをやってるならCD聴かせてよ」という話しになっていたのだ。

完成したCDの1枚目をかやまさんに渡しに行くことは、誰も口にせずともわかっていた。みんなでラーメンを夢中で吸い込んだあと「CDができました」とかやまさんに手渡すと、かやまさんは嬉しそうなのかどうなのかわからなかったが、脂とニンニクまみれの手でそのCDを受けとってくれた。


次回、また4人でうさぎ屋に行くと、普段は東京事変がかかっている店内のようすが違う。

立て付けの悪いお店の扉をあけると、松岡の金切り声が耳に飛び込んできた。

自分たちのCDを聴きながら知らない人たちが必死に二郎系ラーメンを口に詰め込んでいる。そんな光景を見ることは後にも先にもこのときだけだろう。

「かやまさん、お元気ですか、僕たちはなんとかやっています。」


こうしていよいよ岡山でのライブ当日を迎えた。

何度か他のバンドの運転で駆り出されていた、「ケツの穴痛野友美カー」(他のバンドを乗せて行った名古屋の味仙で台湾ラーメンを食べた後に命名された。日産デュアリス)を親から借りてコンくんの家に集合し楽器を詰め込む。すべて一般道で行くという大学生がやりそうな目標を立て出発。遠征ライブってこういうとこが楽しいよね(そのうち時間が間に合わなくなり、高速道路で岡山入り)。

会場はCRAZYMAMA1。ママワンと呼ばれるスタジオ兼ライブハウスのような場所だ。いかにもな雑居ビルを登っていくと共演するバンドの面々と思われる人たちが顔を揃えており、その中にいた同道さんが明るく出迎えてくれた。僕は「よかった。スキンヘッドでもめちゃめちゃストイックでも熊でもなさそうだ」と思った。初対面であった同道さんは共演するバンドの人たちに僕たちを紹介してくれた。

僕らのライブは1番目だった。

歌声がTHUMBの岡田さんそっくりでぶち上がることでおなじみ、COBRAHEADの映像もあった。  

会場はめちゃめちゃ狭い空間だった。壁の中に隠れている麻原彰晃を捜査員が追い詰めているような写真だが、ライブ中である。

この日はSLEEP LIKE A LOGとCOBRAHEADの解散ライブだった。WHAT'S WHATやJIM ABBOTTのかっこよさにも度肝をぬかれた。こんな瞬間のためにバンドをやっていたんだ。

作っていったデモCDもすべてなくなったので嬉しかった。

この日の打ち上げ後、同道さんがとってくれていた旅館へ行き、そこで同道さんから思いがけない提案を受けた。

「『Fixing A Hole』からアルバムを出さないかい?いや、出してください。お願いします。」

驚く一同。あつきが興奮した様子で「インディーズデビューですか⁉CDショップに置かれるんですか⁉」とまくしたてる。修学旅行のように旅館の一室ではしゃぎまわる4人であった。

こうしてDie CommunicationsはFixing A Holeからアルバムをリリースしてもらえることとなった。松岡とコンくんは卒業旅行でタイに行くつもりだったようだがあきらめて再度レコーディングをすることに。

とは言え4人中3人はまもなく大学を卒業する。タイ旅行をあきらめた2人も1か月後には京都を離れることが決まっていたから時間はなかった。

僕たちはデモCDの曲を再録+新曲を収録することにし、急いで準備にとりかかった。

レコーディング場所はハナマウイ。

また自前のMTRでセルフレコーディングするしか時間的な猶予を考えると方法がなかったが、サークルの大先輩であるオーナーの宮さんにも手伝ってもらい、なんとか録り終えることができた。


一仕事を終えた僕たち。やはり向かうは「うさぎ屋」。そこでラーメンを食べた後、コンビニでスーパーカップバニラを買い、松岡のマンション「ぽえむ西陣館」に入り浸るのが定例になっていた。

卒業式の日もそうだったし、松岡がマンションから退去する日も彼の母親とともに引っ越しの手伝いをした。  

1か月後には自分たちの生活がどうなっているかもわからない。そんな中であの場所で過ごした時間はなんとも形容しがたい感情とともに記憶に残っている。

そして、2012年4月。4人はそれぞれの場所へ散らばっていったのである。

「Die Communicationsを死なせない」という思いを胸に。  


続く。  

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