詩に人生が出るよねって話

ついさっき、歌会に参加してきました。

ここでの歌会とは、何人かで集まって、お題を決めてそれぞれ短歌(57577、計31音の定型詩)を作っておいて、決めておいた時間に集まってみんなで見せ合って、わいのわいの感想を言い合う、というものを指します。僕らのところではこんな感じですが、他のところではどういう風に進行するんでしょうねえ、歌会。

僕らのところでは毎週土曜日の夜に集まります。実は今回が第7回目なんです。メンバー全員が歌会未経験者のため、まだまだ手探り状態。ちなみにお題は「笑い」でした。

歌会に参加して知ったのは、詩にはその人の人生が出るということ。

「笑い」も十人十色といった感じで、ひとつとして同じものはありませんでした。

詩ってなんでも自由に書けるような気がするんだけれど、実はそんなこと全くないんです。これ、実際に作るとわかるんですが、自由過ぎて、何かに基づかないと書けないんです。

言葉が出ない時に頼りになるのは、現在の自分の経験だったり、覚えている誰かの言葉だったりするんです。ね、人生でしょ?

創作の数を重ねていると、何回も同じテーマを扱っていたり、モチーフに偏りが出てきたりして、人間一人が作ることができる詩ってそんなに多くないんだな、なんて思います。

自分を知るために詩をやる人も意外と多い。詩を作ってたらなんとなくバチっとハマった気がして、完成後改めて見返してみると「ああこれは幼少期のあの体験だ…」とかそういうことよくあります。詩になってはじめて自分の気持ちに気付いたりとかも。

詩=ポエムを「イタい」と遠ざける人っていますよね。これ、詩をやってる僕から言わせてもらうと気持ちはわかります。わかりますが、「イタい」と感じるのは、詩があまりにも赤裸々だからです。だって人生が出るんですよ?ごまかしが効かないし、ごまかしごまかし書いた詩は本当に小さくてつまらなくなる。

詩を遠ざける人は、人間という存在と真正面から向き合いたくない人たちなんじゃないかな。

コロナ云々で時間ができて、自分を見つめなおす良い機会、みんな詩をやったらいいのにと思います。こんなに「自分」が出るものはなかなかないです。また、詩を鑑賞して「他者」に触れるのもいいんじゃないでしょうか。

特に現代短歌は、邦楽を聴いて「良い歌詞だな~」と感心した経験さえあればすぐに楽しめるのでおすすめです。

現代短歌って短歌と何が違うの??って方へ。現代短歌=今風の短歌 と思っておけばとりあえず大丈夫です。

(現代短歌じゃない短歌の例→東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ/柿本人麻呂)

逆に現代短歌ってどういうかんじ?というとこんなかんじ。

牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に/中澤系

体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ/岡崎裕美子

永遠に忘れてしまう一日にレモン石鹸泡立てている/東直子

短歌を鑑賞するとき、「この詩は何を言わんとしてるのか?」と深く考えずに、雰囲気だけさらっと感じるように読むやり方があります。短歌に限らず、俳句にも歌詞にも、どんな詩にも言えることですが、これを「詩の手触り」と表現したりします。

詩を読むとき、意味は案外重要じゃないんです。石ころを拾って眺めるように読んでみてください。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさみしい/穂村弘

僕の一番好きな短歌です。つらくて吐き出しているのに、どこかあたたかい。よくわからないけど。

よくわからないけどなんか好き、という短歌を探してみてください。これは短歌がある程度分かるようになってからも使える鑑賞方法です。これをニワカとか言う奴は短歌をよく分かってないヒヨッコなので無視して大丈夫です。

話が脱線しまくってしまった。

今回は短歌を知らない人向けの文章だったけど、短歌をやってる人の詠んでもらいたい文章も書きたいな。そのうち。


追記 ありえん眠みで書いてるので文章がガタガタになってます。すみません。寝ます。


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