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ただの日記が、特攻隊につながる。

AM6:50
僕「行ってきまーす」
子「早く帰ってきてねー」
僕「努力するわ!」(頑張るとは言わないようにしてます)。
子「何時頃帰ってこれる?こーたんが寝るまで帰ってこれる?」
僕「なんとかやってみます!」

「バイバーイ」・・・「バイバーィ」・・・「バイバーイ!」・・(扉が閉まっても)「バイバーイ!」(と部屋から聞こえてくる)・・「バイバーイ!!!」・・・・・・・。その後はマスク越しの呼吸音が静けさを強調する。

2020年・・・こんな日常的な会話が交わされる幸福。

『特攻隊映画の系譜学―敗戦日本の哀悼劇』[中村秀之,2017,岩波]によれば、これまで「特攻隊」について描かれた映画は33本(2018年現在)。なぜボクが「特攻隊」を括弧付けにするかと言うと、一言で「特攻隊」と言っても、例えば鹿児島県の知覧は「特攻隊」(陸軍)ですが、同じ県内に所在する鹿屋基地(海軍)はさほど知られておらず、更には鹿児島県だけでなく現在の海外から特攻を試みた人たちもいた。

そうであるなら「特攻」隊員が居住していた場所と彼らの「知人」「友人」「恋人」「家族」なども一枚岩的には語れない。仮に1000000000歩譲って語るというのであれば、「特攻隊」という存在について、映画やTV番組を中心とするメディアだけで得た知識のみを信奉する(鵜呑みにする)人だけに与えられた特権となる。ただしその構図、考えてみると75年前と変わらない。

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「特攻隊員」の本質的な悲劇性を何処に求めるか?
と考えたとき、上記2020年の対話に深く関わると考えている。確かに同じ釜の飯を食べ、同じ風呂に入り、セミのような短い夏の日々を一緒に過ごした大切な戦友はいたかもしれない。しかし、彼らが書き残した遺書などを読んでいると(これは特攻隊員だけに限らないが)、やはり離陸基地から遠く離れた故郷の親、兄弟、パートナー、子どもに向けたものが多くを占める。

「ごめんなさい」、「すまない」、「帰れない」、「後を頼む」

といった感情が大抵の手紙を貫く骨子である。そんな絶望的な悲しみを紛らわせるコアとして機能していたひとつが国体、天皇、皇国、軍神といった神話的世界だった。しかしそのような宗教的観念とは異なる、

実際に会いたい人、会って抱きしめたい人、世話をしたい、話をしたい人、そんな人達から・・・

遠く遠く・・・(都市化に関わる歌が多いな)。ケツメの『東京』、くるりの『東京』とか。

帽子を振られつつ、訳の分からない「死」へと直線的に向かう。直線や流線型は、新幹線に象徴されるように現代を特徴付けるひとつの特徴ですが、既に戦中にまで遡れるのではないか、とさえ思います。

で、この近親的「バイバイ」が果たされなかったこと。これこそがまさに「特攻隊」の悲劇性ではないか、とボクは思う訳です。確かに個人主義は戦後に進展したものですが、やはり血縁(特に父母、子ども)に対する感情は計り知れない。ほんの一例ですが、

「パパ、早く帰ってきてネ、バイバイ」
「わかった!」
「ただいまー!」
「おかりー!」


といった会話がそもそも成立しない悲しみ。

加えて言えば、誤った右翼的思想を持つ現代の日本人は語らないものの「特攻隊」には今で言うところの在日コリアンも存在した。卓 庚鉉(タク・キョンヒョン)氏などが有名でですが、今でさえ「特攻」を「日本的」「ハラキリ的」「武士道的」美と論じつつ、在日コリアンを敵視する日本人にはそんな事実自体が伝わらない。

その理由は、自分自身が好きな、都合の良い対象しか見ようとしないからで(これ大問題ですよ)、まさに現代的な害である。彼らも家族や親族・友人を朝鮮半島に残したまま片道燃料のまま飛び去った。「特攻隊」もまた他の事象と同様に、一枚岩では語れない。

僕の場合、帰宅が遅くなって子どもとの約束を守れなくとも、

「バイバーイ」・・・「バイバーィ」・・・「バイバーイ!」・・(扉が閉まっても)「バイバーイ!」(と部屋から聞こえてくる)・・「バイバーイ!!!」・・・・・・・。

この後続にいくらでも活き活きとした、エピソードを加えることができる。同じ「サヨナラ」でも意味が違う。

しかし「特攻隊員」個々人にとっては、そのような後続の物語を紡ぐ可能性を遮断した末に自己がある。

実際に会いたい親しい人々たちから遠く離れ、エンジンを稼動し、離陸する。戦争には色々な要因が付き纏うし、個々人の選択決定どころか、そこに至るまでに巨大なパワーが影響している。だからこそ、「特攻隊員」の悲劇性とは現代社会に生きる我々に身近なものだとも言える。

自分に置き換えること、想像することがもしも許されるのであれば、独りで戦闘機に乗り込むその姿勢と背中こそが、とりわけネット時代の現代において、強烈な悲しみに覆われます。

後はメディアとは距離を置いて、自分自身を白線で囲って、小説も学術論文や映画にもコミットしつつ、ご自身で考えて判断してください。
※僕は百田派ではないですが、映画よりも小説に見えた調査への執念には脱帽しました。

「いや、逝けっていうなら逝きますよ、でもアンタのためじゃないからね」

PM8:30頃
僕「ただいまー」
相「おかりー」
寝室に入る。
子「ぐーぐー、すやすや・・・」

ちゅっ。


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