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2022年、春のできごと。

忘れられた紹介状


「この公園は毎年桜が遅くまで残るんですよ」

病院に向かうタクシーで、運転手さんが嬉しそうに言った。
河原沿いの桜並木は満開で、わたしはこの日の景色を忘れないだろうとなぜか思った。

鞄には地元のクリニックから預かった紹介状が入っていた。
そのクリニックは一度しか行ったことはない。そこもまた、かかりつけの耳鼻科の医師からの紹介で行ったからだ。

「あれ、音が聞こえにくいな」
初めにそう気づいたのは、2年前のことだ。耳鼻科で「突発性難聴」と診断された。高音が聞こえづらくなり、テレビの音や子どもが遊ぶゲームの音が不快になった。

一旦は投薬で良くなったが、またしばらく経ち、聞こえの悪さが気になってきた。
耳鼻科の医師は、「気になるからMRIをとった方がいいかもしれない」と近所の脳外科クリニックを紹介してくれた。

当時私は転職したばかりなうえ、プライベートでもごたごたしており、病院の予約をすっかり忘れて数カ月が過ぎた。

ふと机の片付けをしているときに、放置していた病院の紹介状がひょっこり現れた。
脳外科クリニックへの初めての電話は、「すみません、紹介されてから4ヵ月くらい経ってますが、紹介状って期限ありますか……?」から始めたのだった。

「ああ、あるねえ」


脳外科クリニックに着いた時は、「何もないことを示すための検査」をするために来たつもりだった。そのため、少し遠出したから、帰りに散歩でもして帰ろうかなあ、などとのんびりしたことを考えていた。

MRIは何度か受けたことがあった。脳内に響くガーガーピョロピョロという巨大音もさることながら、とにかくあの狭さがつらくて、本当に苦手だった。

あまりに怖がっていたら安定剤を出してもらえた。「目を瞑っていたほうがいいですよ」とアドバイスしてもらう。

まあ、好奇心で結局目を開けてしまうのだけど。

20分くらいだろうか、時間の感覚がなくなる空間から出て、謎の達成感を感じながら検査結果を待つ。まさか、そこから何度もこの苦手な検査を受ける羽目になるとは、その時は微塵も考えていなかった。

「ああ、あるねえ」

その医師はMRI画像を見て、やや明るくそう言った。私の目から見ても、あった。

脳内にはっきりと写る、真ん中にある何かに食い込むような白い丸。

「聴神経腫瘍だね。良性だよ」

私の脳みそ、凹んでるな。よく生きてられるな。
MRIに晒されたばかりで疲れた私の頭は、想像していなかった病名に、思考が追いついていなかった。

大きさは25mmくらいだと言われた。小さくはなかった。

「先生、これはこの後どうしたらいいですか」
「まあ、なんとかしたほうがいいだろうねえ」
「……取らないといけないってことですかね?」
「そうだね。でも良性だからね」

その医師は、この辺ならいつもあの先生を紹介するんだ、と少し離れた総合病院の脳神経外科の医師への紹介状を書いてくれた。医師は終始、わざと重くないように話しているように思えた。人がそういうトーンで話をするのは、「いい話ではないとき」だと経験上知っている。

今度は家に帰ってすぐに、総合病院の予約を取った。

聴神経腫瘍とは、良性の脳腫瘍だ。

治療方法は二つある。手術かガンマナイフと呼ばれる放射線治療だ。
紹介してもらった総合病院の医師は、ガンマナイフの権威だった。
そのぶん、病院のホームページには症例や術式が細かく書かれていた。

私に突如として降りかかった災難は、どのくらいのインパクトのあるものなのか。やらなきゃいいのに、仕事病なのだろう、調べ尽くさないと落ち着かない。

ガンマナイフの適用であれば、手術は2泊3日の短期間で済むが、難しければ開頭手術となり、2週間前後の入院になる。

期間はともかく、論文まで読みまくってわかったことは、「良性腫瘍」だからといって、開頭手術となればなんら簡単ではなく、むしろ難易度の高い手術であるということだった。さらに、摘出したからといって聴力は改善もしないということもわかった。むしろ、手術によって聴力が悪化したり、顔面麻痺を引き起こしたりするらしい。

「良性だから」というのは、完治できる、という意味でプラスである。ただ、QOLの低下は免れないのだろう。クリニックの医師の口ぶりは、なんとなく「小さい腫瘍ではない」ことを思わせるものだった。もしかしたら入院は長くなるのではないか。

私が2週間もいなければ、家族が困るだろう。すぐさま夫、義実家、実家に連絡し、いざという時の家のことを任せたいと伝えた。まだ確定はしていなかったのだが、長期入院は免れないように思えた。調べつくした結果なので、だいたいこういう予想は当たる。

診断後、耳の聞こえの悪さや、時折聞こえるピーンという音(意識していなかったが、たぶんこれは耳鳴りなのだろう)、飛行機に乗っている時のように耳が詰まったような感覚に、名前がついたような気がした。

25mmの白い丸が、私の耳の穴の出口を塞ぎ、ぎゅうぎゅうと成長していた。イメージはトースターで膨らむお餅だ。中から膨らまれたらそりゃ聞こえないよ。

名前のついた不調を抱えながら、タクシーは総合病院の正面玄関に到着した。

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