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太陽の様に生きる〜対極と太極

こんにちは。

ウチには猫が5匹います。

先日亡くなりましたが、姉も1匹猫を飼っていました。

猫はとてもマイペースです。

と言うより、

マイペース以外の回路を持っていないようにも見えます。

また、犬はそれとは逆に、人に従う。もしくは、

リーダーに従う。と言う生態を持っているようです。

自分らしさ。と、

『従う』性質。


対極の位置にある様に見えるのがなかなか不思議な事だと思いました(^^)。


猫は見た感じ、どこまでも可愛くて、美人といっても良い様な雌猫もいますし、

犬は、可愛いとは思えなかったとしても、物凄い注力でこちらを求めてくる様な感じもします。

(デジタル大辞泉の解説より)
古代中国の宇宙観で、万物を構成する陰陽二つの気に分かれる以前の根元の気。


対極と言う言葉で、ふと思いついたので調べて見ました。

太極と言う言葉があります。

上記の様な意味がある様です。

また、太極といえば、太極拳が思い出されます。

 太極拳は、古来より中国に伝承された武術です。「柔よく剛を制す」武術といわれ、小さな力で大きな力に克つために、相手の力の大きさと方向を察知し、柔軟な動きで相手の力を外します。現在では太極拳は健康法として親しまれていますが、本来は自分の力を最も合理的に使う高度な技法として使われていました。

(https://www.tyojyu.or.jp/net/kenkou-tyoju/shintai-kenkou/taikyokuken.html -健康長寿ネット-太極拳の健康に良い効果とは-より)


(自分の)力を最も合理的に使う高度な技法。

とありますが、

力をどう使うか。と言うことに精通している人ほど、より賢い賢者の様な人だと思う節があります。

また、昔持っていたtwitterのアカウントの投稿でこんな事を書きました。

「猫は体が柔らかい。柔軟だ。

食べたければ食べる。sexしたければする。眠りたければ眠る。

だからこそ、人間の様な生活習慣病に頻繁にかかる様なことは起こりえない。

猫に習う事は多い。」

実は、犬も自由です。

大好きだと思う相手がいたり、直感的に尻尾を振りたい相手がいれば、近づいていきます。

噛みたければ噛むし、守りたければ命を呈して守ります。

動物と対極にあると言われる『人間』もまた自由です。

よく言われますが、全ては自分の裁量で決められます。


義務に従う。と言うのも、

破天荒な人生を生きる。と言うのも、

全部、自我の側面においても、自己の責任においても、

ハンドルを握るからには背負うことにになる全ての責任を背負うことも任された上で。


この時、「対極」から連想した「太極」の意味がようやく見えてくる様な気がします。

「豊かで大きい」(例:太陽)

(https://okjiten.jp/kanji164.html - (漢字/漢和/語源辞典より))

対立するよりも、全ては一つ。

自分の目に映る全ては、対立を世界の軸としていても、

よくよく考えてみれば、通りを歩く人がぶつかりそうになれば避けたり、

ぶつかっても礼も言わないとしても、それがその人自身が自分のことを大切にしているとしたならば、

その時の「私」と同じ様な質の「私」を「大切にしたい」と言う言葉での共通点があると言う音でもあります。


共通点があったり、そう簡単には傷つけまいとしていたり、、、


「現実」とは、かくも、共通項で繋がっていて、

しかも、一心同体レベルの共感で出来ています。


読みの上での
対極(たいきょく)=太極(たいきょく)とは、、、

こんな風に、全ての生き物は仲間だよ。

それを、「頭を持つことが出来た』つまり、

「何かと何かを仕分けることが出来る能力を持った」

人間だからこそ、違ったものに共通を見出すと言う、

原点回帰を意識的に起こすチャンスを与えられたものだと

そう言う事もできたのかも知れません。

以前、テレビを見ていた時、

「潔癖症芸人 VS 汚部屋芸人」

みたいな企画がありました。


今はだいぶ影を潜めてしまったあるコンビの一人が、

「綺麗にするのが当然!」

と、意地になるのはおろか、もう完全にそれに染まりきって、被害者意識に駆られていて、

その状態すら当然至極=自然。と言う状態になってしまっていたのを見ました。

なんだか、身につまされる思いがありました。


拘りと言うのは私にも身に覚えのある体験だったからです。


こんな風に、劇的な反応を示すのは、

心理的には「コンプレックス(=complex-複雑性=複雑に絡まりあったある感情体験が、もつれにもつれた一つの塊となって現れている強い概念のこと)」がある証拠と言われています。


この人は、いつか、それが間違い…と言うと言葉は悪いですが、

もっと優しい言葉に変えると、

「自身の心を静寂と平和に保ち、緊張を緩めるのに大切だと言うことが本来の在り方である」


と、気づく時が来るのだろう。と思うのです。

実は、「自由選択権」があったとしても、こだわりがあると、複眼的且つ、複眼の中にある、

もう一つ、またもう一つと、存在するそれぞれの目に映る何かを想定しづらくなります。


そこにあるのは「感情的な詰まり」である。と思い込んでいましたが、

生まれつきの性質というのも関係が有りそうです。


では、どの様にして複眼目線を手に入れられて、心理的な安寧を手に入れられるのでしょうか?


それには、まず、

もう要らなくなった、と気づいた時点で、

「緊張」や、「緊張をもたらす被害者意識」を手放す必要があります。

手放しと言っても、そう簡単にはいかない。。。

と、言う場合は、こう考えて見てはいかがでしょうか?


「何故?手放せないんだろう?」理由を考えて対処。。。
ではなく、

「手放すにはどうしたらいいだろう?」

…そこで生まれた全ての考えやアイデアのうち、

叶えられそうなことから、猫の様に気の向いたときに、気の向いた分だけ、気の向いたものを
試してみればいいのだと思います。


すると、

猫の様にマイペースに、

本当に大切な人には犬の様に、

そして、本当の人間らしさを以って。


生きることが可能だと。そう感じます。

太極拳のアイデアもうまく使えます。

そもそも、体を通る全てのレベルの「経路」が滞っていれば、

猫の様に柔軟であった赤ん坊の時の様な健康な精神や体の状態は実現しづらいです。


体を柔らかくする。

体を破壊し、そのショックのために筋骨を緊張させる様なものを体に溜めない。


と言うのも大事かも知れません(人それぞれ、アプローチの方向性は全く違います。)

また、逆に言うと、

「体がふんわり柔らかい人の方が、柔軟な思考を持てる」とも言えます。

体質的に実現しづらい人もいますが、その人なりのパラメーターで、

より柔軟性に近づくことも出来るでしょう。

赤ん坊の様に、全てを敏感に受け取りながら、

猫の様にマイペース。

そして、自分が大切なものには忠実。

こんな感じだと、人生も楽になりそうですね。

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※以前懇意にして頂いていたギタリストさんのユニットのライブを観に行った時に撮った写真です。

(宮城は定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバルと言うイベントで、仙台駅内で行われていた演奏の模様です。)

この方も、好奇心に基づいて生きている方です。

格言の様に覚えている言葉があります。

『私の人間としての生き方の判断軸は、「その人に揺らがない軸があるかどうかです」』

と言う事を言っていました。

しかし、完璧な人間というのは存在しません。

何しろ、全ての職種を全て完璧(=世界一のレベル)にこなせる人がいない事を

鑑みても分かるところです。

オール・マイティは存在し得ない。

「自分の気の向く事」

もっと、楽しみが深まりがちな人ならば、

「自分が好奇心を向けられそうな事」

これにしか、人は邁進出来ませんし、

そこで邁進した先に「限定的な」深まりが生じます。

この写真でも、後ろに歌っている女性がいますが、

二人とも、

「ギターが弾けないか、弾いても披露する感じでもない」

か、

「歌が歌えるか、この女性ほど魅力的には歌えない」

と言う凸凹をもっていて、

二人が絶妙なハーモニーを奏でる様に出会い、演奏を長い間共にするからこそ、

ファンが増えて行ったのだと思います。

でこぼこと言えば、こんな動画があります。

植村花菜さんは現在NYにいますが、

とても深い歌を創れる杞憂なクリエイターとして、日本のレーベルで頑張り続けて

くれて本当に良かったし、出会えて良かったです。

気持ちよく噛み合ってる歯車の様な相手がいれば、、、

と、思いますが、実は全部そんな風に出来ているのだと気づきます。

問題は、やはり。

自分自身の「こだわり=感情の詰まり」によりつまずきだと気づくのです。

「でこぼこ万歳!」に至りたいですが、

その為には、

「開き直るとほら楽しくて、

違うことが嬉しくて♪」

って、状態が、とても大切だな。と気づきます。


違うからと、侵入したり、介入したりしないのが、

猫や犬なのかも知れません。

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