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一番古い記憶って何だろう、の話。

ふと、私が憶えている一番最初の記憶って何だろう?と考えてみる時があります。
親などに聞かされた話からイメージした光景が「記憶」となってしまっている事もありますが(絵本を読み聞かせて貰って丸暗記した話だとか)、そうではなく私自身が憶えている事柄です。
一応2つ3つはありますので、書いてみようと思います。

恐らく一番古い記憶

これは妹(2学年下)が両親に抱っこされていたくらいの時期で、弟(5学年下)がまだ産まれていなかったため、3歳くらいの頃ではないかと思います。

今は無き那覇の山形屋。
私は両親と妹の家族4人でそこを訪れていたのですが、その日の昼食時間はとても混んでいてファミリーレストラン近辺で家族とはぐれてしまいました。
母と似た後ろ姿の女性に「お母さん!」と呼びかけて服を掴んだら、全く違う人で、とても恥ずかしくなった覚えがあります。

この出来事を憶えているのは、恐らく感情が一緒にあったからだと思います。
家族と離れた心細さや、人違いをしてしまった恥ずかしさや申し訳なさ。幼いなりにそれは私の心に強烈に残ったのでしょう。

それにしても、沖縄の百貨店はもうパレットくもじ(経営は地元企業です)くらいしか無いんですね。
山形屋は随分と前に撤退しましたし、那覇の三越は数年前に無くなってしまいました。三越の入っていた建物は現在、良くわからない観光客向けの施設になっています。

時期のはっきりした古い記憶

これは私が4〜5歳、妹が2〜3歳くらいだとはっきり言えます。母親が弟を妊娠していた頃、切迫流産で入院していた時期です。

父親は仕事もありましたし、お喋り盛り遊び盛りの女の子2人の面倒を見る事はろくに出来ず、私達は保育園に預けられました。
妹はともかく、私は保育園生活に良い思い出はあまりありません。給食で嫌いなピーマンを食べさせられた事、同じクラスの男の子が乱暴や嫌がらせをして来るので大嫌いだった事。幼いながらも集団生活は嫌なものだという意識が染み付いてしまいました。

また、産科に入院していた母のお見舞いに行った時の記憶もあります。
母は絶対安静で点滴をしていたのですが、その場所が手の甲だったため、かなり大きくなるまで点滴は手の甲にするものだと思い込んでいました。母の場合は腕の血管が取りにくいらしく、採血や点滴は手の甲からが多かったのです。
まあ、その体質は私にも受け継がれたらしく、私も採血などで腕の血管が取りづらいから手の甲や手首で、と言われる事が多いですね。

記憶の正確さより強烈なイメージ

この話はあくまでも私の主観的な記憶であり、正確かどうかはわかりません。母親に聞こうとしても、そもそも約30年前の出来事ですから。

確かアメリカでの話だったと思うのですが、セラピストに「嘘の記憶」を植え付けられた患者が「自分は親に虐待されていた」「父親に性的虐待を受けていた」と裁判を起こすケースが増えた時期があったそうです。
さすがにそれは論外ですが、記憶というのは自分や他人にコントロールされるものでもあるのです。

ただ、私の場合は記憶と共に感情を憶えている事が多いような気がします。思い出と共に喜びや嫌悪が甦り、時にはPTSDに近いものになってしまっている事もあります(大学院時代の出来事がそうです)。

記憶はただ出来事を憶えているだけではなく、その時に感じた事柄(感情、暑さ寒さなどの天気、風景など)が合わさった時に強烈なイメージとして残るのでしょう。
つらつらとこの記事を書いてみて、改めてそれを実感しました。


※画像は「みんなのフォトギャラリー」からお借りいたしました。ありがとうございました。

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