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わたしたちは「何者か」になれるのか?〜Day 6 集団と個〜

あたらしい学習指導要領が掲げる「主体的・対話的で深い学び」。

前回は、予後を心配して「今から◯◯できなかったら…」というお話など、先を心配しすぎることを、「転ばぬ先の杖?」と題してお話ししました。

今回は、「集団と個」と題し、「何者か」になるための教育のあり方について考えたいと思います。

ハイコンテクスト文化

あまり多くを語らないうちに、いろいろなことを感じ取ったり察したりして、行動に移す文化を、「ハイコンテクスト文化」といいます。

「行間を読む」ことや「察する」こと、また「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるように、日本文化はこちらの「ハイコンテクスト」文化に属するといわれています。

他方、さまざまなことを言葉にして説明してから、行動に移す文化を「ローコンテクスト文化」といいます。

日本が「ハイコンテクスト」だとすれば、その他の国の文化は、割とはっきりとした表現になりがちといえましょう。

ここでいう「ハイ」や「ロー」は、決して文化の優劣を表しているものではありません。一つの言葉のうちにたくさんの情報を含んでいれば「ハイ」、そうでなければ「ロー」ということになります。

前提条件で変わる意味

「行間を読む」ことができるためには、その言葉に含まれる「前提条件」を理解できる必要があります。そして、わたしたちは知らず知らずのうちに、その言葉に含まれる「前提条件」を、実に多くの分量で取捨選択していることになります。

私が社会人になってから言われた数々の言葉で、忘れられないもののうちの一つが、「社会は学校じゃないから、なんでも教えてくれると思うな」というものでした。

今でこそ、さすがにその真意はわかるのですが、それは私が独立して、自分のことはすべて自分でどうにかしていかなければならない人生を選択したから、理解できたのだと思います。実際に、自分で経験したり、考えたりしたものが、実は「正解」だったりするのだから、自分でも考えてみなさい、ということです。

でも、今書いたばかりなのですが、「自分でどうにかしていかなければならない人生を選択したから理解できた」のであって、そうではなかった自分は、やはりどこか、「誰かいてくれるのだから、自分一人だけで背負いこむことはない」などと、チームプレーの中で、ある意味育ててくれるものだと思っていました。

ただ、私がかつてそうであった、金融機関職員という立場には、「自己責任の原則」という、事務処理上のルールが課されるのです。そのルールが絶対、と言われた環境で、そんな言葉をかけられてみると、どう受け取れるでしょうか?

そして、いくら自己責任の原則といっても、何かあった時は誰かがフォローしなければ、傷口が広がる一方なのです。「そういった事態にならないよう、一生懸命話を聞き、自分でも考えたい。そのために質問をしたい。」と説明をしても、「そんなのは甘えだ」と片付けられてしまいました。

行くも地獄、行かぬも地獄。孤立無援。

このようなお話が、先生と子ども、親と子どもとの間のやりとりでも起きていたら、あなたはどう思いますか?経験不足も「甘え」と切り捨てますか?

「個」の位置づけ

いまの事例では、すべてが「個」に帰着するという「自己責任原則」が前提にあったお話です。しかし、それは、日本が範としているアメリカの金融制度に基づくルールです。アメリカは、個人主義の国でしたよね。

欧米・大陸系の文化は、ほとんどが「自立した個が、集団や社会をつくる」という文化でしょう。「個」から「集団」へ、なのです。

ところが、日本は「護送船団方式」といわれていたように、いわゆる「おちこぼれ」を出さないように制度設計をしてきた国です。そして、何かにつけて「お上」「年功序列」などの権威に頼ってきた文化があります。

時代の変化は待ったなし。
コロナ禍真っ最中のいま、「風の時代」とも言われ、以前よりも「個」が立ってくる時代とも言われています。

しかし、日本文化の根底には「和をもって貴しとなす」の頃から根付いた、集団心理が働いていることも、忘れてはならないでしょう。

前述の私の事例もそうですが、【集団ありき】を前提とした文化に、急に【自己責任の原則】などといった概念が、なんのアレンジもなくもたらされたら、どうなるでしょう?

横並び意識の罠

【集団ありき】ということは「連帯責任」の文化です。ということは、自分から「連帯責任」以上の責任を背負ってまで、ハイリスク・ハイリターンなことをしたがる人はそうそういないので、そこで生まれるのは【責任の擦り合い】なのです。

同様に、【集団ありき】を前提とした文化に、急に【自立した個】を前提とした教育システムが、何のアレンジもなくもたらされたら。今まで以上に自分の頭を使ってまで、ハイリスク・ハイリターンな世界に行きたがる人はそうそういないでしょう。

そこで生まれるのは【誰かがどうにかしてくれる】から【深い学びなんて面倒臭い】ということなのです。

インパクトを感じていただくために、強い表現をしたのですが、強ち言い過ぎでもないのではないでしょうか。

つまり、「集団ありき」の文化で「個」をいきなりフォーカスすることで、逃げたいとすら思えるようになるのです。暗いところに馴染んだ目に、いきなり光が当てられるのと同じ現象だと考えてもらえると、わかりやすいのではないかと思います。

「何者か」になるには

暗闇に慣れた目を、明るいところに順応させるには、時間がかかります。同様に、集団ありきの文化に馴染んできた人々が、自立した個の存在として、意見を表明したり調整したりするようになるにも、時間がかかります。

そして、そのための教育こそが「主体的・対話的で深い学び」であるはずなのです。

つまり、これからの担い手が「個」としての地位を確立していくには、

①関わる大人たち自身が、どんな時代からどんな時代に移り変わるのかを理解し

②それでも民族性、あるいは自分たちの生活習慣や考え方など、簡単に変えられそうにないものを、どうアレンジしていくのかを、子どもたちと共に考え、実践する

という姿勢が必要になってくるでしょう。

このシリーズは、引き続き執筆してまいります。
学童教育だけではなく、「教育」というもののあり方について思いを巡らせる方にとって、なんらかのヒントになれば幸いと考えます。


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