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下半期の文芸誌を振り返る! 芥川賞候補作予想〜!

 ごきげんよう、あわいゆきです。

 いよいよ芥川賞の季節がまたやってきましたね!
 半期に一度の候補作発表を人生の楽しみにしながら生きている私にとって、芥川賞と直木賞の候補作発表はお祭りのようなものです。毎日朝から晩までなにが候補作になるかな〜〜〜と考え続けた結果がばん! と張り出される日。

 というわけで今回は、純文学系の文芸誌に掲載された創作のなかから「芥川賞未受賞作家の中篇小説(原稿用紙100枚以上が目安)」に絞って、全32作をすべて振り返っていきます!

 なお、予想には私の主観と個人的な趣味嗜好が多分に混ざっています。あくまでも一個人の考えということで、なにとぞご理解いただけると幸いです。


 はじめに下半期の五大文芸誌について振り返り、最後に予想を書いていきます。予想だけ読みたい方は目次からジャンプしていただけると幸いです!


振り返り


文學界

 前回こそ年森瑛さんの「N/A」が大本命として存在した文學界ですが、今回はそれなりに混戦模様。

 そんななかでも、間違いなく読者に強いインパクトを残したのは仙田学さんの「赤色少女」(8月号)でしょう。物語はひとり娘を育てている主婦が、車に閉じ込められて顔を真っ赤にしている幼い少女を見かけるところから始まります。熱中症寸前にもかかわらず気にする素振りを見せない少女の母親、麻衣の態度を目にし、児童虐待をしているのではないか? と疑う主人公。彼女は少女の父親である山内と知り合うのですが、彼からは逆に「DVを受けているのではないか」と指摘されます。中盤までは善意で「助けてあげる」行為によって発生する「強者⇆弱者」の階級構造に注目しつつ、「弱者」の側に立っている主人公と山内が不倫めいた雰囲気を醸しながら連帯していく過程が描かれます。

 ここまでは弱者同士のケアを背景にした不倫物語なのですが、牙を剥き始めるのは終盤に入ってから。第三者が介入して2+1以上の関係性となることで、「助けてあげる」によって発生していた二人の関係性は均衡が崩れます。ここでその役割を担うのは山内の妻であり少女の母親でもある、麻衣。彼女は主人公と山内に対して言い放ちます。「あんたら親やろ。わたしの親にもなってや」と。

 そして出来上がった夫婦と三人の娘、新しい〈家族〉の形はどう考えても歪で、強く印象に刻まれることは間違いありません。はたして弱者の側に立っていた二人は幸せになれたのでしょうか? 旧来の価値観から解放された家族を通じて幸福を手に入れたとも読める一方、「子ども」として振る舞う麻衣と彼女を世話する主人公および山内のあいだには、大人と子どもの強者⇆弱者関係が逆転したとも読み取れます。弱い人間は構造が変わっても搾取されるのか、とまで考えられる、まさに衝撃作です。

 また、芥川賞候補の経験がある作家さんの作品も多く掲載されました。

 まず、前回の芥川賞で候補になった鈴木涼美さんの「グレイスレス」(11月号)は、AV女優の化粧をする仕事に就く女性が語り手です。化粧を丹念に施してもすぐ男の精液で崩れてしまう、にもかかわらず整えようとする女優のすがたに自尊心を読み取り、セックスシーンを淡々と観察するように描写するさまは、AV女優の仕事を近くから見守る女性の立場と距離が非常によくあらわれていました。祖母と暮らす家の色調と女優に施す化粧の色合いを重ねながらそのくすみと複雑さを描き、世間的にイメージのよくない性産業(とそれに従事する人間)を単純化しすぎていないか、と問いかけていく展開も先を読ませます。

「ギフテッド」と比べると自伝らしさが薄まったぶん小説らしさは強まっており、類例の少ないであろう視点から性にまつわる物語を描いているのもより面白いものにしていました。かといって物事を確定させず曖昧なままにしようとする姿勢は前作から変わりなく、それが文体の静謐さに引き継がれているのも作家性の強さを感じます。

 島口大樹さんの「光の痕」(12月号)では色を正しく認識できない少年が周囲との断絶と根の深い自己否定に陥り、孤独を紛らわせて存在を立証する手段として、言葉の不要なコミュニケーション、暴力に傾いていきます。「先端」でしかない若者の苛立ちやアイデンティティにまつわる問答、常に抱いているままならなさや閉塞感の描写は細やかで、目に映る「色」の違いは個人単位での景色や記憶のずれだけではなく、社会スケールの対立にも広げていきます。過去作と比べると文体の挑戦が薄れたぶん地に足のついたものになっており、確かな実力を感じさせる作品となっていました。

 三木三奈さんの「消火器」(11月号)も非常に味わい深い作品でした。とある会社の未製品事業部に勤める女性が業務中にあらゆるミスを犯しながら、言い訳をひたすら自分に言い聞かせて自己弁護していく様子が描かれます。

「理由を作ることで責任から逃れて楽になろうとする」タイプの小説自体は多いのですが、この作品が面白いのは、言い訳の根幹が家庭境遇や病気からくる自己憐憫ではなく、自らに対する過大評価と遺伝子へのなすりつけで成立していること。英検三級で年にハリウッド映画を三本見ているから英語堪能、と本気で言ってのける語り手の自己評価は一体どう突っ込めばいいのか、登場人物も読者もまとめて置いてきぼりにしながら、語り手はひたすら突き進んでいきます。

 一見して発達障がいだと認定されそうな人物造形でありながら、本人は徹底して外部に責任を追及するので、むしろその開き直り自体が社会に適応できない理由なのではないかと、一周回って「発達障がいだと決めつけることの危うさ」を感じさせます。そのふてぶてしい他者への無理解が「消火」されるラストも面白く、新たなアプローチを感じさせる作品です。


 そのほか、杉本裕孝さんの「グッバイ、メルティ」(7月号)ではフィクショナルな存在の「死」について定義していきます。はたして生みの親が死んだとき、その子であるマスコットキャラは死んでしまうのか。現実の〈親→子〉関係にも存在する支配と統御のできなさが重ね合わせられ、フィクショナルなキャラクターが親離れをしながら世界に羽ばたいていく、「生」の(つまり想像力の)広がりを感じさせる作品です。

 坂上秋成さんの「陽炎のほとり」(8月号)はいじめを題材にしながら、「どう乗り越えるか」ではなく「加害者と被害者で感じる重たさの違い」を生々しく描かれていました。いじめの被害者二人が境遇を重ねて共闘を試みながらも「信仰する対象の違い」によって決別するさまには救いがありません。ですが、その救いのなさ、要求されてしまう連帯ではなく「個」こそが、現実に蔓延っているいじめの現実でもあります。

 奥野紗世子さんの「オーシャンビューの街のやつ」(12月号)は夜の歌舞伎町に生きている人間の刹那さを面白おかしいエピソードで盛り上げながら、同時にその当事者はほんとうに楽しいのか? という切実さに切り込み、「いまを生きる人間」を切り取る営み自体について模索していきます。舞台をコロナ禍の状況にすることで非日常感は際立ち、いまを生きる当事者ではなくカメラマンである女性の視点から描く試みも、この手の作品にありがちな自意識の発露を遠ざけ、テーマと噛み合った観察めいたものにしていました。


すばる

 まずはなんといっても、石田夏穂さんの「黄金比の縁」(8月号)。脂肪→筋肉→冷え症と、肉体(ルックス)をモチーフにジェンダーの不平等を描いてきた石田さんの新作はずばり「顔」。採用担当を務める会社員の女性が、面接の通過基準を「顔の黄金比」だけで決めていくお話です。

 彼女がそれをするに至った理由には、旧態依然な会社からのハラスメント被害があり、彼女は「顔の黄金比がいい人間ほど転職していくだろう」という持論のもと、会社を内側から凋落させようと画策します。相変わらずユーモアの効いた独特の文章で明るさと皮肉を入り混ぜながら語っていくのですが、所々で不平等が不平等であることの絶対性を指摘して、現代社会が抱える矛盾を明らかにしていきます。それが露わになるラストは特に秀逸で、やっていることは最悪なのに社会のレンズを通した切実さも抱かせ、同時に自分を貫く爽やかも感じさせる類稀なものとなっていました。「選ばれる」側だった「我が友、スミス」のような過去作と異なり、「選ぶ側」を描こうとする意欲も進歩を感じさせます。


 また、すばる文学賞を受賞した大谷朝子さんの「がらんどう」(11月号)は、「がらんどう」である人物像を提示するだけではなく、そうした人間が欠落をどのように埋めようとするのかを描いていました。四十を目前にし、同世代の女性とだらだら同居を続けている語り手は「一般的な女性」像との乖離になんとなくの生きづらさを抱えながら社会性の獲得と維持を願っています。しかし、その社会性を希求する心は精神面が空洞であるがゆえに強くは働きません。自分が空っぽだと自覚を持っていながら、空っぽであるがゆえにいまある生活で満足してしまう、そのバランス感覚がうまく提示されています。なかでも子供が欲しい(空洞を満たしたい)と願いながら、現実に存在する冷凍卵子を用いるような煩わしい手段ではなく、空洞の赤子で満足してしまうシーンは印象的でした。社会の複雑さに溶け込みたいと思いながら複雑ゆえに遠ざけてしまう、現代の世相を反映した小説です。

 そして米田夕歌里さんの「うちの庭」(10月号)は、心身ともに幼児退行していく架空の病気を設定することで「ケア」の問題を新たに掘り下げていきます。老化による衰えではなく、純粋に幼くなっていく人間の「ケア」をしていくことで見えてくるのは、子育てをする〈お母さん〉(必ずしも母親を指さない)に対するケアの必要性です。本来であれば成長するにつれケアが不要になっていく子ども→大人の不可逆性を逆手にとり、死ぬまでケアを続けなければいけない子どもを登場させて、子育てをする(ケアをする)人間にも「ケア」が必要だと説いていきます。この手の題材はどうしてもケアされる側を悪辣な人物として描きがちですが、本作においてはケアされる側の「幼さ」を我慢しないで感情を表現できる成長として肯定していました。それもあり、非常にやさしい物語となっています。ケアをテーマにする作品でも特に、読み心地がよい小説でしょう。


群像

 三期連続の芥川賞受賞と絶好調の群像は、今期も非常に面白い顔ぶれとなっていました。

 まず井戸川射子さんの「この世の喜びよ」(7月号)。とあるショッピングモールの喪服売り場で働く語り手の「あなた」は、フードコートで毎日ひとり勉強をしている少女のことが気になり始めます。しかし少女とどう接すればいいのかわかりません。「あなた」は思い出す行為によって、少女と接するようになっていきます。

 本作で描かれるのは、「思い出す」ことで作り出される距離感の遠近です。語り手の「あなた」はこれまでみてきた風景を忘れない代わりに、娘への接し方のような身近な経験を思い出せません。それは「あなた」が誰かと接するときに他者性を介在させ、直接な経験ではなく何かを挟んだ風景として物事を処理してきたからでした。風景として通り過ぎるはずの事象と経験として残るはずの事象、二つの遠近感を逆転させたエピソードが終始連なることで、独特な語りの距離をうみだします。

 しかし、少女や周囲の人たちと接するうち、最初はショッピングモールで働く「喪服売り場の人」にすぎなかった「あなた」は、次第に「穂賀さん」と呼ばれるようになっていきます。この「ショッピングモール」という複合施設に引かれる境界線を踏み越えることで、名前を持たなかった「あなた」が次第に「穂賀さん」と当事者性を獲得していく(風景から身近なものに近づいていく)過程もうまく、その近づきによって初めて気付けるメダルゲームの陰影の違いなど、モチーフのひとつひとつが明確に意味を持って存在しています。そして終盤になるにつれ、穂賀さんは他者性を介在させない自らの言葉を放とうと、風景になるはずだった「遠ざかったもの」に近づいていきます。このラストは秀逸でした。二人称の「あなた」も当初こそ語りと対象の距離を遠ざけるためだったものが、最終的には語りかける相手の呼びかけとして反転し、「あなた」の距離は読み手を介在させないところまで近づくようになっています。母と娘の関係性を描く作品が多いなか、娘ではない少女を相手に置くことで「思い出す」行為に必然性を持たせ、その距離感を探ろうとしていく作品です。

 そしてもう一作、昨年『鴨川ランナー』でデビューして注目を浴びたグレゴリー・ケズナジャットさんの「開墾地」(11月号)も非常に面白い内容です。実母が家を出て行き、ペルシャ語を母語とする義理の父とサウスカロライナ(アメリカ南部)で暮らしていた語り手のラッセルは、久しぶりに日本から故郷に帰省します。馴染み切った日本語が抜けきらず、久しい故郷に違和感を覚えながら、故郷と母語をめぐる思索に耽っていきます。

 作中を通じて問いかけられる重要なテーマは、「英語に戻ることも、日本語に入り切ることもなく、その間に辛うじてできていた隙間に、どうにか残りたかった」(P.171)とする、語り手の切実な感情です。〈その土地にいるならその土地の言葉を使うべき〉というようなアイデンティティの強制を疎み、母語のなかで生きていたくなくて外の世界を望むものの、留学した日本でも外国人としてラベリングをされてしまうラッセル。袋小路に立たされようとしているなか、父の生きざまが彼に気付きを与えました。ペルシャ語を母語としている父はアメリカに永住し、その家のなかでペルシャ語の音楽を聴いています。〈家〉の秩序はその土地に同化することもなく、かといって故郷に戻ることもないバランス感覚に保たれています。ラッセルにとっての「隙間」とは父にとっての〈家〉、すなわちラッセルの「故郷」である。この構造を示すことで、故郷の重要性を炙り出していきます。

 一方、父にとっての〈家〉(≒隙間)をラッセルはまだ作り出せていません。この違いは、父と息子の母語にまつわるコミュニケーションを通じて時絆されていきます。父の母語はあくまでも英語ではなくペルシャ語なのです。それゆえ「英語が話せるとどこにいっても言いたいことを言える」という言葉は、英語を母語として母語ゆえの苦しみに囚われているラッセルには届きません。英語が万国共通だからこそ、それは翼ではなく、決まった場所に立っていられない縛りになるーー相互不理解を提示しながら、絶望が広がります。

 しかし、絶望だけで終わらないのも本作の持ち味です。終盤、ラッセルと父は家に巻き付いてくる葛(作中では外からやってきて絡みつき、覆い隠すもののメタファーとして登場する)を焼き払います。そこには侵食していく土地や言語の常識を追い払い、安住できる「隙間」を守ろうとする前向きな希望があらわれていました。

前作「鴨川ランナー」「異言」では、外国人が日本国内で受けるラベリングの息苦しさと絶望を巧みに描いていましたが、本作ではさらにそこから一歩先に進んだ内容になっています。その点も非常に好ましく、期待がかかります。

 そのほか、須賀ケイさんの「蝶を追う」(11月号)はルリユール(製本や装丁を手作業で行う職業)に就いている男性が主役です。記憶を忘れて過去の思い出を否定していく妻と向き合いながら、古くなっていく大切な記憶をどう受け止めるかに焦点をあてていきます。ベルリンにルリユールと馴染みの薄い舞台&設定ながら描写は細かく、モチーフとしても「古くなった記憶の修復」というテーマとしっかり結びついています。作中で語られる「過去の物語」と「現実」の違いを対比によって際立たせながら、最後に物語と現実を接続させて記憶の齟齬を打ち消す(そして一本の未来につながっていく) 流れもきれいでした。完成度は間違いなく高いです。

  そして同号に掲載されていた紗倉まなさんの「見知らぬ人」(11月号)も読ませる作品でした。お互いに浮気をする夫婦と、浮気相手である第三者から放たれる言説を軸に、当事者/非当事者をわかつ「責任」の有無を巡っていきます。台本めいた話し方をする登場人物に滔々と理屈を語らせることでその無責任さを強調させながら物語をかき乱していく筆致はいささか過剰で、リアリティが欠けているにもかかわらず、巧みな描写に囲まれることで物語に上手く溶け込ませていました。責任を担い合うことではじめて成立する「夫婦」という関係性を引き受けようとするのか逃れようとするのか、対照的なラストも印象に残ります。

 また、尾久守侑さんの「天気予報士エミリ」(7月号)は、遠くから視線を浴びたいけれど近くに立って責任を追いたくはない(近づくほどに対象から遠ざかりたくなる)エミリの心理を、出会い系アプリと職場恋愛の対比を通じて描いていきます。また、エミリの空想癖が現実と理想の遠近をうまくつくりあげていて、それを活かした場面の切り替えやユーモアラスな語り口も随所で光る作品です。

 青野暦さんの「雲をなぞる」(12月号)は前作「夢と灰」と同じく、伝言めいた語りの連鎖によって「言葉で物語ること」自体の意味を追求していきます。本作では語りの連鎖が直線的ではなく、あらゆる方向に分岐させていくのでより「誰が口にしているのかわからない」、視点や語りを混濁させたものとなっていました。「思う」ことをそのまま伝えることで、客観に縛られずに伸び伸びと世界観を広げていきます。

 片瀬チヲルさんの「カプチーノ・コースト」(10月号)は理由や所属を強要してくる資本主義社会に対して、海でゴミ拾いをする女性が静かに抵抗していきます。社会に蔓延る理不尽さと闘うために「何の意味もない」ことをするのは社会的には正しくないのかもしれません。しかしそれによってケアされ救われるものがあり、だとするならばそれは「正しさ」にもなるのではないでしょうか。弱さとケアの定義を強要していないか、今一度考えさせられます。



新潮

 最近は新人作家の作品掲載数がかなり少ない新潮。ただそのぶん、下半期はいかにも少数精鋭な布陣が敷かれていました。

 まず、小池水音さんの「息」(10月号)は喘息を抱えた一家が、弟の死による喪失と向き合うお話でした。彼ら彼女らは弟が死んだあとも息を吸って吐かなければいけない、つまり、日常を維持するために呼吸をし続けなければならないくるしみが、喘息による生きづらさに重ね合わせられます。くるしみから逃れるために息を諦めようとしたり、息で楽しむために脱法ハーブに傾倒しようとする危うさなど、静謐な筆致のなかに痛々しい切なさが響きます。

 また、佐藤厚志さんの「荒地の家族」(12月号) では東日本大震災を背景にしながら、「地震」「津波」のようなフレーズを用いることなくひとつの「災厄」として描くことで、前後にも存在する大小スケールの「災厄」との連続性を際立てていました。荒地から復興したとしても元あった景色は帰ってこず、災厄は誰も責任を負えない場所から再び襲いかかってくる、非情な現実をありのままに曝します。一方で連続するいくつもの事象を「災厄」とひと括りにしてしまうことの暴力性にも敏感で、ミクロな視点だと「災厄」ひとつとっても見える景色は異なるのだと伝えてきます。そして災厄による認識のずれは「災厄の責任は自分にないだろうか?」と、被災者同士を答えの出ないディスコミュニケーションに陥れます。震災を経験した人間が、土地が、どれだけ経とうとも抱え続ける現実をはっきりと照射した作品でした。

 そして新潮新人賞を受賞した黒川卓希さんの「世界地図、傾く」(11月号)は、王政の移民国家になりルーツが曖昧と化した日本を舞台としていました。「社会」というフレーズを舞台となる社会自体から排除する(社会自体を包括できる言葉をなくす)ことでカオスを強調し、「言葉は個人を作り上げて社会を作り出す」という考えをいちから傾け、揺さぶっていきます。言葉と味を接続する共感覚の男性や、英語と日本語で揺れる母語が存在しないセミリンガルの女性から言語の揺らぎと向き合っていくのも、面白いアプローチでしょう。新人賞らしく現代的なトピックをふんだんに押さえ込んだ作品です。


文藝

 下半期も印象に残る特集内容で注目を集めた文藝ですが、なかでも注目は文藝賞を受賞した二作品。

 まずは日比野コレコさんの「ビューティフルからビューティフルへ」(冬号)。「絶望がドレスコード」「死にたい歴=年齢」などなど強い自意識を抱えている三人の高校生が「ことばぁ」と呼ばれる謎の老婆の元に集って、彼ら彼女らを救う「言葉」を処方されます。

 「言葉」がテーマとなっているだけあって作中の登場人物にはそれぞれ言葉に対する特有のスタンスを有しています。言葉を偽ってカーストに溶け込んでいるナナ、言葉に突き動かされて思い思いにしゃべる静、幼馴染のダイの言葉を借りてばかりいるダイE。「言葉」に対するスタンスの違いは見える世界の違いにもつながるのですが、三人は小説を書くことで「ビューティフルからビューティフルへ」という同じ言葉と出会い、「言葉」によってひとつの現実に収束していきます。

 そんな言葉を通じて世界の拡散と収束を同時に描くアプローチも面白いのですが、なによりもこの作品最大の魅力は「言葉」の選び方自体にありました。あらゆるサブカル知識を総動員しながらも、それをただ固有名詞としてぽんと置くのではなく、独自の比喩表現に落とし込んでから提示しているので、唯一無二のユーモアあふれる「表現」が終始連打されます。これは作品の世界観に関係なく作者最大の取り柄なはずで、今後も間違いなく作者にしか描けない世界観を提示し続けられるのではないかと思います。

 そしてもうひとつの受賞作、安堂ホセさんの「ジャクソンひとり」(冬号)で描かれるのはマジョリティがマイノリティを集団としてカテゴライズすること、その暴力性と、マイノリティ個人の当事者性の境界線です。主な語り手であるブラック・ミックスのジャクソンは、着ていたTシャツにQRコードを細工されます。読み取ると再生されたのはよく似た男が映るポルノ動画。これによって冤罪をかけられたジャクソンは三人の似た境遇の仲間と出会い、入れ替わりを行って社会に復讐をしていきます。

 ここで重要なのは、入れ替わりに気づかれない要因がマジョリティの視点によって「集団」としてカテゴライズされてしまっているから、というところ。ジャクソン含めた四人は「ブラック・ミックス」という人種にカテゴライズされてしまい、有ったはずの個人を、当事者性を蔑ろにされます。「入れ替わり」を描いた作品でもそれによって発生する加害性などではなく、なぜ「入れ替わり」が通用してしまうのか、という点に重きを置き、マジョリティの視点を浮き彫りにさせる構造はとても巧みに感じました。また、三人称となる視点をことあるごとに入れ替えていって、いま誰が語っているのか境界線を曖昧にしていく手法も、物語をより混沌のなかに落とし込んでいたと感じます。

 そのほか、長井短さんの「ほどける骨折り球子」(秋号)では、いつも妻に守られてばかりの夫が、妻を守るために「守りバトル」を展開しようとします。しかし、ここで妻を「守ろうとする」際に意図せず露呈してしまうのは、男女の体格差や不平等、あるいは「男らしさ・女らしさ」を求める家父長制社会に根ざした関係性のアンバランスさです。妻はそれを指摘し、やさしくされるのを拒みます。ただ、夫からすれば相手を弱者だと舐めているわけではなく、男らしさを見せつけたいわけでもないので、二人のすれ違いはより複雑な方向に発展していきます。男女平等を推し進めるなかで塗り潰されそうになってしまう個人の〈性格〉をいかにして「守れる」か、ストレートに追求していく作品でした。

 また、水沢なおさんの「うみみたい」(冬号)は生殖行為の不自由さと、それに伴う(反)出生主義をテーマにします。物語を担う二人の女性、うみの「うみたい」感情、みみの「みみ」のままでいたい感情。生殖の不自由に対して似た価値観を抱えながらも相反する感情を抱えた二人は同居するために「海見たい」(うみみたい)と同じ感情にたどり着きます。会話の抽象さと言葉遊びで独自の世界観を築き上げていく作品です。

 金子薫さんの「成るや成らざるや奇天の蜂」(冬号)ではドラッグに溺れた人間がトリップ効果により動物に「変身」する奇想天外な設定を提示します。閉鎖環境下におけるメタモルフォーゼが現実逃避の役割を担い、現実と空想を逆転させる入れ子構造が現実(もしくは主体性)の不確かさにつながっていく構造は、前作『道化むさぼる揚羽の夢の』と同様です。ただ、本作では生身の人間(現実)と演じる動物(空想)の対比から、自由意志の有無を論じるのではなく現実の側にどう留まろうとするかを描こうとします。読者まで現実からトリップしてしまいそうな世界観は目を引くこと間違いありません。

 そして世界観のぶっ飛び具合では飛浩隆さんの「鹽津城」(秋号)も負けていませんでした。塩害にまつわる三つの世界が並行して描かれていく本作では、海水が真水と塩に分離して蠢くようになったり、塩でできた線条が体内に発生するようになったり、塩の律動を読むために種を継承していったり派手な設定が目をひきます。塩を生きているかのように動かしながらメタフィクションを織り交ぜて複層的に語っていく手法は、アイディアが存分に詰まっているものでした。飛さんはSF界の大ベテランなので、候補に入るかと言われたらそれはまずないと思うのですが、機会があればぜひご一読を。


そのほか

 下半期は五大文芸誌のほか、小説TRIPPERのレベルがかなり高いのも特徴でした。

 なかでも世評が高い朝比奈秋さんの「植物少女」(TRIPPER秋号)は、娘を産んだときに植物状態になった母と、母が普通に生きていたころを知らない娘である「私」の交流が描かれていました。母親に対して四半世紀ものあいだ寄り添い続ける私は、成長に伴って母に対する感情を変えていきながらも、母は眠っているわけでもなく、何も言わない可哀想な人間でもなく、確かに生き続けていたことを正しく理解していきます。

 また、「寄り添い続ける姿勢」を決して他人の視点によって美化しようとせず、あるいは当事者から現実を美化されることを拒もうともしない姿勢は、この「植物少女」と題された物語自体を、物語化による消費とはまったく無縁な次元に置きます。時間軸ごとにエピソードを独立させることで語らないままに当時の感情を表現する手法、手のひらと呼吸をそれぞれ身体・精神の象徴として母娘の関係に結びつける手法も目をひき、エピソード自体がどれも印象に残るものばかりです。母に寄り添うことで呼吸をし続けた娘の生きざまを、正面から堂々と描き切った作品です。


 そのほかTRIPPER掲載作は、まず櫻木みわさんの「カサンドラのティータイム」(TRIPPER夏号)。ポリコレに理解を見せる男性が覗かせる醜悪さと、モラハラの巧妙な手口を被害者の立場から描いていきます。その際にモラハラ経験のあるかつての被害者の視点も織り交ぜていくことで、いま現在においてモラハラ被害を受けている当事者との距離感の難しさも露わにしていました。彼氏から暴力を受け続けてきた安居さんが最終的に出す結論は、加害者を一方的に切り捨てようとしない(自らの救済のみで終わらせようとしない)意味で「あぶなっかしく」あり、同時に現代に必要な「強さ」でもあります。

 また、長井短さんの「万引きの国」(TRIPPER秋号)は文藝掲載の「ほどける骨折り球子」と同様、〈時代に合わせた正しいとされる価値観〉の呪縛から解放をしていきます。旧来的な「男らしさ」「女らしさ」に惚れるのははたして「アップデートできていない」のでしょうか? 時代の進歩が取りこぼす個人の性格や感情を、ストレートな問いかけからいま一度掬い上げようとする作品です。

 そして小川哲さんの「君のクイズ」(TRIPPER夏号)は「ゼロ文字押しでクイズに正答した」謎自体をクイズの形に落とし込んで進んでいく軽快なエンタメミステリです。芥川賞とは異なる路線の作品ですが、競技クイズを題材に人間の在り方をも掘っていく、非常に濃厚な作品です。


 TRIPPER以外からも二作。ムック本に掲載されている野々井透さんの「棕櫚を燃やす」(太宰治賞2022)は、直喩とメタファーをぎっしりと詰めて耽美主義に寄せた筆致で、二人の娘と父親の相互不理解な関係性を描いていきます。他人から一方的に規定される「家族の在り方」を跳ね除けて当事者の「家族」像を重視するよう促しながら、「家族」という集合の内側にも相互不理解(作中においてそれは、「むるむる」と印象的なフレーズで表現される)を漂わせることで、社会レベルと個人レベル、双方から距離を置かせようとします。そして最終的には自分自身からも距離を置くことで主体すら溶かしていく、どこまでも喪われていく集団/個人の輪郭が印象に残る作品です。

 そして佐藤述人さんの「つくねの内訳」(三田文學冬号) は、下半期唯一の私小説。自らを観察するような俯瞰的な視点と、まどろっこしい補足に補足を塗り重ねる語りが、「宗教勧誘じゃないのか?」と旧友に境界線を引いて訝しむ、コミュニケーションに対する慎重さにつながっていました。非現実めいた匂いを最後に与えてフィクション的な小説に昇華させようとする手法、致命的なすれ違いを描いたまま語り手の失敗や後悔を強調せず、「マイナスではない」感情に帰結するのも目をひきます。


予想

展望

 下世話といえば間違いないのですが、予想をするのも芥川賞の醍醐味のひとつ、ということで、ここからは色々な事情を汲み取ったうえでの予想もしていきます! 作品の面白さとは別のラインからも書いていくので、読みたくないかたはスルーしていただければ。

 まず、芥川賞を主宰しているのは日本文学振興会(実質的に文藝春秋)なので、文學界に掲載されていた作品の検討から。例年必ず一作、多いときは三作が候補となる文學界ですが、今回は「N/A」のような大本命がないため予想は難しめ。ただ、今回は他社の作品も圧倒的本命となりうる作品がないので、今回も二作品選ばれるのではないでしょうか。

 その点で候補入り経験のある作家さんは注目度が高く有利。なかでも前に選ばれた作品からなんらかの進展があると好印象です。その点において、前作より小説として立っている鈴木涼美さん「グレイスレス」と、荒削りさが薄れたぶんより磨きのかかった島口大樹さん「光の痕」が、今回は選ばれるのではないでしょうか。「赤色少女」は終盤のインパクトこそ目を引くのは間違いありませんが、終盤までの筆致に勢いが欠け、やや惜しいようには感じます。三木三奈さん「消火器」と入れ替わる可能性はありそうです。


 そして20年代に入って以降は新人賞受賞作から最低一作は選ばれる傾向が続いています。その点だと特に世評が高かったのは文藝賞二作、日比野コレコさんの「ビューティフルからビューティフルへ」、安堂ホセさんの「ジャクソンひとり」。どちらも良さが別のところにあるため比較のできない二作ですが、個人的には安堂ホセさん「ジャクソンひとり」ではないかなと感じます。

 というのも前回、群像新人文学賞を受賞した二作、描写の上手さが際立っていた「点滅するものの革命」、話の運び方や取り組み自体に面白さがあった「家庭用安心坑夫」から、後者の「家庭用安心坑夫」が選ばれていたため。日比野さんの言葉に対する鋭さ、センスは明らかだとしたうえで、芥川賞という土俵を踏まえると「ジャクソンひとり」に傾きそうです。


 そのほかで他社から最も候補に入りそうなのは、石田夏穂さん「黄金比の縁」かなと考えています。安定して面白い作品を書き続けているのはもちろん、今回は「見られる側」から「見る側」に視点を変化させており、候補にもなった「我が友、スミス」から変化を感じさせます。エンターテインメントとしても読める軽快さもありつつ、人間を描いて現代を掬いあげるのも忘れていないので、芥川賞の候補になることに対する違和感はありません。


 そして難しいのが朝比奈秋さん「植物少女」。作品の完成度自体は随一ですが、どうしても小説TRIPPERは五大文芸誌と比べると候補に抜擢される可能性は低め(過去に候補となったのは今村夏子さんの二作のみ)。ただ、最近の芥川賞はデビューまもない新人作家の方を重視する傾向が強め。今回の混戦であれば選ばれる可能性も十分あるのではないかと考えています。


 ……と、ここまで書いてもう五作品が揃ってしまいました。
 なので今回はこの五作品! ってことで、ドンっと決めちゃいます!

第168回芥川賞 候補作予想

朝比奈秋「植物少女」(小説TRIPPER秋号)
安堂ホセ「ジャクソンひとり」(文藝冬季号)
石田夏穂「黄金比の縁」(すばる8月号)
島口大樹「光の痕」(文學界12月号)
鈴木涼美「グレイスレス」(文學界11月号)
(五十音順・敬称略)

 なお、もう一作候補に入るとするならば、群像か新潮のどちらかから選ばれるのではないかと予想します。なかでも私は群像派。特に「この世の喜びよ」は個人的な下半期ナンバーワンで、野間文芸新人賞受賞後なのもあって要注目です。

 そして最後に、私の好みだけで選んだ、私的芥川賞候補(下半期のベスト5作品)も記して終わろうかと思います。

私的ベスト5作(五十音順)

朝比奈秋「植物少女」(小説TRIPPER秋号)
石田夏穂「黄金比の縁」(すばる8月号)
井戸川射子「この世の喜びよ」(群像7月号)
グレゴリー・ケズナジャット「開墾地」(群像11月号)
米田夕歌里「うちの庭」(すばる10月号)
(五十音順・敬称略)


下半期もよい小説がたくさんありました。あとは芥川賞の候補発表を楽しみに待ちましょう。

それでは、ごきげんよう。

(今回取り上げた作品)

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