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ポーランド紀行文〜ショパンを求めて〜

序文


去年の夏、私は一人で欧州旅行をした。

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数カ国巡った中で、ショパンの軌跡をたどったポーランド・ワルシャワでの日々を紀行文にしないかと助言を頂き、紀行文を執筆する運びとなった。無一文だった私に何人もの人が支援して下さり、この旅が実現した。支援してくださった方々へ感謝の気持ちを込めて紀行文を記す。


私は、10歳でピアノを始めて以降、ショパンの虜になった。彼の人生、作品、彼に関する何もかもを愛してやまない。
私にとってショパンは神聖化されており、実在したとは信じられない。あれほどの美しく、切なく、激しく、力強く、繊細なメロディーを一人の人間が生み出したとは信じ難い。歴史に名を残すという事の偉大さは、言うまでもない。


ある人は、作者が死後100年以上経ってもなお読み継がれている本しか読まないと言う。なぜなら、死後も時の流れに淘汰されずに人々へ受け継がれている作品というのは、“本物”だからである。彼は”本物”にしか触れたくない。その時代の一過性の流行にあやかるよりも、”本物”だけに触れたいという心は理解できる。

ショパンは1849年に亡くなって以降、今尚世界中で愛され続けている。まさしく“本物”である。


ショパンの曲には心が宿っている。心が曲にそのまま反映されているのである。悲しみがメロディーとなり、怒りがメロディーとなり、幸福がメロディーとなる。

心の旋律を奏でることに成功した稀有な作曲家、それがショパンなのだ。これまで作曲家は数多く存在したが、私にとってショパンは明らかに他のどの作曲家と比べても一線を画している。



ピアノの魔術師と謳われたフランツ・リスト(1811-1886)は、

「ショパンは魔術的な天才でした。誰とて彼に比肩するものはない」

と回想している。

また、ショパンの恋人だったジョルジュ・サンド(1804-1876)は、自伝「我が生涯の歴史」において、

「ショパンの天才は、今まで存在した天才の中で最も深く、最も感情豊かである。彼は楽器に永遠の言葉を語らせることに成功し、子供でも演奏可能なわずか数十小節の音楽に、限りなく高揚された詩と並ぶもののない力に充ちたドラマをしばしば要約している。」

と綴った。


そんなショパンが生まれ育ち、死ぬまで愛して止まなかったポーランドとは、一体どんな国なのか知りたいと強く思っていた。ポーランドに行くことは死ぬまでに実現させる事の一つであった。


本文


世界で196ある国の内、私が最も訪れたかった国ポーランドショパンの故郷ポーランド。スペインのバルセロナ国際空港から3時間のフライトで、憧れの地ポーランドのワルシャワ・ショパン空港に到着した。

〜ワルシャワ・ショパン空港〜


空港にショパンの名が付くほどに、ポーランド人にとってのショパンが、どれほど偉大な存在であり、誇りに思っているのかがわかる。
空港内は、肌寒く感じた。それもそのはず、札幌の緯度が北緯43度に対し、ワルシャワは北緯52度である。


早速、ポーランドの通貨ズロチ(PLN)に両替したかったのだが、空港内の両替所がすでに閉まっていたので、空港泊した。

早朝に目を覚まし、広い空港内を歩き回っていると、明かりのついた両替所を発見した。もしや?!と思い、中を覗くと人がいた。毛布を被って熟睡している人が。

一瞬ためらいつつも”Dzien dobry.”(ポーランド語のこんにちは)と声をかけると、パッと目を覚まして両替をしてくた。”Dziekuje.”(ポーランド語のありがとう)というと、彼は、すぐに毛布を被って再び眠りについた。両替所の仕事中に寝ていても怒る人がいないのだろう。良い国だと思った。


わずかなお金を手にし、バスでワルシャワ中央駅へ向かった。

〜ワルシャワ市街〜

夜が徐々に明けてくるのを感じながら、ワルシャワの空気を目いっぱい吸い込んだ。ショパンの愛した国ポーランドに今自分が立っている事に信じられないような感動を覚え、心が震えた。風景をくまなく眺め、鳥の鳴き声に耳を済まし、目一杯空気を吸い込み、風を切って歩いた。

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 途中、道に迷い、誰かに話しかけようと周りをを見渡した。すると、背の高い美しい女性が前から歩いてきた。 “Excuse me.”と話しかけると、即座に”No.”と拒否され、スタスタと歩き去ってしまった。ポーランド人は案外冷たいのかなあ、と思いながら気を取り直して歩き始めた。


朝の7時に迷いながらも何とかゲストハウスに到着した。チェックインの時間が15時なので、それまで共有スペースのソファで熟睡した。前日に空港の固い椅子の上で寝たので、たまらなく心地良く感じた。


賑やかな声に目を覚ました。ゲストハウスは世界中からの旅行者が宿泊している。朝になり、宿泊者が次々と共有スペースへやってきた。コーヒーを飲んだり、談笑して和気あいあいとしていた。

その中で、大声で韓国語を話す老夫婦が目立っていたから、話しかけた。彼らはソウル在住で、よく夫婦で海外旅行をするのだそう。英語があまり話せないというので、Google翻訳を用いて会話をした。個人的な話だが、旦那さんの方が、去年亡くなった祖父にそっくりだったので、愛着が湧き、話しながら感傷的な気持ちになった。

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その晩、夫婦が夜行バスで出発するというので、その前にご飯に連れて行ってくれた。ゲストハウス近郊の本格的なイタリアン料理屋で楽しく語らった。ご飯を食べ終え、次はソウルで会う約束を交わして別れた。その日は死んだように眠った。

〜ショパン博物館〜

次の日、ショパン博物館を訪れた。その名の通り、ショパンに関する展示物を展示している。開館時間が11時だったため、私は、ゲストハウスを9時30分に出発し、徒歩で向かった。

日中に出歩くのは初めてなので、ポーランドの街の風景が新鮮に映った。すれ違う人々は、皆ゆっくりと歩を進めている。二度見してしまうほどの美女が何人も通り過ぎていく。歩道は広く、ロマネスク建築やゴシック建築など、西洋建築の建物が立ち並び、風情がある。首都ワルシャワの中心地にも関わらず、穏やかに時が流れている。慌ただしい東京やロンドンとは大きく異なる。

 また、公園が多く、鳥の鳴き声や心地良い風を感じた。初めて訪れたにもかかわらず、郷愁を感じずにはいられなかった。まさしく情緒が町中に漂っていた。ショパンがワルシャワにいたのは、かれこれ200年も前の事だが、ワルシャワの空気を吸って育ったからこそ、彼の情緒溢れる曲が出来上がったのかと頷ける。



ワルシャワの風景にショパンを連想しながら歩いていると、Google Mapがショパン博物館付近を指していた。すると、前方からピアノの音色が聴こえてきたのである。耳を澄ますと、どうやらショパンの曲ではない。右の建物から聴こえてくる。その建物は、なんとショパン音楽アカデミーという国立の音楽大学だった。ポーランドで最も伝統があり、最も規模の大きなアカデミーで、世界屈指の名門である。世界で活躍する音楽家を多数輩出している。その門下生が弾いていたピアノの音色が、外まで響いていたのだった。



ピアノの音色は極めて美しいと思う。ピアノは鍵盤楽器だが、内部の構造は打楽器と弦楽器が組み合わさった打弦楽器である。弦楽器といえば、ギターやバイオリンを連想するが、ピアノの音色とはまるで異なる。ピアノの音色はピアノにしか出せない太さがあり、繊細さがある。私がピアノを好きな所以は、外装も重厚で絢爛だが、何と言ってもその音色にある。ショパンは、ピアノの音色を最大限に引き出した作曲家だと思う。




ショパン音楽アカデミーのすぐ正面にショパン博物館がある。バロック様式の優雅な建物だ。10時30分に到着し、券売所の入り口で待った。一番乗りだった。11時ちょうどに開館し、チケットを買った。22ズロチ(日本円で約670円)。

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中に入ると、正面に石造りの螺旋階段が現れた。券を受付の人に見せ、入場。展示物は、ショパンの生涯を時系列順に並べていた。最初は、誕生から学生時代の展示物。ショパンの両親の肖像画や、生家のスケッチや写真。ショパンが授業中に描いた先生の似顔絵まで飾ってある。
大人になっていくにつれて、直筆の楽譜や手紙などが展示されていた。楽譜はどれも筆致が細かい。

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館内には、小ホールがあり、定期的にピアニストの演奏会が行われるらしい。私が訪れた際は、スクリーンに2015年のショパンコンクールの映像が流れていた。優勝者であるチョ・ソンジンの演奏が主だった。気付けば、1時間30分もホールで演奏を聴いていた。

中に進むと、ショパンがパリ在住の際に開いたコンサートのチラシや演奏会のプログラムがあった。ショパンは、演奏会では自分の曲のみならず、ほかの作曲家の曲をも演奏していた。ベートーヴェンやモーツァルトの曲も演奏していた事に違和感を覚えた。


展示物は、他にもショパンの左手のレプリカや、晩年まで弾いていたピアノ、使用していた家具、肖像画や生前唯一撮影された写真、過去の恋人たちとの手紙などがあった。どれも私にとって興味深く、時を忘れて館内を回った。

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オーディオスペースがあり、そこではショパンの作曲した曲のうち、現存している曲を全て聴くことが可能となっていた。ジャンル別にブースが分けられており、私は、ワルツ・プレリュード・バラード・ソナタ・マズルカの全曲を聴いた。

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そして、展示物はショパンの人生の後半へと向かっていく。ジョルジュ・サンドとの大恋愛、そして別れ。次第に病魔に蝕まれていき、人生に陰りが見え始める。人気も衰え、弟子の数も減り、鬱状態となる。パリで最後の演奏会を開き、その後ロンドンでヴィクトリア女王の御前演奏を成功させ、パリへ戻った。病状は一層深刻になり、姉のルドヴィカがパリのショパンの元を訪れた。僅かな親しい友人がショパンの元を訪れ、病床に寄り添った。そして、1849年10月17日午前2時にピアノの詩人ショパンは39歳で永遠の眠りについた。



ショパン博物館の最後は、死のエリアで締めくくられる。真っ黒の壁を基調としたその部屋は、重苦しい空気が漂っていた。ショパンのデスマスクと対面した時、私はショパンという人物が実在した事を初めて確信した。初めて確信したというのは、彼の作品は複雑かつ至妙で、出来すぎており、生身の人間が作り出したとは信じ難い事実だったからだ。

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ショパンは、自らの運命と対峙し、もがきながら懸命に生きた。天才といえど人間であり、作曲の才能とピアノの演奏技術を除けば、他の人間とあまり変わらなかった。いや、むしろ繊細で美しい心を持っていたからこそ人一倍悩み苦しんだはずだ。フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家ドラクロワ(1798-1863)は、ショパンの死を知り、「何という損失だ。あの穢れのない素晴らしい魂は消えてしまった。残ったのは下劣で汚れた世の中だけだ」と日記で嘆いている。
ショパン博物館に4時間滞在した。素晴らしく充実した博物館で、大満足だった。



その晩、宿のルームメイトであるフランス人のMatthieuと飲み歩いた。23歳の銀行マンである。語りに語り、浴びるほど酒を飲み、最後は意識が朦朧となりながら吐き続けた。前日に会ったばかりの彼に介抱されながら何とかゲストハウスへ帰り、死んだように眠った。

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(↑ルームメイトのMatthieu)

〜ワジェンキ公園〜

翌朝、重い瞼をこすりながら、身支度をした。その日、私はワジェンキ公園に行く予定だった。ワジェンキ公園は、ショパンの像がある事で有名で、5月から9月の毎週日曜日に無料の野外コンサートが開かれるのだ。プログラムは、もちろん全てショパンの楽曲である。


11時に地下鉄に乗り、駅から歩いてワジェンキ公園へ向かった。地元の人もぞろぞろ同じ方向を向いて歩いていた。
公園に入ると、すぐにショパンの像が現れた。穏やかで暖かい表情をしていた。12時になると、公園中隙間なく人が埋め尽くしていた。
ポーランド人ピアニストのPawel Wakarecyが登壇し、弾き始めた。私はショパンの像を眺めたり、目をつむったりしてしんみりと聴いた。皆、芝生の上で寝転んだり、お酒を飲んだり、本を読んだり、自由に過ごしていた。演奏中、終始ショパンが微笑んでいるように見えた。

演奏が終わり、皆が一斉に散って行った。私は一人で公園のベンチで読書をした。ショパンの像の目の前のベンチで本を読むのは格別だった。数時間滞在した後、ショパンの像に別れを告げ、歩いて帰った。

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宿に帰ると、新たなルームメイト、ルーマニア人のPavelがおり、一緒にビールを飲んだ。タバコにも付き合った。何故か私をとても気に入ってくれて、楽しそうに色々な話をしてくれた。更に、他にも色んな外国人と飲んで話して、お祭りのような夜だった。

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(↑ルームメイトのPavel)

以後二日間は割愛するが、非常に刺激的な出会いや体験に恵まれ、充実した日々を送った。


ワルシャワ・ショパン空港


最終日となり、名残惜しくも滞在中に語らった仲間たちにさよならを告げ、地下鉄で空港へ向かった。15時のフライトを13時だと勘違いし、結局4時間も空港で過ごすことになった。マクドナルドでご飯を済ませ、私は空港内のとある場所へ向かった。


ワルシャワ・ショパン空港には誰でも演奏できるピアノが設置されている事を事前に知っており、「必ず弾いて帰る」と胸に秘めていた。
どこからかピアノの音色が聴こえてきたので、音に誘われて歩いていくと、丸い演台の上にCASIOの電子ピアノが設置されていた。周りにはソファが何脚も置かれ、そばにカフェが併設されていた。また、目の前にチェックインカウンターがあり、大勢の目に触れることは自明だった。


前の人が弾き終わり、パラパラと拍手が沸き起こり、私も響き渡るくらいに盛大な拍手を送った。

そして、椅子へ座った
。旅の終わりを感じ、感傷に浸りながら弾き始めた。ショパンの「ワルツ作品64の2」である。その後、「幻想即興曲」「渚のアデリーヌ」を弾いた。弾き終わって立ち上がると、一斉に拍手が鳴り響いた。色んな顔をした人が、こっちに向けて拍手をしていた。何度かお辞儀をし、近くのソファに座った。

すると、一人の女性が近寄ってきて、「感動した」と涙を拭く動作や、胸を叩く動作をして、いかに感動したかをジェスチャーで何度も何度も繰り返した。”Thank you so much”と言い続けた。立ち去ったかと思うと、また現れて感動したと伝えてくれた。終いに、旦那さんであろう男の人に「もういいだろ。行くぞ」という風に連れて行かれた。次に、また別の女性が隣に座り、僕の演奏を録画した動画を大音量で流しながら、しんみり目を閉じて聴き始めた。僕が、ありがとうと言うと、”Beautiful”だの何か言ってくれた。


3曲弾いた後、誰もピアノを弾かないので、再び演奏した。Yirumaの曲を数曲弾き、最後にショパンの「バラード第三番」を弾いた。弾き終わると、また四方から拍手をして頂き、お辞儀をし、遂にそこを立ち去った。



私は、ショパンを想い、「ショパンに届け」と強く念じながら「バラード第三番」を弾き切った。ミスしてもいいから、感情を全てピアノにぶつけた。周りは何も見えなかった。ショパンと私だけの世界がそこにはあった。ショパンに導かれ、色んな人に出会い、未知の体験をした。彼が繋いでくれたポーランドとの縁。果たして私の演奏は彼の耳に届いただろうか。日本からきたちっぽけな若造の演奏をどう思っただろうか。彼の音楽は確実に後世へと受け継がれ、半永久的な炎が今も尚燃え続けている。


おわりに

ショパンの一ファンに過ぎない私が、ポーランド・ワルシャワで彼に想いを馳せた日々を紀行文としてここに記した。何を得たでもなく、心が熱くなる日々を送ったこと自体が、宝物として私の中に生涯残り続けるのである。今後、益々ショパンの曲に挑戦していく所存である。

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(↑ワルシャワで5泊したゲストハウス)

最後まで読んで頂き、誠に有難うございます。






               あんざい


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