見出し画像

石ころバラ撒いて

大晦日の今日は、防草シートが風で吹っ飛ばないように重しを加えることが年内に終わらせたい仕事の最後として残っていました。妹の家に、鎌倉に住んでいた頃の石があると聞いて取りに行ってきました。あの地を離れたのが42年くらい前ですから、あの人は何故か、以来ずっとバケツ2杯くらいの石を保管しており、まさに今の私の家、未来に保有する庭にこそ置くべきと考えていたのでした。きれいな丸い石です。

それらを、こんな小さな庭に撒いてみたら、ご覧の有様で、これはシートの重しだから、という説明が無ければ雑草の如く不調和な異物にしか見えません。年が明けたら、もう少しレンガを買ってきましょう。

アベマの将棋師弟トーナメントを見ていたら寝落ちしてしまい、気付くと陽が落ちていましたから蕎麦を湯がいて食べました。紅白歌合戦が始まる時間となり、生まれて初めてリアルタイムで見ています。開始から2時間半が経ち、飽きてきましたので一時離脱して、日記を書いています。23:30になれば東急ジルベスターコンサートにチャンネルを変えるので、全部は見ませんが、すでにこれほど眺めていたのは最長記録に間違いありません。

見ていて気付いたことがありました。ここで繰り広げられる音楽は「歌」ですので歌手がいて「言葉」があります。私の耳には、ほとんどの場合、言葉が入っていません。声という楽器による楽音として脳が捉えます。すると、これは、他の楽器と作るハーモニーが保たれるか否かの部分で、快・不快が鋭く湧き上がってきます。むしろ言葉として捉えられれば、不快の部分は緩和されるかと思うのですが、ごく一部の楽曲でしかそうはならないのです。

見ていた中で、バックナンバー、あいみょん、藤井風などのアーティストの歌唱は、言葉として入ってくる為に、嫌な感じはありません。また録音を流しているダンス系のパフォーマーの楽曲も大丈夫でした。誰かを批判する意図ではなくて、昔からこうした番組が楽しめない理由を、今ここで理解したのでした。

日本人が、馴染みのある英語であっても、歌詞の意味を伴ってリアルタイムに認識するのは、普通はできません。かつて私もそうでした。洋楽を好んで聴く時、それらを除外して声も音、楽音とみなして受容していた。だからこそのめり込むことができた、という側面は事実だと思います。

ところが、アメリカで暮らしていたある時、不意にザ・ビートルズの楽曲が、まざまざと語りかけてくる感触に愕然とした覚えがあります。耳が、ある程度ネイティブに近づいたのだと思います。その瞬間、たとえばジョンが諭すように語り聞かせてくれる言葉に、涙が湧き出るような感動を覚えました。

歌の入った音楽を、言葉として聴くか、音楽そのものとだけ聴くかは、こちらの状態と、その音楽、あるいはアーティストのスタイルによって自然と変わります。どちらの体験をもたらすかでの、優劣はありません。

ですから、言葉が意味を伴って入ってくれば、その発するものに耳を傾けようとしますから、音楽の存在は少し後退するかもしれません。そうでないならば、音楽の質に耳が行き、よくできてるなとか、いまいちだな、とか感想が涌いてきます。見ている画像によって目を見張るダンスやら、演出の妙に圧倒されていれば、それはそれで音楽に瑕疵があっても気にならないようになります。

紅白歌合戦は、そうして一場面ごとに、違った何かを見せられていることに気づき、非常に新鮮でした。

司会のひとりである、橋本環奈さん、若き俳優ですが、最大の感嘆は彼女でした。なんというエナジーでしょう。司会をやって、踊りに参加し、歌を歌い、衣装を替え、抜群のコメントを差し込みます。昨今のドラマを見て、俳優のポテンシャルが凄いと、繰り返し書いてきましたが、彼女も本当の意味でトップにいる非凡な才能だと認めざるを得ません。素晴らしすぎます。

2023年はどのような年になるでしょう。またこの場で皆さんとお話しできることを楽しみにしています。この一年も、本当にありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?