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底冷えする冬の京都で、生きて暮らすことを知ったあの日

二〇一四年、冬。
底冷えする冬の京都で、私は生きて暮らすことが何かをまざまざと感じていた。
電気代がかかるから暖房はつけない。木造のワンルームで布団にもぐりこみ、ゼリー飲料を吸いながらタブレットで「艦これ」をプレイする。それが私の数少ない休日の過ごし方だった。

九州から京都へやってきて、私は学校教員になった。
新任あるあるで、市内でもややトラブルの多めな学校に配属された。朝から深夜まで働き、土日も生徒の対応や授業準備に追われた。そもそも、新任は授業のストックがないので授業準備を毎回イチからしなければならない。先輩教諭のボロボロの教材を見ながら内心「楽そうでいいなあ」と思いつつも「あの教材はいったい何年使っているのだろう。作った当時とは生徒の状況も変わっているのではないか」とぼんやり考えたりしていた。
同僚の先生にはとても恵まれていていちおうは学校教員をやれていたが、それでも毎日頭が痛く、眠れず、こっそり精神科に通って日々を何とかやり過ごしていた。
「私が精神科に通っていることが保護者にばれたらどうしよう」といつもどきどきしていた。それでも、その恐怖よりも毎日一定の時間眠れて職場へ行けるほうが私には大事だった。というか、行かなくては生活ができない。

平日はへとへとになりながら何とかやり過ごし、休日は部屋に引きこもった。休日の昼間に繁華街へ出ると生徒に遭遇する可能性があるからだ。だから、基本的に休日はワンルーム六畳の狭い部屋で過ごした。
ときどき、以前梅田でナンパされて連絡先を交換した二十一歳の男の子がやってきて、一緒にご飯を食べたりおしゃべりをしたりした。彼は「そういうの」は経験がなくて私に手を出したそうで出せないでいた。私もめんどうだったから「そういうの」には気づかないふりをした。

やがて、一年ぶりに彼氏ができた。彼は海外旅行帰りにそのままうちに来て、二週間ほど泊まることになった。京都はいつもどこも観光客で多く、仕事関係の人に会いたくないのもあって、私たちが出かけるとすれば決まって夜だった。そして、家の近くの四条大宮やら四条烏丸やらでお酒を飲んだ。
彼はいつも自分の思想についてひとしきり話したあと、ふっと糸が切れるように黙る瞬間があった。そのときも、錦小路通沿いの和食店で彼は汁椀の縁に視線を落として黙っていた。こちらに向けられたその鼻梁が迷いなくまっすぐで艷やかで、私は「この時間を閉じ込めて煮こごりにできたらいいのに」などとよくわからないことを考えた。熱燗が乾いたくちびるに少し沁みる。
「春から、東京の大学院に進学するんだ」
彼がぽつりと言った。
「私もついて行く」
反射的に口から言葉が出た。自分でもおどろいた。だって、今の赴任校での臨時教員の契約更新を断って、春から梅田のIT企業へ就職することがほぼ決まっていたから。

「本当に一緒にくるの」
私の部屋に戻って、彼はたずねた。「うん」と私は返した。自分でもよくわからない意思だった。彼と一緒なら何とかなるのではないかとの謎の自信があった。
このままひとりでこの部屋で暮らし続けて、春から梅田へ通う毎日が続いてもきっと何も変わらないし、たぶん私は死んでしまう。ここでひとりで生きて暮らし続ける自信は、正直なかった。
「じゃあ部屋、一緒にさがそうか」
そう彼は言って、眠った。その夜、京都には雪が積もった。この冬で一番寒い、底冷えのする日だった。眠る彼の首筋は当たり前に血が通い、温かかった。

京都の部屋から引っ越した後、一枚のはがきが京都の住所から新居へ転送されてきた。あの大学生の男の子からだった。私はそれにはろくに目を通さずにきれいに半分に破って、捨てた。もう京都の思い出はいらない。

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編集者・文筆家。フリーランス。私たちの人生の手前で、ただ酒がうまかったり何でもない話がたのしかったりして。

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