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スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ作品を読む


はじめに

本稿は恋々(以下執筆者)が開催した『晩冬☆スヴェトラーナ読書会』による感想を纏めるものであります。なお読書会の参加者は執筆者一人である為(当然だね)、以下の記事はすべて執筆者の主観によるものであることを留意されたい。
今回はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチという作家の書いた作品のうち五作品を紹介します。ソ連中心というか戦争物中心というか、内容物にそこそこの偏りがありますが、あしからず。番号は振ってありますがあくまで推奨なので読む順番はご自由に。
それでは張り切っていきましょう。あ、丁寧な口調なのはここまでです。


事前準備

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはベラルーシの女性ジャーナリストである。ソビエト連邦やベラルーシ、ウクライナにまつわる20世紀の事件、事象について、当事者からの聞き書きを中心としたスタイルで活動をされている。詳しいことはwikiを参照されたい。
日本においては2015年のノーベル文学賞作家であるというあたりで有名ではないだろうか。ちなみに受賞後に日本での出版社となんやかんやしていたが、こちらについての言及は控える。
スヴェトラーナを読むにあたって必要な事前知識は、彼女がテーマとして絞る事象がいかなるものであるか。例えば第二次世界大戦であり、例えばソビエト連邦という国家について、である。大体おおまかな流れさえ掴んでおけば、作中に出てくる多くの人々がどんな時代を生きていたかを想像するのは容易くなるだろう。
という訳でソ連の歴史とか第二次世界大戦のドイツとソ連の戦いとかチェルノブイリ原発事故のこととかはなんかこうさらっと…………調べられたし。特にベラルーシとウクライナの位置は地図で確認しておくのをおすすめしたい。

※すらすら読んで把握…はできないが、全貌を掴むには良書である。図や絵が多いのも素敵。プロパガンダのポスターってなんであんなに魅力的なんだろうね(プロパガンダだからだよ)


1、これまで隠されていた「戦時中の女」の像

言わずと知れたデビュー作であり、スヴェトラーナというジャーナリストがいかなる人物であるか、なぜ彼女が書き続けるのか、を知る最短距離に位置している。はじめてこの言葉を書いてから今日に至るまで、スヴェトラーナのやりたいこと、伝えたいメッセージは変化していない筈だ。
スヴェトラーナは前述したとおり、聞き書きという、他者から聞いた言葉をそのまま文字に書き起こす手法を用いている。そうして集めた声の数は100を軽く越える。この、「収集された声の多さ」もスヴェトラーナを読むにあたっては欠かせない要素である。
『戦争は女の顔をしていない』は第二次世界大戦に従軍した女性たちの聞き書きによって構成されている。従軍した男性ではなく、また、町や内地で生き延びながら生活する武器を持たない女性たちでもない。自らの意思で志願し、戦い抜き、帰還した人々である。
さて、いま私が述べた要約で、想像できる彼らの声とはどんなものだろう?反戦の心か、戦地の恐怖か。いいや、それだけにはとどまらない。思い出は無味乾燥ではない。そこに描かれるのは、ごくごく当たり前の少女たちの生々しい日々の姿、そして彼女らが、自分の心の中でしか表現できなかった感情の数々だ。
私たちのイメージにある戦争とは、どうしたって暗く恐ろしいものであるように映る。英雄譚にせよ、悲劇にせよ、それは常に劇的であり、ドラマチックである。けれども彼女らが青春の只中を過ごした戦争とは、多感な少女だからこそ抱く無垢で女性的な感情と、凄惨な戦場の風景が混じり合う、どこか歪な日常だ。ただ反戦教育だけを見つめていた時、そんな、「等身大の人間」が持つ「現実と近しい感情」に戸惑いを持ち、困惑する。
従軍した彼女らは、戦後、戦勝国となったソ連で、しかし自らの戦争体験に口を閉ざした。多くの少女たちは、もとの「ただの女性」に戻る為に、人を殺した事実を隠さなければならなかった。国家のプロパガンダにより国民の義務として赴いた戦地から、帰ってくることが出来た彼女らは、しかし男性的な英雄像の影で、守られるべき女性の姿へ帰らなければならなかったのだ。
スヴェトラーナはそんなかつての少女たちに会いに行く。自我無き記者ではなく、ひとりの人間として家の扉を叩き、まるで娘のように、妹のように歓迎され、少女たちの物語を聞く。どの人生もひとつとして同じものはなく、劇的でドラマチックな物語は無く、ただ、懐かしさと物悲しさを秘めて語られる少女たちの記憶は、しかしどうしたことか、あのおぞましい大戦と同じ地平にあったのだと、はじめて気づかされるものなのである。


2、こどもたちの眼に焼き付いた理不尽


スヴェトラーナは『戦争は女の顔をしていない』で、穏やかな日常を屠られる惨たらしい戦争というものを二度と回帰させないために、彼女らの声を集めた。悍ましい戦争の記述は、戦争を起こした人々に、戦争への忌避感を呼び寄せるだろう、という願いによるものである。
そういった意味では、『ボタン穴から見た戦争』はもっと凄惨に戦争の理不尽さを描いている。『戦争は女の顔をしていない』が従軍した女性たちによるものであるならば、『ボタン穴から見た戦争』とは、幼少期を戦争に覆い尽くされた子供たちの懐古譚である。それも、独ソ戦激戦地、そして占領地となった現ベラルーシ、すなわち白ロシアにいた人々の。この星における未来への財産、子供たちが最も理不尽に、無抵抗のまま死んでいく地獄に対するスヴェトラーナの嘆きがひしひしと伝わってくる。
どこぞで聞いた話であるが、子供は、「起きている出来事」よりも「起きている情景」の方を鮮明に覚えるらしい。理解しないままでも幼い瞳に刻まれるのは、虐殺や暴力、楽しかった思い出が突然塗りつぶされる恐ろしさである。
特に胸が痛むのは、自分を庇って死んでいく親のことをよく覚えている子供たちだろうか。証言の中では、子供を大切にし、生かそうと保護する大人たちがたびたび登場する。しかし同時に、語ることが出来なかった子供たちは、生かされずに死んでいったからこそ沈黙しているのだ、ということも同時に悟るのである。
子供の視点に立って、「何が起きているか理解しきれていない人々の生の感情」に触れたければ、あえて頭を空っぽにし、混乱と絶望、あるいは勝利に向けての希望をひたすら捲り続けるのも吉である。いくつかの序文には必ず書かれているが、スヴェトラーナの書き起こした証言とは、数年前、数十年前の出来事への懐古で構成される為、そこには語り手の主観、「事実と異なる事象」が時として書かれているかもしれない。
だが、結局は「歴史は正しく在らねばならない」という国家の意識は一個人に対しては何の効力も持たず、ただ当事者たる彼ら、彼女らが見聞きした思い出のすべてが、真の歴史であることは紛れもない事実として残すべきなのだ。


3、ありふれていた死の向こう側にあるありふれた自殺

※出版社のゴタゴタの流れなのかどうかは分からないが、当書のみ絶版となっている単行本のリンクである。個人的には一番好きで手元に置きたい本だったので購入できなさそうなのが至極残念である。

ソ連という国家、その理想郷が崩壊した後に取り残された理想を望んだ人々、もしくは、「自死」を近しいものとしてとらえた人々の記録。
いままで上げた二冊が多くの人々の声だったのに対し、当初は章にひとりと比較的ゆったりとしている。こちらも聞き書きだが文学的な空気が濃く、丁寧に時間をかけて思い出される風景はまるで夢のようであり、共有不可能な感情があふれ出ているのを強く感じる。それはソ連に自らの青春を捧げた人々が、失われた国家に対して抱く懐古の念である。過去の狂気を悪であったと唾棄するのは簡単だが、ある者は愛と呼びある者は青春と呼んだ。それを置き去りにしたまま先に進んでいく世界への悲痛な叫びと、生への絶望を持って死に急いだ人々のありさまである。
社会主義国家としてはじまり、自身の理想を遂行することなく滅んだ国家は、コンプレックスと理想で歪んでいた。多くの苦悩を乗り越え勝ち取った戦勝は、まさしく一丸となって描いた夢の実現だったに違いない。「苦難を乗り越える」という連帯感で永い冬を乗り越えようとした彼ら、長い夢を見ていた彼らの、夢から覚めたあとに語る言葉は痛ましいものばかりだ。
大いなる社会の流れに、彼らの持っていたあまりに無垢な感情は押し出されて消えていく。自殺者は自殺の理由を社会に見出しながらも、言葉無く死んでいく。それは本当に忘れて、無かったことにして良いものではない。
彼らが本当に死んでしまった意味は分からない。彼らがなぜ死に魅せられたのか、その本当の意味など、自らが彼らと同じように、同じ時代に立って身を投げだした瞬間にしか悟ることはできない。そういった虚しさ、切なさは慟哭となってひたすらに響いてくるようだ。


4、目に見えない存在をどう信じれば良いのか

今記事は大体、スヴェトラーナが第二次世界大戦前後のソビエト連邦を扱ったものを取り上げているが、ここで1986年に起こったチェルノブイリ原発事故にまつわる証言集を取り上げたい。
さて、日本で生きる我々にとっては、そう遠からぬ話になってしまっているだろうか。事故処理に携わった人々や、周辺住民の言葉を纏めているが、この言葉たちを追うことによって、自らを重ねる方もおられるのではないかと推察する。日本での事故もまた、このように声を多く残されるべきなのだろうと痛感せざるを得ない。それほどまでにこの本は多くの人々の戸惑い、混乱を語る。
1997年に発売された当書は、つまり原発事故から約10年が経過してのインタビューである。目にも見えず、匂いもしないものをどう恐れれば良いのか?これまでになかった不可思議なものとどう向き合うべきか分からぬままの人、或いはどこか悟った人々の言葉は、戦争体験とはまったく異なる言葉を吐き出している。憎むべき敵は誰なのか、どうして追われなければならないのか…戸惑いの果てにある、故郷を見失ってしまった人々の怒りや悲しみは胸を突かれる。それは戦争の爆撃で焼き尽くされ、蹂躙されるのとはまたまったく違うのだ。汚染されている、というただその一言だけで追われゆく不可解な理不尽なのだ。
スヴェトラーナが拾い上げる声なき人の声は、カテゴライズされてしまった人々の姿をありありと浮かび上がらせる。先の本で言うのならば「ソ連人」というカテゴリ、そして当書ならば「チェルノブイリ人」という枠の中に入れられてしまった人々。ただそこにいた、ただそこに仕事へ赴いただけで、目に見えない壁を認識してしまった人々の、差別されてしまった人々の、この世とあの世の境目にある、どこか薄暗く恐ろしい狭間へ落ちてしまった人々の言葉を、異世界のもの、自分には関わりないものだと切り捨て、忘れてしまって良いのか、と、疑問を深く投げ掛けてくる。


5、同じ時代を共有しても、ひとつとして同じ記憶は存在しない

「思想もことばもすべてが他人のおさがり、なにか昨日のもの、だれかのお古のよう」…ソ連の過去を懐古し、スヴェトラーナはそれを「セカンドハンド」=使い古しの時代と呼ぶ。この非常に分厚い本は、かつてソ連だった場所、ソ連の記憶を持つ多くの人々へのインタビュー集である。『戦争は女の顔をしていない』『ボタン穴から見た戦争』がある特定のカテゴリ内に収まる人間の証言集だったのに対し、この本はありとあらゆる人々―――どんな身分も、地位も、戦争時代にいた場所も関係なく―――あらゆる日々を書き起こしている。
当書は上記に述べた本の内容といくつか重複するが、すべてを包含する膨大な証言集である。私はどちらかと言えば、資料集、記録集としての感覚で手に取った。これはスヴェトラーナの活動の総決算とも言うべきものである。なので、一番最後に読むか一番最初に読むかは委ねたいが、圧倒的な厚みと重み、海を水滴でひとつぶひとつぶ掬い上げているかのような、途方もない分量で、私たちに「人間の思い出」を突き付けてくるものだ。これだけの紙面を割いたとて、ほんのわずかな人の声しか掬い上げられていない、国家にいた人々の0,1%にも届きはしまい。途方もない数の日常があったということを再認識させることこそが悲劇に対する忌避なのだ。
そしてこれは、未来に対してのメッセージでもある。そう遠くない時代にあったひとつの国家が、崩壊しても夢から覚めたように何もかもが変わる訳ではない。少しずつ変容していく時代を観測することは、今を生きるわたしたちにはできない。だからこそ、こうして言葉にされ、残された人々の生々しい多くの感情は貴重な記録となり、これらの声を生かすことができる未来であってほしいと祈る土台となり得るのである。


まとめ~残すために口を開いた人々~

スヴェトラーナの物語は、ある事柄に気付き、知る為の足掛かりであり、大きなヒントを読み手にもたらすだろう。
戦争を取り扱うにしても、事故を取り扱うにしても、スヴェトラーナは起こった出来事そのものではなく、その出来事を取り巻く世界を紙面に描こうとする。それらは歴史的事件を辿り、描かれる数字や記録の無機質さの陰に隠れる、あたりまえの人々の生活の集合体だ。
いずれの本も、収録されている声のあまりの多さに圧倒される。そして彼らのことを読み手はまったく知らず、知人でもなく、ただ同じ地球上に生きている人である、ということくらいしか分からない筈である。スヴェトラーナが書き起こした声とは、すなわち時代や歴史に名を残すことなどない一個人、「私」と同じ目線の、人間のありふれた言葉なのだ。
例えば新聞を開いた時、世の中で起きている出来事をどのような視点で見るだろう?日々起きている事件事故は近しい視点だろうか、では遠い国の戦争は?よもや、その戦地に従軍している自分を想像することはない。自分の属する国家を見るにしたって、恐らく俯瞰視点で捉えるのが精いっぱいだ。
起きている出来事を、大きな視点と小さな視点で、同時に見ることは困難である。
例を挙げて言うのなら、歴史の授業で学ぶ、数百万人が動員される戦争と、道徳の授業で学ぶ、戦争に参加したひとりの人間の視点を同時に観測することは困難であるという風に。そして戦争を知らずに生まれてきた私は、形式的な形で示される象徴と化した反戦教育の中でしか知れないでいる。まるで夢でも見ているかのように、現実で起こっている事柄は逆に遠ざかっていくのだ。
いま世の中で起きている出来事だって、一庶民である我々がすべてを把握することは不可能であり、せいぜい身の回りに影響を及ぼしうる、生活に影響を与える物事を事象の一端として捉えることしかできないのである。
そしてこの世界を構成する人間の殆どは、現在地点から自らの視点より大きな視点を持つことは叶わない。
いま現在が後の教科書に書かれるとして、私たちが見ている景色のどれほどが描かれるか?きっとその中に、私たちの感情、私たちの思い出はわずかほども残されないだろう。教科書に描かれる「数百万人」の1でしかなく、日々のニュースにおける「国民一億人」の1でしかない、私たちの幸福な記憶は。
国、時代、大いなる枠組みの中で、ただの砂粒のひとつに過ぎない私は、そうしてスヴェトラーナが刻んだ言葉を歩み、記録された無機質な数字…犠牲者の数、従軍者の数、この国の人口の向こうにある、ひとつひとつのありふれた家庭にはじめて目を向けることが出来るだろう。そのうえで、彼女の刻んだ言葉たち、紙面から向けられる視線の数々は、私たちに対し、未来への祈りを託すのである。


おわりに


という訳でひさしぶりに読書感想文なるものを書いてみました。
ツイッター等で時々、どんな風に本を手に取り、読んでいるのか聞かれます。基本的に図書館の本棚の端から端まで、もしくは背表紙で適当に選んで抜き出すという適当な乱読法で読書をしている為、そのような問いに対しての返答は悩んでしまいがちです。
ただ、その行程の中でひとりの著者の本を意識して連続的に読む、もしくは連想する同一テーマを掘り下げていく、というのが私なりの分野の掘り下げ方です。乱読での感想は単一になってしまいますが、このように関連づけて読んだ記録は一冊ずつの本の感想ではなく、いくつかのコンテンツを総括してひとつの原稿としてまとめ上げるのが可能なのではないかと思い、試みの為筆を取りました。本当はスヴェトラーナ以外のコンテンツも居れたかったのですが、思ったより文字数がかさばったので省略。
楽しかったし、文章を書く練習にもなりそうなので今後も続けてみようと思います。



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