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特殊教育学とゾンビスノビズム

この本が届いた。まだ読んでないけれど、パラパラとめくって思うところを書いておこうと思う。多分こういうことが書いてあるだろうという臆見であり、読んだ後で反証されるかもしれない先行理解だ。

 ポイントは「特殊教育学」。イタリア語では「Pedagogia speciale」。この本の原題でもある。それにしても「特殊教育学」とはなんだろう。ぼくはいつものうように辞書を引く。気になるのは「Speciale」 。その語義は「特定の領域に限定した」というもの。教育を特殊な領域に限定するとは、たとえば目が見えない子ども、耳の聞こえない子ども、ニューロダイバーシティの子どもなど、違いのある子どもたちに限定した「教育学」(pedagogia )が、「特殊教育学」(pedagodiga speciale)ということなのだろう。

 間違っていたら教えて欲しいのだけど、日本だとそれはたぶん「特殊教育」であり「特殊学級」のことになる。そういう「特殊な」こども集め、「特殊なクラス」で、「特殊な教育」を行う。ところが今のイタリアは違う。「特殊教育」は昔とは違う方向を向いて進み始めている。それが「フルインクルーシブ教育」だ。だから本書はそのタイトルに原題の「特殊教育」ではなく、むしろそれが進むべき方向としての「フルインクルーシヴ教育」を挙げているのだろう。

 フルインクルーシヴ教育とは、障害を持つ学習者の特殊学級を通常教育の外に出すのではなく、むしろ内側に包み込んでゆくこと(inclusione)であり、それが「特別教育」の目的だという。日本にだって「特別教育学」がないわけではない。しかしそれは特殊学級を外に出し、結果的に排除(esclusione)してしまう。イタリアだって最初はそうだった。もちろん多くの国の歴史において、ハンデを背負った子どもたちのための「特別教育学」は子どもたちを助けるために生まれた。しかしそれは結果的に、特殊学級や特殊学校となって、彼らを排除するものとなってゆく。多くの国で事情は同じだったのだろう。イタリアも含めて。

 ところがイタリアの「特殊教育学」は、そんな教育から排除へと向かう方向から、教育から「包み込み」へと舵を切る。なぜそんなことができたのか。ヒントのひとつは、おそらくイタリアそしてヨーロッパに共通するものとして、歴史を振り返る態度なのではないだろうか。ヨーロッパの知はつねに歴史を参照する。彼らはそこに現在の問題を解く鍵があると信じている。じっさいそこに鍵を見出してきた。なぜそうなのか。かつてはどうだったのか。どうしてこんなことになるのか。そんなふうに自問しながら。

 だから本書をパラパラめくると、最初は「特殊教育」の対象となる存在について、その歴史をひもとこうとしているのがわかる。ホメロスまでさかのぼり、キリスト教の精神と対照させながら、言葉の定義を語源に遡りながら考えてゆこうとしている。こうして歴史のなかに、現在の「特別教育学」が見落としてきた系譜をたどりなおし、そこに現在の問題を解く鍵を見出そうとする。B. クローチェではないけれど「あらゆる歴史は現在の歴史」というわけだ。未来を開くのは歴史なのだ。

 けれども日本はそんな「歴史」を知らない。コジェーヴの直感にしたがうならば、日本のぼくらがそれによって生きている文化の本性は、あらゆる歴史的な価値を忘却しながら、その形式だけを守り続けるスノビズムにある。だから外から到来する新奇なものに圧倒され、その形だけをさっと取り込むのだが、その「歴史」は忘却の引き出しに仕舞い込み、ついに顧みなくなる。こうして残された形は、無反省のままに反復される形式となり、形式として継続し、継続していることがこの形式の権威となり、形式を守ることが価値となってゆく。

 だから閉鎖病棟はいつまでも閉鎖されたままだし、隔離病棟は隔離されたままになる。死刑制度にしても、死刑にはすでにルサンチマン以外の価値がないとして意味も価値も否定されているにももかかわらず形式として継続し、継続することで死刑を生産し続けている。もはや実質的にその存在価値がなくなったもののが、ただ存在しているという理由だけで存続し、その意味も価値も問われることなく、ただ習慣的に、その意味で条件反射的に、さらにいえば動物的に、同じ形式をただただ反復する。

 これはなんだろう。どこかで見たことがある。そう、ゾンビだ。まさにゾンビ。そのゾンビがスノビズムの成れの果てというわけだ。ゾンビだとすれば、倒すのは簡単だ。その条件反射を司る中枢を破壊すればよい。銃がなければバットや包丁でいい。ようはその中枢に一発ズドン、ブス、あるいはグシャッと食らわせてやれるものがあればよい。日本的なスノビズムとやら、だからバットの一発でカタがつく。じっさいバットでカタをつけようとする輩のがいかに多いか推して知るべき。

 そうはいって、本物のバットやナイフや銃なんかではなにも変わらない。ゾンビ映画におけるバットやナイフや銃は、日本的スノビズムにとっては、たぶん外圧というやるなのではないだろうか。丸山眞男ではないけれど、日本的なイデオロギーはいつだって「きょろきょろ」している。自分がないから規範を外に求める。だから、いつだって周りを気にしている。歴史的な反省によって、内在的な規範を更新できないスノビズムは、それを外に求めるしかない。規範は常に外からやってくる。それが辺境の地のスノビズムなのだ。

 では辺境の地の外部ではどうなっているのか。ヨーロッパではすでにフルインクルーシブ教育へ向かうことが当たり前となりつつある。世界はそちらへ向かっている。世界中がすべてマスクを外すまで外さないスノッブがこの国だとすれば、インクルーシブ教育を迎え入れるには、世界中のすべてがインクルーシブとなり、お前だけ何やってるのかという黒船の到来を待たなければならないのかもしれない。だとすれば、ずいぶんと時間がかかるのだろう。しかし、それがかかる時間ならかけなければならない。

 そもそも教育とは時間がかかる。教育の仕事は待つことだ。成果がでるまでの期限をきらず、ただひたすら辛抱強く待つ。けれども、成果が出るときは出る。いつかはわからないけれど、気がつけば奇跡的な成果が出る。信じて待つ。工夫して、誠を尽くして、あとは天命に任せる。それが教育だ。だからその教育の現場が変わるのにも時間がかかる。待つことが教育のプロセスなのだ。かかる時間はかかる。人によって、場所によって、対象によって変わるけれども、かかるものをかけずして教育はない。

 加えて、今の状況で良いわけがない。かなりやばい。そんなことはみんなわかっている。そして、もしも同じクラスに盲の子どもがいて、車椅子の子供がいて、ニューロ・ディヴァーシティの子どもまでいるならば、そのギャップは混乱を生むだろうけれど、同時にその混乱から必ずや思いがけない成果が生まれてくる。それは物理の法則と同じ。偶発性というやつだ。

 お上の好きな言葉を使うなら、そこにイノベーションがある。イタリア語で言えば「innovazione」。これは「新しい」(nuovo)という形容詞に接頭辞「in-」をつけて動詞かしたもの。混乱なければ「新しい」ものへと開かれることはない。逆に言えば、教育における秩序とは「新しもの」を押し殺すシステムなのかもしれない。そこで教師は、もはや教師ではなく、看守となっている。そんなことは、でも、教育者なら誰もが感じていることではなかったのか。

  ならば来れ、混乱よ!

 もちろん簡単じゃない。簡単じゃないけれど少しずつ変えてゆく場所を作ってゆけばよい。石を少し動かすだけでよい。なにしろぼくらの国はスノッブの国だ。だからみんなで少しずつ石を動かして行くしかない。そして、ある一定の限界点を越えた瞬間に、おそらくみんながいっせいに、そっちのほうが粋だとばかりに真似しはじめるのだろう。

 なんせスノッブなのだ。真似はうまい。本気で真似る。もしかすると本家だって超える。きっとそうだ。今までもそうだったではないか。

 そんな日が来るのを少しだけ早めるために、ぼくはこの本を読んでみようと思う。みなさんも、ぜひ、ちょっとだけ石を動かしてみませんか。