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マンション内見と物悲しさ

4連休の2日目、中古マンションの内見に行った。

1軒目は大通り沿いの4階で、小綺麗にリノベーションされた2LDKだった。
部屋に向かうまでに2組のファミリーとすれ違ったので、独身者は少ないのかもしれない。
リビングに面した窓から常に車の音が聞こえて、ここに住んだら鬱陶しさはあるけど、寂しさは感じにくいんじゃないか、なんてことを思った。

2軒目は閑静な住宅街の中にある5階建マンション、最上階の角部屋。抜け感のある眺望と高い天井には心が踊ったが、床が全面カーペット張りであるということがウィークポイント。
今回見えてきた条件の優先順位を仲介業者のお姉さんと話して解散した。

自分にとってはこれがはじめての内見で、少し疲れたこともあり帰り道に近くのカフェに入った。
1階がカフェ兼バー、2階がレストランという作りで、何度か来たことがあった。

そこでコーヒーを飲みながらあれこれ思い返してると、ふと妙な物悲しさを感じた。近所のマダムたちで賑わう店内に一人だけ背を向ける形で座りながら、ほとんど泣いてしまいそうだった。

この物悲しさがどこから来たのか、その場ではよく理解できなかった。もともと物件を見ること自体は好きで、何時間でもスーモを見ながら時間を潰せるタイプの人間だ。完璧というわけではないが、愛すべき美点のある物件にも出会えて、そこでの生活に思いを馳せることができた。楽しい時間だったように思う。

しかし一日経って改めて思い返すと、あのとき2つの感情が、自分に物悲しさを感じさせていたのではないかと思う。

ひとつは自分の孤独がより強調されたことである。

ファミリー向けの2LDKに一人で住むことは、その部屋の中で、そして部屋を出た生活圏内において、常に孤独を強調するのではないかと思う。
書斎と寝室とリビングが分かれているのはいいことだ。ビデオ会議と作業と読書で場所を分けて、気分を変えられる。
しかしそこには自分が不在することで空になるスペース、言い換えると「自分以外誰もいないこと」を際立たせる余白が生まれる。この余白は1Kには発生し得ないものだ。それを空想ではなく、現実に近いものとして感じたからこそ、その強調された空白に怯えてしまったのではないかと思う。

もう一つは、これから長く続く時間に向き合ったことだ。

当然ながら中古マンションの購入にあたっては資金計画が必要だ。一括で買えるキャッシュは持っていないので、30年程度のローンを組むことになる。
途中での売却も考えているので、深く考えなくてもいいとは思っていたが、いざこの部屋で一人で30年暮らし、自分のものとなった時、60歳近い自分の姿を思うと、一体自分の人生が何のためにあるのか、わからなくなってしまう。

一人でも過ごしやすい空間を作ることはいいことだ。家で過ごす時間が長いからこそ、その重要性は高まっている。
しかし、充実した家を探す中で思ったのは、家の中にある種の不便さを残しておいて、外に出る、社会と繋がろうとすることもまた同じくらい大事だということだ。恵まれた居住環境は、一人の生活を楽しいものにこそすれど、幸せなものにはしないのではないか。
「全てを家で完結させようとしない」ことを、この家選びの中で意識しておく必要があるかもしれない。

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