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腹囲が気になる福井の旅 越前国一宮巨大な鳥居の気比神宮参拝 19.11.29 09:26

腹囲が気になる福井の旅、六日目。
敦賀に泊まった朝。まずは越前国一宮気比神宮の参拝から。

気比神宮は敦賀の駅から1Kmくらいでじゅうぶん歩けると言う場所にある越前の一宮にして、北陸道の総鎮守と呼ばれている。
まぁ、加賀も能登ももとは越前。そうなれば、北陸道の総鎮守もわからないでもないかなぁ。越中や越後が納得しているのなら。

そもそも、越前国の国府は今の越前市。昨日まで泊まっていた武生あたりにあったそう。
越前国は大国で、紫式部の父親も越前守として赴任していた。紫式部自身も越前に来るには来たが、父親の任期中に京に帰ってしまったらしい。
冬はつとめてとか言ってられるのは京都だけ。越前の冬の厳しさはそんな甘いものじゃなかったはずだ。

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そんな越前の一宮は巨大な鳥居がランドマークで日本三代木造鳥居に数えられる。春日大社、厳島神社、氣比神宮というのがそうらしいが、木造鳥居って限定しているところが頂けない。
日本三大大鳥居が平安神宮、おのころ神社、厳島神社。日本三大石鳥居が、日光東照宮、八坂神社、鶴岡八幡宮。木造に限定しなければランキングが怪しい・・・は言わずに置くが。

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氣比神宮の駐車場は鳥居の先、国道沿いにあった。他にもいくつかあるらしいがシーズンオフのため一番いい駐車場でもガラガラだった。
無料の駐車場にレンタカーを停めて参拝へ。
しかし、なんだかんだ言っても鳥居は大きい。
気比神宮は大国である越前の一宮であり、官幣大社で北陸道の総鎮守だ。古事記、日本書紀にも登場するし、神社ではなく神宮を名乗る時点で特別な神社だ。
子どもたちの遊び場にはもってこいかも知れないが、敦賀の街、遊ぶところはいくらでもありそうだ。もっとも、今の子供達が駆け回って遊ぶようなことをするのなら。

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南北朝時代、宮司の気比氏は南朝方についたため、北朝方に敗れて一族は討ち死に。戦国期には朝倉氏に組み込まれたが、信長の侵攻により社殿は消失。江戸時代になると、越前藩、大野城主などから信仰を集めたそうだ。
しかし、敦賀空襲でまたまた社殿を焼失。現在の本殿・社殿は昭和25年の再建。歴史は古いが社殿は新しい。神社が街なかにあると何かと燃えやすいという典型的な神社かもしれない。

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山門から伸びる参道から、直角の向きの神門をくぐると拝殿。
前記のように戦災後の再建のため趣という点ではまだまだといった感じ。
神門が台風の影響で損失したらしく工事中。年末年始に向けて必死の準備中と言ったところか?

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平日の昼間。参拝の人もまばら。
敦賀の街も福井市ほど開発がされておらず人口も少ない。
街としての規模がしれているので、参拝の人が押し寄せるってこともなさそうだが。
福井市から遠いんだよね。ここ。

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境内には末社がいくつかあり、その中の角鹿神社が敦賀の名前の由来だそうだ。と、説明の看板に書いてあった(笑)

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空襲の復興からまだまだ新しいため、歴史を積んだ一宮としての威厳みたいなものはあまり感じられない。
街なか、平野部の真っ只中にあるため地理的に霊的なものもあまり感じない。
敦賀という街が小さいため、参拝の人も少ない。

奥の細道の旅で芭蕉も訪れているらしく銅像も建てられている。
当時はどのようだっただろうか?
一応、北陸道の玄関口なわけだし。

一宮にしてはこじんまりとした気比神社。
隣の学校のチャイムがやけに響いた。




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