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諏訪大社四社参りをしてみた話し 諏訪大社上社本宮参り 19.09.21 08:40

諏訪大社四社巡り。上社前宮から移動して本宮を参拝。
前宮と本宮は目と鼻の先。山腹にような雰囲気のところに建つ前宮では門前町(創建当時にこんな呼び方だとは思わないが)の形成には不利。上社を割と平坦な現在の本宮の場所に移動させたのは正解だろう。

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駐車場に車を止めて土産物屋が並ぶ参道を進む。
本宮の巨大な鳥居は新宿では有名な三平氏の寄付。彼の地元への還元って諏訪では有名。功成り名を遂げた名士のあるべき姿です。

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この大鳥居は実は本来の表ではなく、本宮の表は実は左の奥山梨側、拝殿の裏から入るのが正しい入り口。なんて言われても駐車場をそこに作ったらここから参るに決まっている。正面には御柱一の柱も建ち自然と足は拝殿へと向かうし。
でも、諏訪大社には拝殿のみで本殿というものはない。神様は守屋山にいるというのが神社の言い分。この様式を諏訪造りと呼ぶらしい。

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前宮に比べて本宮の境内は広大です。というか、四社中一番広いかもしれない。
境内も見どころ満載なのだが、諏訪大社は戦の神様ということも有ってか武田信玄が深く関わっていたため織田信長により焼き討ちにあい戦国時代に全焼してしまったのだとか。今のように復興したのは江戸時代になってから。あちらを立てればこちらが立たず。権力に近寄りすぎると危険だということか。


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そんな諏訪地方は高遠地方と同様に江戸時代を通じて流刑の地。
諏訪大社本宮の表(大鳥居じゃない方ね)には、諏訪の名刹法華寺があり、吉良上野介の孫、吉良義周の墓がある。義周は、悪名高い上野介の息子で米沢上杉家を継いだ上杉綱憲の次男だったが、上野介の養子となり吉良家を継いでいた(ここ、かなり複雑)(松の廊下での大立ち回りの後、上野介自体は無罪隠居になっていた)。そこに起こったのが播州赤穂浪士の討ち入り。吉良義周本人も怪我を追ったが回復。赤穂浪士切腹の日に評定所で領地召し上げの上高島藩にお預けが言い渡された。結局、3年の後21歳で病死(ちょっと怪しい)。
討ち入りを行った赤穂浪士も短気が取り柄の浅野内匠頭も今はドラマになって語り継がれる立場。言わば名誉回復だ。結局この事件での一番の被害者は義周だったかもしれない。諏訪の地でひっそりと眠っています。


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諏訪は温泉の地だからだろうか冬は極寒の地だからだろうか手水舎が温泉だったり、雷電為右衛門の銅像が有ったり、土俵が有ったり、五穀の種池が有ったり、神楽殿が有ったり、御神木の欅が有ったりと境内はまさにアミューズメント。

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流石は全国に25000もある諏訪大社の総本社。
信州諏訪の地に建つ日本最古の戦いの神様です。












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