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リンカーン、なんのために斧を研ぐ?独学者の視点で解釈

「If I had six hours to chop down a tree, I’d spend the first four hours sharpening the axe.」 

Abraham Lincoln

「木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やす」エイブラハム・リンカーン

アメリカ第16代大統領で、奴隷解放の父ともよばれるエイブラハム・リンカーンの言葉。(6時間だったり8時間だったり諸説あります)

―6時間与えられたなら、4時間は斧を研ぐ時間に費やす―

この意味をネットで調べると、
「実行する時間よりも準備の時間が大切なんだよ」や「プランニングを怠るとかえって効率が悪くなる」、その他「斧を研ぐ」を掘り下げて実生活にあてはめた解説など見受けられました。

いずれもプランニングだったり準備そのものに焦点が当てられていました。

なるほど、この言葉は「準備や段取りの大切さ」を説いているのか…。でもなんだろう、なにか、違う気がする。

…この名言、本当に準備の大切さを説いているのか?

今回、そんな疑問をかけだしの独学者として考えみました。

□独学者の視点で考えてみる

実はこの言葉、家庭教師の先生から教わりました。その方は常々「経営者の視点で物事を考えるといろいろ見えてくるよ。」とおっしゃられていて、学校のことを考えたり仕事で意識してみたりしますが、僕自身は未だ理解が遠いなぁと日々感じています。

経営者の視点は未熟、その代わり僕は勉強が得意でなかったこともあり、日々もんもんと勉強や学習について考えることが多かった。高校は不登校でしたが、現在放送大学で学び直しています。

今回は、そんなかけだしたばかりの独学者として、敢えていうなら独学者の視点を意識して考えてみることにします。

(“経営者の視点”で解釈するのなら、まんまネットで解説されている事で十分足りて、むしろその方面に真実がある気がします。)

□「準備」がなぜ大切なのか

準備やプランニングの重要性について、放送大学の教科書をかりて僕なりの解釈を述べます。

皆さんは科学論文って読まれますか?

めちゃ読むよ!って方と、難しくて読む気にならんよ!って方どちらもいらっしゃると思います。

ですがこの科学論文がどのようなステップで執筆されているか知っている方は少ないのではないでしょうか?

[論文を書く]を含めたこのステップのことを「科学的研究サイクル」と呼ぶそうで、①〜⑨で構成されています。

1.問を立てる
2.対象を限定する
3.背景を調査する
4.仮説を立てる
5.仮説検証の方法をデザインする
6.仮説を検証する(=実験する)
7.結論を導く
8.論文を書く
9.新たな問いが生まれる…

「科学的研究サイクル」

[1.問いを立てる]から[9.新たな問いが生まれる]までの計9ステップにわたって、ちょうど8番目に[8.論文を書く]がありますね。

では、実験は何番目でしょうか?

[6.仮説を検証する]実験は6番目、つまり9ステップのうち5番目までは「実験の準備」に時間が注がれているわけです。

これ、まさにリンカーンの言った名言そのものじゃありませんか?

リンカーンは“木を切り倒す”ことを実行するまでに、4時間斧を研ぐといった。これを科学研究に置き換えるなら、実験を行う前に5ステップ分の準備をする。

教授の話によれば、実際に論文を書くとき背景調査など膨大なので準備段階で何ヶ月もかかることがあるらしいです。研究職さんすごい!

放送大学 岸根順一郎 著『自然科学はじめの一歩』より

学問では目的が若干異なるかもしれませんが、ビジネスでもなんでも「なにかの探求者」として同じ心を持つ人は多かれ少なかれ賛同されたり、実際にこのような道筋でお仕事されている方もおられるのではないでしょうか?

ひとまず、科学研究の場では「準備」にとことん時間を費やすみたいです。

また、「研究の成否は問いの立て方で決まる」と言われるくらい、科学研究の場ではよい実験はよい準備を前提としていることが分かります。

「研究の成否は問いの立て方で決まります。よい問題設定ができれば研究の半分以上は完了しているといっても大袈裟ではありません。」

放送大学 岸根順一郎 著『自然科学はじめの一歩』より

□そもそも僕らはそんなに賢くない

僕は成功者でも経営者でもありません(今のところ)。想像で物をいうなら『斧を研ぐ』ことの必然性を理解している人がビジネスで成功するのかも。

ですが、思いました。
変に利口ぶって(言葉が悪い…いい言葉が浮かばなかった)、実感の伴わないなか4時間斧を研ぐくらいなら、「錆びた斧で最後まで切り倒す」方がいくらかマシな気がする。

(斧を研ぐ意義を理解しないまま名言どうりにするのがよいの?)

僕はつねづね疑問に思っています。
「効率的でプランニングが上手い」とか「はじめから全体を理解して行動できる」とか

『要領が良い人』=賢い人なのか?

僕自身は、はじめから「4時間は斧を研いで〜2時間で切る」なんてプランニングしなくていいと思うのです。

なぜなら

僕らはそんなに賢くないから

僕らは賢くない、
だからこそ、

⇨まずは錆びた斧で切りこんでみる、
⇨やってみて上手くいかなくて、途中でよりよいやり方を考える。

「どうやったらもっと楽に効率よく切れるだろうか?」と問うてみる。

⇨そうしてsharpeningが必要だと浮かんだなら、思い切って「木を切る」を止めて「斧を研ぐ」に行動を修正する。

良い方法が見つかるのは、その前に上手く行かなかったから、もっと言えば上手くいかない経験をもとに改善を試みたからではないですか?

上手くいかない経験を地道に積み上げ、内省し、改めて行った先に“賢さ”はあるんだと思うのです。

やってみて、分からなくて、知ろうとする。

“あまり賢くなく、すぐに飽きるし諦めてしまう”ような独学者は、繰り返し自身の無知に打ちひしがれないと学習は続かんのです(苦しいですが笑)

我々は、この当たり前の学習ステップを忘れてはいけない。

もちろんやる前に考えることは大事です。
先の科学的研究サイクルでいうなら[4.仮説を立てる]にあたる、行動するにあたっての予想や狙いがあるから、結果との差異を見出すことができる。

学習を成立させるために「おれ分っっっかんねぇよ!!」が不可欠ってことです。

□リンカーンはなぜ斧を研ぐ

準備は大事、良い方法を得るには上手くいかなかった経験が不可欠だと、前述しました。

名言でリンカーンはまるで未来でも見えているのかというほど恐ろしいまでの「準備」をします

思うに、リンカーンは少なくとも一度「錆びた斧で木を切り続けた」経験を持っているのではないだろうか?

もしそうだとするなら勇気がわきませんか?
かの偉人リンカーンも僕らと同じどうしようもなく地に足ついた“人間”だってことです。

「錆びた斧で6時間切ってみて気づいたが、4時間かかってでも斧は研いだ方がいいわ」

すねいる梅

未来人でも超能力者でもない僕らはこれでいいじゃないですか。最後に名言を体得していればそれでいいのです。

▷錆びた斧でも木は切れる?

先ほどリンカーンが「錆びた斧で木を切り続けた」経験があるかも知れないといいました。

リンカーンほどのお方です、例え斧が錆びていようが与えられた仕事、きっちり6時間以内に木を切り落とす姿が想像できませんか?僕はできます。

問題は、錆びた斧でも木を切れてしまうこと!

わきから横槍を入れるような話になってしまいますが、斧が錆びてようが研がれてようが6時間あれば木は切れる、そう仮定します。

となるとあれほど必要そうだった「準備」は一体なんのためにするのでしょう?

ここに今回の肝がある!

研いでも、研がなくても、どちらでも同じ結果が得られるからこそ、僕らは試されている。

□僕らは学びに試されている

実際のところ、 結果に至るまでは斧を研ぐのが必要か、必要でないかは誰にも分からない。『斧を研ぐ』ことの必要性は何においても保証されないからこそ、僕らは選ばなくてはならない。

錆びた斧で木を切っている途中、

「斧を研いでみたらなにか変わるかもしれない、楽になるかもしれない」

こうよぎる時が必ず来るでしょう。

しかしながら、
研ぐのに何時間かかるか分からない
研いだからといって切れるのか分からない

「だったらこのまま作業に没頭する方が懸命では?」

これは想像のつく思考回路ですよね。

名言では当然のごとく理解された『斧を研ぐ』の有効性も、結果が見えないうちはただの“必要そうなこと”

ですがこの、

必要そうなことを前に、今やっていることを止めてまで実際に試してみる事ができる』

ことが独学を進める上での大事な素養だと思うのです。

「独学者はまた、どのように学ぶかを自分で選び、決定しなくてはならない」

読書猿 著『独学大全』より

なにを手がかりとして学習を発展させていくか、知識の獲得によって刻々と変わる自身の変化にどう対応していくか、自立した学習者である独学者は、
学び”によって“学ぶこと”を日々試される

□結果という過程

大学受験、就職、仕事…。
人生の大事な局面ではやはり結果は重視されて然るべきだと思います。結果を割り切ることは難しい。

だけれどもし結果が同じになるとするなら、皆さんは過程で何をしますか…?

リンカーンがもしかしたら「錆びた斧で木を切り続けた」かも知れないという話を覚えているでしょうか。

今度は結果、錆びた斧では木が切れなかったとする。この名言の理解者から言わせると、確かにその行為は愚かかもしれない。

でもそれを経て、その後リンカーン自身がこの名言を世に放ったというドラマがあるなら、その結果は良い名言を生むための過程でしかなくなると思いませんか?

思ってる以上に過程はどうでもよかったりします
そしてなにより、結果も、広い目で見れば過程でしかない

『ならば過程で遊んでみるのも悪くない』

そのように思います。

□遊ぶように学ぶ

頭の良い私達はすぐに名言を理解します。
斧を研いだ方がメリットが大きいことを瞬時に見抜きますし、錆びついた斧のままでは、たとえその時木が切り落とせたとしても、それ以上のことを求めるのは難しいだろうと想像もできる。

しかし現実では、錆びた斧で木を切り落とすことも正解の一つ。

こういった「何が正解がわからない」狭間のなかで私達は生きています。

そんな中、唯一信じられるものがあるなら、
それはもっと本能的な『○○したい!』という欲求ではないでしょうか?

先に述べた、
『必要そうなことを前に、今やっていることを止めてまで実際に試してみる事ができる』

こういったことを可能にするのも、飽くまで“より良い”を求める人の性質や、強欲なまでの知的好奇心だったりするのかもしれないですね。


人生の大木を前にしたとき、あなたはどんなことを思うだろうか。

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