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【半分雑記】ウロボロスを貫通する運命について

現実様態としてのウロボロスの環について、最近は散漫と考えてきた。とはいえ、現実のことについて考えるというのは大変に難渋する。なぜなら、現実に対してどこまで思考を驀進するかというボーダーは截然と意識しなければならないからだ。
現実というものを思案するにあたって、私は完全にそれを論理化させてはいけないと思っている。純粋な〈現実〉と純粋な〈現実様態〉でさえその様相は変容してしまうし、そのうえなお〈現実様態〉を≪現実様態≫(鮮明に語り得る現実様態)とするのは容認しがたい。にもかかわらず、私が一縷の望みを抱いている哲学という形式さえ、少なくともその表層においては「≪≫」、二重山かっこ的なものについて語る(自余の体験もその表現形式に仮託された)場なのだと思われるから、全的な信用は置きづらい。結局、現実とは私ひとりで考えざるを得ないことなのかもしれないとも思われるが、如何。

本題に移ろう。今回は〈現実様態〉を志向した表現としての〈ウロボロスの環〉についてである。ウロボロスについては、前記事からくだくだしく言及を繰り返しているが、今回はそれに少し手を加えて、現実という運命をより視覚的に、そしてより矛盾的な表現にしたいと思う。

まず、そもそもウロボロスとは、世界において対蹠的なものの相克の場であった。では、ここでは何が相克しているのか。ひとつは無限否定、もうひとつは素朴な肯定である。無限否定とは、現れているものすべてを無限に否定するということである。あらゆる事柄は、実際にはという形で否定される。たとえば、唯物論者は心をものだとし、唯心論者は物をこころだとする。ここに表現は両立する。これらはどちらも、「実際には」そうだという本質化、ないし本質への諸事実の帰属化がある。しかし、この相反する表現は、世界の場において徹底的に反復されることとなる。即ち「どちらがどちらであってもいい」ということが、時間的なものを要請するまでもなく、無限に反復されるのである。ここには、たとえば人間の意思はない。人間の表現は、絶えず「でも、どちらがどちらであってもいい」ということと相即にある。このことを言語の性質だと読み替えることも可能だが、私はこれを世界の性質であると考える。なぜなら、あらゆる思考、あらゆる感覚を言語と認めるならば、その総数は世界に他ならないからである。無限否定は、この時点で自らと相克している。
次に、素朴な肯定とは、そうした無限否定は「ただそれとしてあるではないか」という素朴な事実である。どんなに無限に反復する否定があったとして、それはやはりそれとしてあるのではないのか。いや、あるのだ。
と、表明した時点で、素朴な肯定は無限否定に噛みつかれる。「いや、それこそが否定すべき事柄なのだ」。そして素朴な肯定はやり返す「ということも、やはりそれとしてあるではないですか」。
無限否定と素朴な肯定は、互いに噛みつき合い、両者の自陣に持ち込もうとする。そして、そのことは絶えず失敗している。

では、このとき現実とは何だろうか。現実とは、無限否定の否定である。どういうことか。
現実とは、前述した無限否定と素朴な肯定が、互いに消える運命として機能するのである。しかし、このとき運命は、平面上のウロボロスを貫通するように、奥行きの方向へ行くのである。どういうことか。
現実とは、すべてがすべてである、ということである。これを全全性と呼称する。このウロボロスの環は、実は全全性を満たしていない。ウロボロスは、あくまでも世界の転写であり、その時点でこれは劣化しているのである。現実とは、ウロボロスにおいて潰れていた世界の様相を、更に潰す。そして消すのである。現実とは即ち〈なんであってもいい〉ということであり、それこそが全全性なのである。なぜなら、現実とはただすべてがすべてであればいいのであり、そこにそれがなんであるか、ということは一切かかわりようがないからである。そのため、前述のウロボロスさえも、それを無化する運命として現実は貫通してしまうのである。これはつまり、あらゆる論理的なもの、体系的なもの、そうしたものを貫通するということである。これは時間であるとか、世界の開闢としての〈私〉であるとか、当然言語も、ウロボロスにおいて行われていた無限否定以前において、これは徹底的に消去されるのだ。
現実とは「『もはや何も言えない』ということも言えない」ということも消去される場なのである。

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