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友という感覚的な存在を切り取ってみる

おそらく読者様が考えてるものではありません、あなたの浮かんだ考えは定義付けられないものですから、それを否定などしませんし全方位で肯定し認めます。それでも読んで気分を害されたらごめんなさい、悪意はありません。私の歌を詠んで頂けば嬉しいだけの駄文です。前置きは以上です。

感覚的でどうしても難解な解釈に陥りがちですが、私が考えたのは「私」と「友」の両者が「それぞれの人生で関わった人」を無慈悲な独自基準という様々なフィルターで濾して、意図的に減らし、自らも他者に減らされる側の立場に晒され、これ以上細かい網目がない先に残った残りカスが友だと思っています。

私基準の独断と偏見で満ち溢れたフィルターは
楽しいを共有する人生を豊かにするパーツとして両者が認識していること
訪れた不幸を気に留めることもなく、いつもと変わらず接してくれること
訪れた幸福を鈍感な如く喜ばず、いつもと変わらないこと
長い空白期間があっても、懐かしく思うことさえなく現在進行形でいつもと変わらず接してくれること
それぞれが精神的にも生活的にも自立し、頼らない。
その自立が限界ギリギリまで追い込まれ、その禁を破った時でさえそれを赦し、助けそのことさえ無かったことに出来る心を持っていること

この全てを満たしてくれる人を私は心で「友」と呼んでいます。決して本人には気恥ずかしく友と呼んだことはありません。友達と思っていない人に対しては作為的にコントロールするためにそのワードは使いますけどね。

私の友は4人です。
多いのか少ないのかも分かりませんが確かに私の中ではそう思っているのです。
数で優越感や劣等感を感じるのではなく、「友という感覚の概念」を私に与えてくれたことをその4人の友に感謝したい。

メンヘラで引きこもり生活困窮者です、生活保護を申請中です。ガスも止めてスポーツジムで最低限の筋トレとお風呂生活をしています。少しでも食費の足しにしたいのが本音です。生恥を重ねるようで情けないのですがお慰みを切にお願いします。