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ある新聞記者の歩み 2 押し不足もあった。抜かれもした。しかし、“ガンクビ”集めに果敢にアタック。

1.水戸支局時代--新聞記者生活の原点(下) 

「今回は失敗談もお話しようと思います。」

Q.それはまたどうしてですか?

「イケイケどんどんの自慢話ばかりでは、なんか出来のよい記者のように読者に思われても困りますから(笑)、失敗談も話した方がいいのかなと思いまして・・・。」

◆歴史的人物が近くにいたのに

 -1932年(昭和7年)の五・一五事件は、海軍の青年将校が犬養毅首相を「問答無用」と射殺した事件です。実は、同時に軍人数組のほか、水戸中学から一高を中退し水戸郊外で愛郷塾を主宰していた農本主義者・橘孝三郎率いる民間人・農民グループが行動に出ました。

 -橘らがみな茨城県出身だったために、この2ヶ月前に起きた「血盟団事件で小沼正、菱沼五郎のテロリストを出したばかりの県民に大きなショックを与え、“水戸浪士”の伝統を継ぐ“水戸右翼”が全国的にクローズアップされた」と『茨城の明治百年』で佐々木宏人さんは書いています。

橘孝三郎は、五・一五事件のときは東京の変電所を襲撃しました。私が「茨城の明治百年」の連載記事の執筆に当たっている時期は存命でした。70代半ばくらいだったでしょう。この人に会わなかったことが、実はいちばん悔いていることです。茨城で愛郷塾というのを結成して、農本主義に基づいて、昭和恐慌と東北の冷害で苦しむ農民の地位向上をめざしていた橘は、ドイツ哲学への造詣も深くクーデターの理論的中心人物のひとりでした。」

Q.どうして会えなかったのですか?

「僕は何度か会おうとしたんです。しかし、なぜ会えなかったか。それは私自身の弱さと、歴史認識への甘さでした。それを思い知らされたのは、のちに保阪正康さんの『五・一五事件―橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』(1974年草思社刊、2019年ちくま文庫刊)という本を読んだからです。保阪さんは、実に何度も橘に手紙を出して、自分の考えを書いて、やっと会って話を聞いているんです。私にはそこまでやる強い気持ちが不足していました。保阪さんみたいにきちんと手紙を書いて、どうせ水戸にいたんだから毎日でも通って、何とか会って話を聞いておくべきだったなと。慚愧に堪えません。歴史的な問題についての立ち位置が専門家に比べて、新聞記者は弱いなあというのを、今にして感じてます。」

「悔いといえばもうひとつあります。血盟団事件の菱沼五郎(別名小幡五朗)です。三井財閥の団琢磨を暗殺した人で、戦後、小幡五朗の名前で茨城県の漁連の会長や県会議員を務めました。恐らく全国でテロ実行犯が県会議員をやっていたのは全国でも一人だけではなかった思いますが、県会議場で見かける小幡は実に温厚な老人で、とてもテロ犯という感じはしなかったですね。私は小幡に「当時の話を聞きたい」と面会を申し込んだのですが断られました。もっとしつこく当たるべきでしたが、1回であきらめてしまって押しが足りませんでした。そういう意味では、連載「茨城の明治百年」の記事は画竜点睛を欠くというか、まだ昭和史全体の重みを感じ取ってなかったと言えます。ただ保坂さんの本の巻末の参考文献に『茨城の明治百年』がリストアップされているのを見てうれしかったですね」

◆顔写真集めに苦心惨憺

「失敗談ではないのですが、事故や事件の犠牲者の顔写真の報道について言っておこうと思います。個人情報保護という観点では、現在ではとても考えられないことをやってたことになります。」

「殺人事件でも交通事故でも、何か死亡事故があれば必ず顔写真を入れるというのが当時の常識でした。「ガンクビ(顔写真のこと)はどうした!」という事件取材の際のデスクの言葉や、先輩記者の怒鳴り声は今でも忘れません。中には、本当かどうかわかりませんが、葬儀会場から飾ってある写真をかっぱらってきちゃったなんていう武勇伝も、事件記者の鑑(かがみ)として語られていました。記者はカメラにくっつける接写レンズというのを必ず持ってました。コピー機なんてありませんから、写真をそのまま接写するわけです。それで線香を上げて、「ご供養もありますので、ぜひ顔写真を紙面に載せて差し上げます」なんて調子のいいこと言って、アルバムを出してもらって選んで撮らせてもらうわけです。特に特ダネ的な事件の場合は、他社に渡さないためアルバムごと持ってきちゃう場合もありました。「貸してくださいって言って・・・。」

「今でも覚えてますが、茨城県の栃木県に隣接するところに御前山村というのがありました。今は、常陸太田市に編入されています。昭和41年3月11日の未明、群馬県みなかみ町の水上温泉に慰安旅行に行った、この村のタバコ耕作組合団体客のうち30人くらいが焼死したのです。おじいさん、おばあさん、それに働き盛りのお父さん、お母さんたちでした。宇都宮支局から連絡があって、早朝、飛び出して車で御前山村に向かいました。火災現場の水上温泉を取材しているのは管轄の宇都宮支局でしたが、御前山村は茨城県なので水戸支局に取材要請が来たわけです。」

「御前山村に車で向かうその途中、無線で住所、氏名などの情報をもらったりしてかけつけました。すると、山の方からたくさんの人が国道に降りてきて、情報を交換して話し合っている様子でした。そこへ新聞社の旗をつけて行ったので、みんな寄ってきまして、ひとりひとりが「名前が出てますか」などと必死の表情で聞いてくるんです。とにかく肉親が生きているか死んでるかの瀬戸際ですから。しかし、それはそれとして、紙面に犠牲者の写真を載せなくてはいけない。生前の人となりとか、どういう仕事をしていたかとか聞きながらも、顔写真が欲しくてしようがないわけです。するとアルバムを何冊も持ってきてくれるのです。「この人です」と教えてくれます。ほかの社に写真を取られては困るから「お預かりします」と言って、名刺を置いて持ってきちゃうました。まあ、後で返しましたがひどいことしたもんです。」

Q.結局何人くらい集めたのですか?

「結局29人位まで集めたかなあ。だけど1人だけ集めれられなくてデスクに怒られた覚えがあります。確か地元紙の茨城新聞は全員分を集めていました。そういうことで勝った負けたと言っていたんです。」

「もう一つ顔写真取りの記憶です。茨城県の南端の太平洋に面した波崎町(現・神栖市波崎)というところがあります。利根川の河口をはさんで向こう側は千葉県の銚子市です。波崎にも銚子から遠洋漁業に出る漁師たちがたくさんいました。ある時、太平洋の洋上で遭難事故が起きたことがあります。それで漁師さんの家に行って顔写真をもらおうとするのですが、「まだ死体があがってるわけでもない。縁起でもない、ふざけるな。」と気の荒い漁師に怒鳴られたりしました。」

「人の不幸につけこむような感じで、新聞記者は因果な商売だと思いましたよ。ただ、当時は、事故の悲惨さを伝えるとか、再発防止のために役に立つという大義名分があってやってたんだけど、その辺のところは、今とまったく違いましたね。当時はテレビ局も来ませんでしたし、メディアスクラムなんてなかった・・・。時代の流れで大きく変わりました。」

「最近の相模原のやまゆり園事件、京都の京アニ事件などでの遺族の意向を尊重して顔写真を載せないケースを見るにつけ、時代は変わったと思いますね」

◆茨城大の学生運動でなぐられたり、赤軍派予備軍に会ったり

「写真と言えば、茨城大で学生になぐられたことを思い出します。昭和42年(1967年)茨城大でも学生運動が燃えさかってバリケードストライキを取材していたのですが、学生に殴られてカメラを壊されたことがありました。学生たちの言い争いをしている様子を写真に撮ったのだったのだと思います。なぐってきたのは全共闘と対立する右派の学生でした。その一件は私が記事を書いて、毎日の茨城県版の「本紙記者暴行を受ける」という記事になりました。」

「暴力はだめだよと殴った学生をこんこんと説諭したことを覚えています。水戸警察署は立件する気は全然ありませんでした。全共闘側だったら別だったかもしれないけど。そのうちの1人はのちに県警本部に入ったって聞きました。権力側は体制支持派には甘いんだなと身をもって体験しました。」

「写真の話からそれますが、その茨城大の全共闘には、のちに赤軍派に加わる松田久がいました。今でも指名手配されています。もう70歳を超えていると思います。1975年、赤軍派がマレーシアのクアラルンプールで米大使館、スウェーデン大使館で人質に取る事件を起こした際、政府は要求に屈して国内の赤軍派の服役拘留のメンバーを解放しますね。そのとき、松田久は1971年赤軍派の資金集めの銀行襲撃事件で逮捕され懲役10年の刑を受け、収監中でした。彼も解放され、リビアに渡ったといわれています。」

「私は、松田らと何度も話したことがあります。学生運動を始めたころは、真面目な田舎の学生という感じだったのだけど、しばらくして、目つきがまったく違って人間が変わった印象を持ったことがあります。そのときは立てこもりに加わった頃で、赤軍派にすでに入っていたかどうかはわかりません。ブル新だといって、相手にされませんでしたよ。今もおそらく海外にいるんだと思うけど、交番に指名手配のポスターが貼ってありますね。茨城大で会ってからもう50年以上。先日彼の現在(72才)を想像した手配写真が公開されましたが、ウーン、そういう彼の人生の一断面を見たなという感慨があります。」

「ただやはり60年代安保騒動の真っただ中で育ち、新聞記者生活を送り始めた世代の一人として、純粋に主義主張に生きている連中に出会えたことは、人間の生き方にはいろいろあるんだという事を知る上で、幸運だったと思います。
同級生にも東大全共闘に入り、安田講堂に籠城して逮捕された仲間もいます。彼は、福島の飯舘村で原発事故直後から農業支援活動を続け、最近東京から飯舘村に移住してしまいました。また、大学の同じクラスのメンバーが革マル派にオルグされ、行方不明になった人もいます。ホントあの時代は、何が起きても不思議ではない時代でしたね」

「公安調査庁とか水戸署の警備だとかは、新聞記者から情報を取ろうとしていました。そういう連中とも会っていろいろ話しましたが、話し方とか情報の取り方がけっこううまくて、おもしろい経験ではありました。支局のデスクからはあんまりつき合うなと釘を刺されましたが・・・。新聞社の内部ではそういう学生運動の活動家、共産党との関係などに注意を払っていて、入社の際の”身体検査”で調べられたような形跡はありましたね」

◆黒い霧事件で見た政治家の生態

「水戸支局で体験した事件で忘れられない事件の一つに『県会議長選を巡る黒い霧事件』があります。これも苦い思い出の失敗談です。」

「1966年(昭和41)年に起きた事件で、当時中央政界では田中彰治衆院議員の議会の質問をタネにした恐喝まがい事件や、東京都議会の議長選を巡る贈収賄事件などが頻発した上に、衆院の「黒い霧解散」などがあって”黒い霧”というのは流行語でした。この中で、茨城県議会で当時の県会議長・飯沼泉が短期で辞める約束だったのに居座って、彼を押した自民党県議からやめろコールが起きました。これに対し飯沼議長が「議長になるには経済的負担がかかった」と言い出して、大騒ぎになって贈収賄事件に発展しました。」
「結局県議20人が連座・逮捕され、県議会は解散しました。当時私はサツ回りで水戸地検も担当していましたので、担当検事には割と食い込んでいましたから、取材には自信を持っていました。ところが、連日、地元紙の茨城新聞に抜かれっぱなしで参りました。地元紙の警察や検察への食い込みは、とても新人記者には太刀打ちできませんでした。」

「ただ出直し選挙では獄中から立候補して当選したり、のちに国会議員になった人もいて、日本の民主政治の底の浅さと、それを支える地方政治の在り方を本当に考えさせられました。自民党の幹事長にもなる梶山静六も事件に関係していたといわれましたが、逮捕は免れました。政治部時代、梶山氏を見かけるたびに政治家の運・不運を感じたものです。」

(続く)                                

◎メディア研究者 『ニュースメディア進化論』(インプレスR&D、2019年) 『メディアの先導者たち』(NECクリエイティブ、1995年) ◎ポール歩きを推進するNPO法人みんなの元気学校代表理事
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