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ある新聞記者の歩み 14 激動の日々の記憶に残る政治家群像

元毎日新聞記者佐々木宏人さんからの聞き書きの14回目です。前回お伝えしたように、佐々木さんが政治部に配属となった年に、勤め先の毎日新聞社が事実上倒産しました。しかし、会社の新旧分離という“離れ業”で、社の事業は継続できたため、佐々木さんは、会社経営の大波をかぶることなく、政治部の現場で新聞記者としての仕事本位の日々を送ることができました。政局によって大きく動きが変わる政治部は経済部とまったく違う文化でしたが、それがたいへんおもしろかったと佐々木さんは言います。(聞き手-校條諭・メディア研究者)


◇日本の政治の転換点に立ち会った4年間   

Q.佐々木さんのおられた政治部時代は振り返ってみると、どういう時代と位置づけますか?派閥抗争がくりひろがれ、戦後の日本の政治史では有名な、言葉では憶えていますが“40日抗争”などもあって大変だったと思いますが。

ぼくが政治部にいた4年半の時代(1977(昭和52)年1月~81(同56)年7月)、総理大臣が三人代わり(福田赳夫→大平正芳→鈴木善幸)、史上初の衆参ダブル選挙を含めた国政選挙が3回ありました。その後の、村山首相を生んだ1994年の自民党と社会党の事実上の連立政権、さらにそのあとの1999年の自民党・公明党の連立政権、2009年の民主党政権の成立などを生むきっかけともなった時代だったともいえるんではないかなあ。

自民党中曽根派、自治省、外務省担当などを通じて、総理大臣のポストを巡る権力闘争、国政選挙結果の与える影響、日本の地方自治・中央と地方の関係、日米安保条約をめぐる問題、日本と韓国の問題などなど―未だに日本の政治テーマとして解決できていないというか、永遠のテーマを取材できたことは、新聞記者として本当に幸運だったと思います。

経済的な面から見れば、1950年代初期から約20数年間続いた年率10%近い高度経済成長の時代が第一次石油ショックの到来を経て終わりをつげ、農業などの一次産業中心の国から、大都市集中のサラリーマンが国の中心となるように“国のかたち”が完全に変って、“一億総中流”の時代に入っていました。それだけに選挙民の要望も社会保障の充実や、高速道路、新幹線などの国土インフラの充実を求める時代に変ってきていました。

20200613佐々木宏人氏顔写真

◇国政選挙と総理大臣交代が究極の取材テーマ

自民党はどちらかといえば、農山村に軸足を置いた政策を看板に掲げていました。対する社会党も米ソ冷戦を背景としたイデオロギー的な労働組合をバックにした“平和憲法を守れ”-という運動中心でしたが、それだけでは“一億総中流時代”のサラリーマン組合員に対応しきれなくなってきていました。そういう両者の体制を支えていたのが、衆院の中選挙区制度だった言えます。しかし政治も時代の変化に対応せざるを得ない時期に入っていたんだと思いますね。

政治部は経済部と違って、国政選挙の結果と、総理大臣の交替が究極的には取材の最終テーマですから、それに合わせて全部員の配置を考えていたと思います。例えば外務省(霞クラブ)、自治省(内政クラブ)などを担当させられていても、必ず担当派閥を兼務していて自民党の平河クラブに名前を登録しておくシステムになっていました。ですから他のクラブを担当しても、自分が割り振られている派閥の動向、その親分(派閥の領袖)の記者会見、オフレコ懇談会、盆暮れの懇親会などには必ず顔を出すのが当然でした。ぼくは官庁担当の時でも中曽根派担当でしたからそういう会合には必ず行きましたね。

特に衆院総選挙は当時まだ中選挙区制で、一選挙区で4人も5人も当選するというシステムでした。小選挙区制が導入されるのは1994(平成6)年。それまでは各派閥が競って中選挙区に候補者を立候補させるわけです。そうなると選挙資金がかかりますね。派閥の親分の集金力が問われるので当選するには1億円、2億円もかかるといわれる金権派閥選挙になるわけです。政治部としては突然の解散がいつあってもいいように、各派閥からの選挙区ごとの候補者の把握、その選挙区の情勢分析などを頭に入れておかなくてはなりません。ですから派閥の事務所にはヒマがあると顔を出していました。

派閥担当というのは、国会からすぐの自民党本部ビル内にある平河クラブに所属しています。国会開会中は平河クラブは国会内に移ります。ほとんどの新聞、放送、通信社、地方紙などが加入していたと思います。今はどうか知りませんが、基本的には常駐している新聞社がデカイ面(笑)していたと思いますね。

◇「1週間で収まるよ」のはずが40日間!

Q.40日抗争”の頃の平河クラブは大変だったのでしょうね。

今でも思い出すのですが、79(昭和54)年10月の総選挙で自民党が過半数割れの事態となり、大平首相と福田前首相が敗北責任と後継首相を巡って対立します。大平派と田中派が組んで大平首相継続を打ち出し、一方「大平首相」の辞任を求める福田派、中曽根派、三木派の連合が自民党をまっ二つに割る、いわゆる“40日抗争”が起きます。当初はキャップやデスクに「こういう自民党の騒動は1週間で収まるよ、まあ夜討ち朝駆け頑張って!」なんて言われて・・・。

中曽根さんの目白の家への朝駆け、ほとんど連日、朝日新聞政治部の中曾根派担当の山下靖典記者と一緒になりました。交互に中曽根さんの車に“箱乗り”して一問一答をするのですが、やはり主役の派閥にいるわけではないので情報は薄いんですね。中曽根派の事務所のある砂防会館まで30分程度同乗して、車を降りて、中曽根さんを見送り、その会館の一階で、中曽根さんとのやり取りを山下君にも披露して、キャップに上げるメモを作るんです。翌日は僕が砂防会館に待っていて、山下君の箱乗り情報を聞くんです。二人でよく「政権からは遠い“窓際派閥”の中曽根派情報はどうせ使われないよなあ」と愚痴をこぼしあったことを記憶しています。

夜は渡辺美智雄、藤波孝生、宇野宗祐、原健三郎、武藤嘉文などの中曽根派幹部の家や、九段にある議員宿舎の夜回りをやるわけです。もちろん一人ではなく同じ中曽根派担当の中曽根派キャップの中田章記者(後地方部長)、入社年次では後輩の中曽根さんと同じ高崎出身の松田喬和記者(後編集委員)などと手分けしてやるんです。夜回りを終えて、本社に上がり、そのやり取りのメモをキャップに提出、それから平河のキャップや担当デスクなどと翌日の打ち合わせ。家に帰るのは1時、2時。帰ると朝6時半には朝駆けの迎えのハイヤーが来ているというわけです。

でも1週間たっても2週間たっても抗争は終わらず、ますますヒートアップ。「話が違うじゃない」とブツブツいいながら、昼間は疲れて記者クラブのソファーを各社で奪い合い、仮眠です。ソファが取れないときは休憩室にある麻雀卓を囲みます。それも疲れてやってられないとなると、給湯室のどんぶりを出してその中にサイコロを振って出た目で勝敗を決めるチンチロリンか、トランプや花札でオイチョカブ。まったくヤクザの賭場か、ダム工事の労務者の飯場のすさんだ感じ(笑)。本当にあの4週間疲れたな―、政治のこと以外他のことへの思考能力がなくなるんだなあ。平河クラブというとあの時のことを思い出します。政治家はタフと思いましたが、その半年後の総選挙の最中に主役だった大平首相は亡くなりました。その疲労があったと思いますよ。

Q.超過勤務手当がたんまり入りましたか(笑)?

給料は超過勤務手当が打ち切りで、前回話した毎日新聞社の経営不振による“新旧分離”もあって、普段とそんなに変わりません。でも文句を言う記者はいなかったんじゃないかなあ。とにかく取材が面白くてしょうがないんですから。ウワサでは民放のテレビ局の記者は、超過勤務は打ち切りなしで天井知らず、その月の給料が百万円をはるかに超えたという話も聞こえてきましたね。コンチキショ―という感じでしたね(笑)。

◇「あんなキザなやつは総理大臣になんかならない」と金丸信の中曽根評

Q.その中で佐々木さんは中曽根派担当だったわけですが、どういう感じでしたか。当時、政治の世界では中曽根さんの存在は、田中派、大平派、福田派などの存在に較べて素人目にも存在感は薄かったような記憶がありますが。

三角大福中の中で中曽根が総理大臣になるなんて誰も思っておらず、政治の主流は田中角栄の田中派、大平正芳の大平派、福田赳夫の福田派が握っているわけです。この角大福派閥間で首相の座を回すというのが暗黙の了解で、政治部でもこの派閥を担当しているのが、政治部記者のエリートコースという感じだったと思いましたね。

三木派担当というのは、自民党の良心という感じのリベラル派の三木武夫さん自身が、大所高所の正論を述べる人でした。ここを担当する記者は“足して二で割る”いわゆる自民党的ではなく、論理的な正論派が多く、将来の論説委員候補という感じでしたね。もちろん例外はいましたがねえ(笑)。後に毎日の社長(2004年)になる同期の北村正任君も三木派担当でした。温厚かつ落ち着いた切れ味鋭い原稿を書く記者でしたね。東大法学部卒、公務員試験で大蔵省にも受かり、それを振って毎日新聞に入ったという伝説を聞いたことがあります、父親は当時の青森県知事・北村正哉でした。「大蔵省に入っていたら後継知事になれたのに・・・。」と冷やしたことがありましたが、苦笑いしていましたね(笑)。

その北村君が当時のキャップに40日抗争の終了後の総括の記事を書け―といわれて、「頭を冷やして、少し考えてきます」といって、クラブを出て黄色のイチョウの並木の国会周辺を散歩してきて、やおら原稿を書き始めたことを記憶しています。ぼくなんか書きながら考えるタイプの記者でしたから、こういう落ち着いた記者がいるのかとビックリした記憶があります。彼が社長になった時、真っ先にこのことを思い出しました。

中曽根派は資金力のある田中派や、大平、福田派に較べて派閥としても大きくなく弱小派閥でした。その頃、山梨県選出の田中派の重鎮・金丸信さんが国会対策委員長で、ぼくは平河クラブで国対委員番も兼務していました。金丸信さんにはわりとかわいがられました。よく自宅に夜討ち朝駆けしました。金丸さんは、「オマエは中曽根派担当だろう。あんなキザなやつは絶対総理大臣なんかにならないぞ」なんてぼくに言ってました(笑)。何たって金丸さんのあだ名は、昔の甲州ヤクザの“黒駒の勝蔵”、宴席でうなるのは「武田節」、中曾根さんはシャンソン。毎朝、英字新聞、ラジオでFEN(極東アメリカ軍向け英語放送)放送を聞いているような人ですから文字通り“水と油”。

金丸信氏写真t202108

でも金丸さんって面白い人で、国対委員長室の新聞記者のいる前で「今日、夕方からマージャンだ、金おろしてこい」と秘書にいって通帳とハンコを渡すんです。おろしてきた百万円以上はある金を数えながら、通帳を見て「なんだもう〇百万円しかないのか」なんて担当記者の前で平気でいうんですから・・・。野党側の国対担当議員と卓を囲んで、わざと負けるんでしょうね、体のいい“賄賂”ですよね。でも憎めない人でしたね。

金丸さんはその後、例の金塊事件などの脱税で逮捕(1993年)されるのですが、同じく逮捕された秘書の生原(はいばら)正久さんなんかとは親しくしていたので、のちに甲府支局長に行ったときに山梨県知事選の情勢分析など世話になって助かりました。また甲府支局長当時(1986年)、金丸さんと親しかったという事で、金丸さんの応援していた県政のキーマンの一人であるUTY(山梨テレビ)社長の中山典村さんに、色々な人を紹介してもらったり、広告出稿などで大変お世話になりました。その後任の社長は金丸さんの長男の康信さんがやられていました(現相談役)。

◇派閥懇親会で「ササキのこわいろ」が大ウケ

Q.金丸さんと、中曽根さんとでは、まったく正反対のタイプですよね。他社の元政治部記者の方から聞いたんですが、佐々木さん当時派閥の懇親会などでなにか歌舞伎の物まねをやってエラク受けたという話を聞きましたが、どういうことですか。当時政治部の世界では有名?だったと聞きましたが?(笑)

いやあ、まいったな。校條さんも相当取材力ありますね(笑)。とにかく僕は政治部では経済部からきた“遅れてきた青年”ですから、派閥担当などで、なんとか顔を売らなくてはいけないわけです。たまたま中曽根派の幹部との懇親会で担当記者のかくし芸をやるという事になり、他の人はカラオケなんかでごまかしていました。

ぼくは当時よく聞いていた歌舞伎の女形の中村歌右衛門の声色(こわいろ)?で、お富さんと斬られの与三郎の物語「いやさお富、久しぶりだなあ」、「しがねえ恋の情けが仇(あだ)」の名台詞で有名な「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の一幕を、当時は普通にあった風俗産業のトルコ風呂を場所設定にして、お富さんと与三郎の出会いの場を自作自演の「アレーッ」なんてセックスシーンを入れて、高い声を張り上げての声色をやりました。やんややんやの大喝采。その後何回もやりましたね。おかげで「ササキのこわいろ」という事で名前を知られましたね(笑)。いまどきは政治部も女性記者も多いので、とてもじゃないがそんなことやったら大問題でしょうね。そういえば政治部には各社とも女性記者は、一人もいなかったんじゃないかなあ。

これが受けて金丸さんとの国対委員長番記者を集めた宴会などでもやって、その後、担当を外れても「オイ、あの歌舞伎の声色呼べ」という事にもなりましたが、今考えればバカなことをやったと思いますよ。だけどそれほど一生懸命に他の記者に負けないで、政治家に印象を植え付けて、食い込もうと思っていたんでしょうね、当時のぼくを思うといじらしいですね。

でも4年後、経済部に戻り大蔵省担当になるのですが、中曽根派のOB会の会合によばれて「ヤレ、ヤレ」とはやされて、この「こわいろ」をやったのですが、終わってから当時の担当仲間だった日本経済新聞の岡崎守恭記者(後政治部長、常務)から「昔と違って、面白くなくなったね」とズバリいわれました。やはり気負いがなく、迫力がなくなっていたんでしょうね。

◇記憶に残る政治家群像

Q.中曽根派の担当時代に記憶に残る政治家ってどんな方ですか?

他の派閥は二世とか官僚出身の人が多かったけど、中曽根派はわりあい地方議員などからのたたき上げの人が集まっていましたね。結構趣味人も多かったですね。俳句をやる中曽根さん、ギラギラした総理への思いを託した「くれてなお 命の限り 蝉時雨」は有名ですよね。

未来の宰相といわれた藤波孝生さんの句に「控え目に 生きる幸せ 根深汁(ねぶかじる)」があります。根深汁ってねぎを入れた味噌汁ですよね。名句と思います。藤波さんは中曽根内閣の官房長官でした。その句の通り控え目で、本当にクリーンな人で政治家らしからぬ人でした。よく九段の議員会館の宿舎に夜回りに行きましたが、政策にも強く、落ち着いて腰の定まった人でしたね。リクルート事件で中曽根政権のスケープゴートとして逮捕され、失脚します。どれほど悔しかったか。政治家の運、不運を感じましたね。

他には小林旭の渡り鳥シリーズの脚本を書いたといわれる衆院議長にもなった原健三郎、その青山の家の二階に行くとデッカイ、ヌードの油絵が飾ってあり、度肝を抜かれましたね。また宝塚ファンの櫻内義雄、宇野宗佑さんなどを思い出します。

宇野さんとは何回か有楽町のコリドー街の料亭で、宝塚の公演を終えたスター達と飲んだことあります。こちらは全く宝塚スターに知識がないので、呆然と見ているだけでしたね。ぼくが政治部を離れてから宇野さんが1989年リクルート事件で有力者が連座して、宇野さんに総理の座が回ってきました。しかし神楽坂の芸者に「おれの愛人になれ」と“指三本”を握らせたという告白が、同期生の鳥越俊太郎記者が編集長だった「サンデー毎日」にすっぱ抜かれて、わずか69日で総理大臣を降ります。その芸者の前の御亭主が、なんとぼくも偶然知る有名デザイナーだったのでビックリしました。その人と離婚してから芸者に出たのですね。

また有力閣僚もやったことのある有力議員とは何で見込まれたのかわかりませんが、彼のカノジョの赤坂の芸者さんと、三人でよくゴルフ行きました。当方の、芸者さんより下手なゴルフの腕前が見込まれたのかもしれません。夜回りの時に、奥さんの顔をまともに見られなかったなあ(笑)。今だったら下手をすれば“文春砲”の対象になったかも。「スクープ!有力議員、赤坂芸者、新聞記者とお忍びゴルフ」なんて(笑)。その芸者さんに赤坂に店を出させたので、「行ってやってくれ」といわれたので行きましたが、べらぼうに高いので閉口したおぼえがあります。宇野さんといい、こんなことが普通に行われていたのですから、「政治に金がかかる」のは当然ですよね。そう考えると時代は本当に変わりましたね。

やはり政策問題では後に大蔵大臣となるミッチーこと渡辺美智雄さん、通産大臣もやられた与謝野馨さんなんかはシャープでしたね。特に高校の同窓で三年先輩の与謝野さんは人脈も広くて勉強もよくされていて、当時のスタグフレーション(不況下の物価高)などについてのレクチャーを丁寧にしてくれましたね。

◇図抜けた迫力のハマコー

Q.他派の政治家で印象に残っている方はいますか。

ヤッパリ、ハマコー(浜田幸一衆院議員・2012年没)さんですかね。金丸信さんの国対委員長番の時、田中派でもないのに無派閥で「オレは金丸信の用心棒だ!」といって押しかけ、いつも国体委員長室でにらみを利かせていましたね。金丸さんも可愛がっていました。ハマコーさんは、本当に若い時はヤクザ組織にいて人を刺して刑務所にもいたことがある人でしたが、凄みと、人の言えない核心をズバリという人でした。

各社の記者が国対委員長室にたむろしていると、「おれが君らの政治部の将来を予測してやる」―というのです。「卒業大学と、社内の経歴と、政治部で今までの持っていたクラブをいってみろ」というんです。大きなお世話ですが、面白がってみんな「40年早稲田大政経卒、○○支局勤務。政治部では官邸田中番、それから外務省、厚生省担当、今は平河クラブ田中派担当」なんて答えると、「お前はデスクにはなれるが部長は無理かもしれない」と診断するんです(笑)。その心は田中派ばかりに傾斜しすぎている―というのでしょう。

ある記者は「東大法学部38年卒、政治部に配属、佐藤栄作首相番、外務省、自治省、福田派担当から野党担当、今は平河クラブで福田派担当」、ハマコーは「お前はデスク、部長間違いなし」なんて太鼓判を押すんですよね。ぼくは「経済部から」来ましたというと、「デスクにはしてもらえるだろうけど、政治部長は無理だな」なんて。当たっていますよね(笑)。
要するに役所、会社なんかには、外部にも、内部でも暗黙の皆が知っているけど決して口に出さない、出世ルートってありますよね。例えば役所なら、秘書課、企画部なんてルートを通っていると何となく主要部長、役員コースに乗っていると、周囲は感じるじゃないですか。それを公衆の面前で、当人に平気で言うんですよね。そういうところが八方破れで、右翼の児玉誉士夫、小佐野賢治、田中角栄などの懐に飛び込んで行けたところなんでしょうね。

40日抗争で大平首相を支持して、両院議員総会を阻止するために自民党本部9階のホール前に反主流派が築いたイスや机のバリケードを、強行突破するところにも立ち会いましたが。「いいか、断っておくけどなあ。かわいい子供たちの時代のために自民党があることを忘れるな!お前らのために自民党があるんじゃないぞ」とタンカを切っている、目を吊りあげて仁王立ちしている姿に、集まった反主流派はその勢いに呆然として立ちすくんでいました。その姿は忘れられません。いやー本当に本物の〇暴(まるぼう)の迫力はすごいなと、度肝を抜かれましたね。

政治部の4年半、やっぱりそれまでの政策や組織中心の官庁、企業相手の経済部の取材と違い、人間=政治家相手の取材でしたから面白かったですね。こちらも人間力を正直に出さざるを得ませんから、ぼくにはこっちの方が向いていたのかもしれませんね(笑)。                          (以上)