まっすぐあちこちぶつかる
新年、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年はちゃんと朝街宣するぞー!と思って、今日から朝の駅頭を始めました。
雨が降りました。笑
なんでやねん。ギリギリながら起きたのに。昨日の夜のうちに止むっていう天気予報のはずだったのに。
でも小雨だったので、最小限の荷物を持って久我山駅に行きました。心配して手伝いに来てくれた人がいて、ものすごく心強かったです。
区政の報告をきちんとして、みなさんからお話を聞かせてもらうために、街に出ること。
今年はもっとたくさんできるように頑張ります。
それに今日は、メガネ屋さんでメガネの歪みを調整してもらったり、自転車屋さんで自転車のメンテナンスをしてもらったりして、街の職人、手仕事人、ってやっぱりかっこいいなぁ〜と思う日でした。
世間話をしながら、ちょちょいのちょい(最近聞かない言い回し?)っと仕事をして、まぁまた見せにきなよ、と送り出してくれる。
毎日誰かの生活の一部に寄り添っている仕事だよなぁ…すごいなぁ…と、改めて感動しながら坂道を歩きました。
さて、タイトル画像についてですが、昨年末から「甦育」について色々考える場面が多く、また、一般質問でもあまり理解してもらえる言葉が出せなかったなという思いもあり、今年は児童福祉と教育、そして少年司法についての知見を深める年にしたいなと思っています。
自分が小学生の時に起きた神戸連続児童殺傷事件のニュースに大きな衝撃を受けて、少年事件の判例や犯罪心理学の本を選んで読んでいた時期があったのですが、児童福祉というのは「誰のため」なのか、というのは、その頃から結構ずっと自分の中に持っているテーマなんですよね。
中学生の頃は人類が滅びた方が地球のためだと本気で思っていたのですが、生きることに執着し始めてからは、生きながらなんとか人類が進歩するために力を尽くして他の生き物に迷惑かけないようになりたいと思っていて。
児童福祉というのは私の中では、あらゆる命を大事にできる人が育っていくために必要、つまり人類が地球で生き延びていくために必要、という位置付けになっています。
その位置付けの中で、今は自治体議員として、目の前の人、目の前の制度、目の前の環境、と向き合って一つずつ解きほぐして仕事をしていきたいと思っています。
まずは大きなところから掴んでいくために、年末年始、実家に帰省する電車の行き帰りで読んだのが『ナチスに抗った教育者』という岩波ブックレット。
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b650783.html
ドイツでライヒヴァインさんという学校の先生が残した著作は戦争直後は発禁処分になった(戦中に他の教育者に届けるため、表面的にはナチスの使っていた言葉遣いに沿った書き方をしていた)らしいのですが、後に友人たちが誤解を解いてきちんと評価され直したそう。
彼は戦争が終わる前にナチスを倒す活動に参画して処刑された人で、そもそも管理統制的な軍人育成の教育には大反対なんですが、混迷を極める中を掻い潜りながらナチス統制下のドイツに残り、教育を通して子どもたちが自由な未来をつくっていくことに賭けた、その実践を行った人でした。
これを読んでから、年始、ある映画を観に行きました。
https://katayaburiclass.com/
これはメキシコの国境の街にある小学校で起きた実話を元にした映画。麻薬や銃を10代の少年たちが扱い、貧困や家庭環境に学びを阻まれた人たちが負の連鎖を断ち切ることを諦めている中で、「学び」を持ち込んだ教員が波紋を広げていきます。
さっきの本と時代も環境も全然違うんだけど、この教育の中身がまるで本当にとてもよく似ていて。
邦題は『型破りな教室』だけど、本当は『Radical』というタイトル。
根源的な、という意味を「型破り」にしちゃうなんて、邦題はいつも不思議…。
学びの本質は、社会に適合できるよう矯正することではないのだけど、「教えて育てる」と意味付けられてしまうと、たちまちそちらに寄っていきます。でもこの本や映画に出てくる話はそうではない、学びの本質に迫る教育の実践です。
北野武の映画では簡単に人が死にすぎる、という評論を昔見たことがありますが、戦争や貧困や搾取の構造の中では、本当に簡単に、痛むことができなくなってしまうくらいに、人が次々と死にます。映画なんかよりずっと無惨に、構造的に人が殺され、自由に生きることが夢の中に閉じ込められます。
そういう中で、管理統制ではなく、一人一人の人間のそれぞれの中に可能性の火を灯すものとして、教育を存在させるということ。
それは、「子どもたちを二度と戦場に送らない」と誓った日本の戦後の教育者たちの思いを継ぐことでもあります。
同じ過ちを犯さない、という決意の元で、「学ぶこと」を保障する教育ができる環境をつくること。
「学びの多様化」という言葉が、管理統制の方向へ向かう教育を覆い隠さないように、注意深く自治体行政の取り組みを見ておくこと。
現場の教員が、自分を殺さず、子どもたちになるべく嘘をつかないでいられる働き方を保障すること。
私は自治体議員の立場でできることがたくさんあるので、働きます。
そうだ、吉田はるみ衆議院議員も以下のような企画をしています。教員、元教員、教員志望の学生などなど、ぜひお話を聞かせてほしいです。私も、今の現場の声を知るために参加します。
議員というのは法律に基づいた議論を行うのが仕事ですが、私が最も苦手なのが、法律を読むこと…。
法律の文章というのは、読む人の主観に左右されないように懇切丁寧に説明を施し関連する条文を引用しながら書かれているのですが、だから余計にややこしい。。
しかし条例を一つ作るのにも、法律の文章の構造をわかっていないと言い回しにとらわれて騙されたり間違えたりするので、頑張らねばなりません。
特に次の杉並区議会定例会で議案として出てくる予定の『(仮称)子どもの権利に関する条例』は、子どもたちが自分たちの権利保障のためにあるものだ、ということをわかって使える条例にしないといけないので、大人の管理者・保護者目線みたいなものをできる限り排除することに全力を注いで議論してきました。
人的環境として権利保障のために周りの大人がどうするか、という規定が入るのは当然ですが、子ども自身が権利の主体として主語を勝ち取った形で条文が書かれている必要を、しつこく訴えました。
これがどういう形で議案として出てくるのか、2月議会に向けてできることを最後までやりたいと思っています。
昨年は大統領選挙とか、いろんな国で政変が起きていて、日本も含め世界中が戦争の準備に勤しんでいるとしか思えない日々が続いています。
なんなんだ。
パレスチナの人々を残滅させようとしているイスラエルは学校や病院や難民キャンプまでも攻撃対象としていて、明らかな国際法違反なのに、それすらも止められない。このわからずやな植民地主義的な構造をほぐして編み直すことが必要で、今の私は行動が全然足りないので、やります。
沖縄や鹿児島では、島々がどんどん軍事要塞化している。美しい自然と豊かな文化をつないでいくことよりも大事なことがあるだろうか。不穏なニュースをあえて流して不安を煽りながら、中国の脅威に備えろと圧力的に生活環境を変えていくことは、日本国憲法の理念にはそぐわない。
子どもたちが生きて、育って、遊んで、学んでいくことを邪魔するものは全部どかしてやるという気持ちをしっかり持って、それぞれの人が失敗しながら自分の力で掴み取って生きていくことを応援できる環境をつくることを、今年もしぶとくやっていきます。
今週、来週と、立憲の自治体議員有志で、女子少年院や児童相談所の視察も行いますので、後ほどまたレポートします。