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『鎌倉殿の13人雑考』その3

 『鎌倉殿の13人』も気づけば20回が終わってしまった。そろそろ折り返しである。この直近の2回は源義経をめぐって話が大きく展開した。まずは17回から。いきなり最後の場面で恐縮だが、京都で義時と時政は義経と面会する。「経験もないのに自信もなかったら何もできぬ」とかつて言い放った義経に対して時政は「では自信をつけるには何が要るか」を問い「経験でござる」と言う。まだ若い義経を見守るような年長者の視線は暖かい。「さらばだ」と告げる義経も諦めではない、少し明るい顔をしていた。

 ここで話が脱線するが、、今回の作品は全体的に史実を紀行でうまく補足している点が目につく。京都や奥州で義経はどう過ごしたのか、「奥の細道」の一節を使いながら芭蕉が彼らにどんな思いを馳せたのかも追体験で生きる。紀行は見方によってはおまけ感もあるが、やはり最後まできちんと見ようと思わせれる。

 さて、昨日の回である。タイトルは「帰ってきた義経」、最後まで見るとそれが何を指すのかというのが胸に沁みる。今回の義経は既存の貴公子的イメージはない。他人のことを簡単に信じてしまう純粋で、でも天才であることは変わらない愛すべき菅田義経である。里の仕掛けた罠にも気づかず最後は殺してしまう。直接は描かれなかったが娘にも手をかけたのだろう。静と里の関係や両者のあり方にもそれぞれ政子の言うところの「覚悟」があったのだろう。それらにも最後まで気づかぬまま死期を悟る義経は最後まで見ていて辛いが愛せる男である。最後は義時の策にも気づくが、そこで抵抗したり逃げたりはしない。最後まで戦をし、戦場で死んでいくのが義経なのだ。

 それとは対称的に疑い深い義時義時がいる。まだ優しさも持っているが、次第に目がキリッとして頼朝に近づいているのがわかる。自分が守ろうとした周りの人が次第に死んでいく。それぞれ義時の思惑通りには行かず消えていく。何か闇のようなものを感じるし、思えばどこか善児といるのも似合っていた。

 無限に同情できない頼朝と変わってしまった義時と、ほぼ変わらない義経の3人の図が印象的だ。人間関係という点では、わざわざ最後に三浦の名前を出すところがわざとらしい。三浦義時という男がこれからどんな立ち回りをするのか注目だ。

 蛇足にはなるが、今回は2つの点で過去の大河を踏襲しているように見えた。まずは「新しい世を作る」と発言する頼朝と『麒麟がくる』の道三。戦のない世の中を作るには戦をしなければならないという矛盾が重なった。そしてもう一つは前回の三谷大河である『真田丸』で武田勝頼が死を悟ったときに父信玄が現れるシーンと昨日の秀衡と義経である。1ファンとして楽しいと言うのはもちろんあるが、歴史はつながっている、もしくは繰り返すと言うことなのかもしれないと思った。

 最後に補足で、Twitterでバズっていたネタをひとつ紹介しよう。『鎌倉殿〜』では有名なエピソードがいくつも省かれている。例えば屋島の戦いの那須与一や義経と弁慶の絆を象徴する安宅の関の話(勧進帳)などがそれである。それでも視聴者は描かれていない出来事を想像できる。それが「教養」だという話である。どのエピソードも知っていたからお金がもらえるとか、家事の役に立つのかそういうモノではない。でも知っているとこの物語をこれだけ楽しめるし、彼らにより近い位置でこの物語を見ることができるのではないか。そんな気がした。

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