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「SDGsは大衆のアヘンである」(by斎藤幸平)から見えてくる視点の転換という思考実験【SDGs推奨記事を「悪意」の視点で読んでみた】

昨日の斎藤幸平さんの『ゼロからの「資本論」』の読書レポートを書きましたが、

それに感化されたこともあり、時代を切り取るワードとなった感となった「ある言葉」を通じて、記事を書いてみました。

SDGsは大衆のアヘンである。

経済思想家の斎藤幸平さんは、出世作『人新世の「資本論」』の冒頭で、そう看破します。SDGsはよいことであると私たちは、つい思ってしまいますが、これは、根本的な問題には目を向けず、なんとなくSDGsとかしとけば、なんとかなるんじゃね?みたいな自己満足や楽観的雰囲気を醸成するこの社会のムーブメントに対して、斎藤さんは、けんもほろろに切って捨てます。

善意だけなら無意味に終わる。その善意は有害ですらある。(中略)SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背ける効果しかない。

人新世の「資本論」はじめにより

そのような経緯もあり、SDGsに関する記事は、「あえて」否定的な視点から読むようにしています。斎藤幸平さんのおっしゃるような視点は、なるほどということが多いからです。私たちが地球環境について考えることも、行動を起こすこともよいことだというのは、言うまでもありませんが、それがSDGsであるのかという点は、立ち止まって考えても損はないのかなと感じます。

なので、↓の記事をあえて「悪意」の視点で読んでみます。

園児が料理をし、お金も稼ぐ。想像の斜め上を行く子が育つ保育園 | Yahoo! JAPAN SDGs - 豊かな未来のきっかけを届ける

すると3つの疑問がみえてきます。
(この保育園の取り組みがおかしいと言っているのではありません。念のため)

保育園児がお金を稼ぐことはよいことなの?

記事の中で、遠足に行く費用を保育園児が稼いだとして、よいこととして扱われています。そのような価値観は、保育園に通う年齢ですでに、おカネの感覚に目覚め、計算を自発的に行うことが正しいという前提に立っているという視点がみえてきます。

かつては、子どもは子どもらしくという視点の方が優位性があったように思いますが、今はこのような「社会への適応」は年齢が下がる方がよいという考えに優位性があるのでしょう。

仮にこのような価値観に早い段階から染まることが良いとしても、「弊害」はどの程度存在するのか、その程度はどのくらいなのかを考える視点はあっていいのではと感じます。

そのような視点がないのであれば、川や山に行って、「人間は自然の中の一部であることを体感することも大事ではないか」という発想にはならないでしょうね。

SDGsは、環境も配慮しての持続可能性ではないでしょうか。自然と触れ合うこともなく、保育園のころから、マネーに染まっていて、環境を考える大人が育つのでしょうか。

「想像の斜め上を行く子が育つ」って何?

この保育園での取り組みによって、想像の斜め上を行く子が育つとしていますが、ある意味、「当然ではないか」とも感じます。疑似的な経済(市場)の仕組みを体験しているのであれば、計算の必要性であったり、おカネを通じた循環も体験することになり、そこで必然性から保育園児でも何か掴むことはありえるでしょう。

そこで「想像の斜め上を行くこと子が育つ!」とライター氏は感銘を受けているようですが、それはSDGsの覚醒を促すということになっているのでしょうか。単に資本主義を感覚的に理解しているだけではないかなと感じます。そもそも資本主義が環境を破壊するほどの影響力をもっている現実こそが問題の本質であり、そこからSDGsの概念も誕生していると私は理解しています。資本主義のオルタナティブを生み出す発想を生み出すことこそが想像の斜め上をいく子どもなのではと感じます。

どんな取り組みでも資本主義的価値観に収れんすることへの疑問

個人的には、この保育園の取り組みは、いいものだと思います。食からアプローチをして何かを学びとることは意味があると思うからです。数時間前は、海で泳いでいた魚を三枚におろすことで、命をいただくことの意味を考えたり、包丁を使うことによる身体性の感覚が研ぎ澄まされていくこともよいと感じます。

しかし、
・"料理を完成させる"というゴールへの道筋を組み立てられるようになります。
・一発で大学イモを完全に再現したんです。
・園児たちは自力で稼いだお金で遠足へ行きました。
・自分が計算を間違えて利益が減ると困るから、家でもお金の計算を一緒に練習してほしい
・0歳の頃から一緒に向き合っていくのが、もしかしたら最短距離かもしれない

子どもたちの活動から、何を抽出するかの大人の視点には疑問があります。控え目にいっても、価値観の中に新自由主義が内面化しているような気がして、「?」という点もあるかなと感じます。

新自由主義的な価値観がダメというのではなく、そこに単一の価値観として、収れんしていく(べきだ)という発想に疑問があります。教育としてやりたいことにすでに一つの価値観、つまり、「答え」があり、それに向かって「こういう人間を育成した(育成せねば)」という発想です。これが問題を解決する思考とはとても思えません。

まとめとして~思考実験の意味~

素晴らしい取り組みをしている保育園なのに、いちゃもんをつけるなんて、歪んでいると思われる方もいることでしょう。確かに歪んで見ようと努力してみているので、それはその通りですが、歪んでみても、ちゃんとして見えることが本物ではないかなとも思うので、歪んだ視点から見てどのように感じてもらえるからが、本記事の目的でもあります。

もし、保育園に通わせる年齢のお子様がおられたら、ここに通わせたいと思われるかどうか。ここがポイントではと思います。何となくよさそうにみえることであればあるほど、「悪意」の視点は割と有効ではと思っています。これが思考実験である意味でもあります。


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