短編小説「うさぎは月の裏側へ」

 そのことを告げられたのは夕暮れ時、ピアノの練習が終わった後だった。
 
「私、今夜月の裏側へ行くの」

 うさぎだから、何かの冗談だろうと思っていた。
 はなは白くてふわふわのうさぎだ。後ろ足ふたつで歩いて、人の言葉を話す。
 
「すごい所へ行くんだね! 帰ってきたらどんな場所だったか聞かせて」
「片道だから、土産話はできないわ」

 庭のブランコに座って、はなは背中越しにそう言った。私はピアノの椅子から飛び降りて、すぐさまはなの所へ駆け寄った。
 はなが振り向いた。ブランコから降りて、申し訳なさそうに私の顔を見上げた。

「ごめんなさい、ずっと前から決めていたことなの。昔、仲間と約束したのよ」
「どうして? いきなりそんな遠い場所に行くなんて……」
「みんなの準備ができるまで待っていたの。でも、突然に思えるわよね」

 日も暮れて、夜の冷たい風がはなの長い耳を揺らす。
 はなが普通のうさぎではないことは、最初から分かっていたつもりだった。

 いつの間にか日が暮れて、あたりは夜の闇に包まれた。
 だけど、風がやけに強く吹いている。はなが私の手をふわふわの前足でぎゅっと包み込む。

「月へ行く前に、私はこの笛を吹くわ。それが最後のお別れ」

 はなは竹でできた横笛を取り出した。私ははなの笛の音が好きだ。彼女と出会ったのも、私が彼女の笛の音を聞いたからだった。

 彼女も私のピアノによく耳を澄ましてくれていた。共働きの両親の他に、聞いてくれる人がいなかった。でも、はなと出会ってから私はピアノがもっと好きになった。

「やだよ、最後なんて言わないで。行かないで!」
「卯月、あなたもあなたのピアノも素敵よ」

 はなは私の名前を呼んで微笑んだ。そしてそっと前足を私の手から離した。
 強い風が真正面から吹きつけて、私は思わず顔を腕で覆った。
 腕をのけた後、はなはどこにもいなかった。

 私ははなの姿を探して、ひとりで家を出た。

「せめて、あと一日だけ……待ってほしいよ」

 うわごとのようにそうつぶやいた。街灯は壊れているのか、チカチカと明滅している。
 月の光が一番頼りになる夜だった。今夜の月は大きく美しい満月だ。月に行くには絶好の日だとも思った。

 どこを探しても私の友達はいなかった。
 あの子が話していたのは冗談なんかじゃなかった。全部本当のことだったんだ。

「あのー……春山さんだよね」

 同世代くらいの女の子の声に振り向く。ビニール傘を持った、同じクラスの坂木さん。明るくて友達が多くて、普段あまり話さない。

 うさぎを見ませんでしたかと言いかけて、慌てて口をつぐんだ。はなは人の目に触れることがとても苦手だった。

「びしょ濡れだしこんな夜中だし、何かあったの?」
「と、友達が……お別れだって……」

 それだけしか言えなかった。涙なのか、雨で濡れたのかも分からない。

「……友達を探してたの?」
「遠い、場所に行っちゃうから」

 何を聞かれても、子供みたいな言葉しか出てこない。

「あの子に頑張ったよって言いたかった。あと一日、待ってくれたらちゃんと言えたのに」

 坂木さんはビニール傘を黙って差し出し、中に入れてくれた。

「その子がいなくても頑張らなきゃ。友達に誇れるような自分になればいいんじゃない?」

 本当のことを言われた気がして、涙が止まらなかった。あの子が自分で決めたことだ。応援してあげるのが友達だろう。
 頭では分かっていても、突然すぎて整理がつけられない。もしかしたら一日待ってほしかったのも、ただのエゴなのかもしれない。
 私はただうつむいて、坂木さんの隣をとぼとぼと歩いた。

「今日、十五夜なんだって」
「十五夜って、うさぎがお餅つくやつ?」
「そうそう。でもこの調子じゃお月見はできないかもね」

 私は夜の曇り空を見上げた。
 雨はいつの間にか降りやみ、坂木さんはビニール傘を閉じた。代わりに風が吹き始めた。木々がざわめく音の中に、かすかに笛の音を聞いた。

「春山さん、どうしたの?」
「笛の音が……」
「あ、確かに聞こえるね。どこからだろう」

 月を見ていた。雲の切れ間に大きな月が輝いている。
 笛の音はコンクールの課題曲を奏でていた。その音色はずっと遠く、それこそ空の上から聞こえているようだった。
 やがて笛の音は聞こえなくなった。何も言わず空を見上げていた。

「え、えーっと……早く帰らなきゃ皆心配するよ」
「うん、帰ろう。明日大事なコンクールがあるもんね」

 坂木さんに声をかけられた時、私は自然と笑顔を取り戻していた。そして一緒に家路を急いだ。

 私はピアノを弾いていた。
 今までこの日のために練習してきた。ドレスはどうしても着なれなくて、緊張はしたけれど、今ならあの子にも恥ずかしくない演奏ができる。

 笛の音を思い出す。指は軽やかに動く。
 この音が月の裏側まで届けばいい。それが無理なら、やるべきことをちゃんとやっているよと、あの子にも自分自身にも誇れるように生きたいと思った。

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