大文字の文脈に回収されてしまう、自分だけの物語についての話

 「自分の固有の経験が、大文字の文脈に回収されてしまう」。これは、何かの記事か、ツイートかで見かけたことばである。うろ覚えだし、原文ママじゃないので、検索しても出てこない気がする。このことばを、「本当は自分にしかないはずの経験を、『世間にありふれているもの』『世の中でもう名前のついた何か』として解釈されてしまうこと」だとわたしは理解している。

 「共感できること」。これは昨今、様々な作品において、よく見られる要素だよなぁと思っている。たとえば、『花束みたいな恋をした』。この映画の論評(?)で見かけた、「恋愛の最大公約数をとったような作品」という文言が忘れられない。わたし自身は、あのような恋ができる人間はとても恵まれていると感じる部類であるが、この映画の広がりようや、この文言から、「ある意味ではありふれた恋の有り様を描いた作品である」という特徴がこの映画にはあるのだろうと思う。とあるわたしの友人はこの映画をこう評した。「隙あらば自分語り型」。この映画を観たひとは、もれなく自分の恋愛経験を語り出す。同友人によれば、『愛がなんだ』もそうだ、といっていた。たしかに、どっちの映画も、その映画自身の論評というよりは、その映画によって触発されて想起した経験語りを、とてもよく見た。「共感できること」。まさにこの二つの作品に大きく共通している点だと思う。

 他に挙げておきたい作品として、『来世ではちゃんとします』(原作・いつまちゃん)。原作は漫画で、アマプラでドラマ化され、第二期も決定した。徐々に確実に人気を伸ばしている作品である。人気が伸びている要因のひとつに、「ひとには言えないあるある」を盛り込んでいることが挙げられるんじゃないかと思っている。この作品には、いわゆる「お付き合い」という公式的な、世間に表明しやすい、ある意味ではオフィシャルな関係は、ほとんど出てこない。「セフレ同士」だったり、「風俗嬢と客」だったり、「ただの片思い」だったり、その関係はおおよそが「非公式」だ。「非公式」であるがゆえに、世間に表明はされない。が、そのような関係は実はたくさん存在している。そういった「ひとには言えないあるある」を、てらいなく、ある意味では淡々と、しかしある意味では愛着をもって描き出しているのが、『来世ではちゃんとします』だと、思っている。余談ではあるが、わたしは作者であるいつまちゃんさんの、人間へのそういった眼差しがとてもすきである。その眼差しが、情けなくも憎めないキャラたちを産み出しているのだろうなぁと思う。

 さてさて、話を戻そう。「自分の固有の経験が、大文字の文脈に回収されてしまう」ことについて。上に挙げた作品たちは、いずれも「共感できること」を大きな要素として持っていた。他に、いわゆる「毒親もの」も、個人的には挙げておきたい。最近読んだものでは『汚部屋そだちの東大生』(ハミ山クリニカ)、『母がしんどい』(田房永子)、『毒親サバイバル』(菊池真理子)などだ。これらはかれらの経験の凄絶さも注目された要素のひとつだと思っているが、共感するひとが多かったこともまた小さくはないだろうと思っている。これらを含めた「共感できること」を要素として持つ作品群は、「わたしは変じゃない」「わたしだけじゃない」「みんなもそうなんだ」という気持ちを鑑賞者・読者に抱かせることによって、ある種のカタルシスを起こす、という作用があると思う。共感はひとを救う。「泣いて良いんだよ」という優しい救いの手が、鑑賞者に差し伸べられる。

 が、薬に副作用があるように、「共感できること」にも、副作用があると思っている。「タイプ化されること」。それで「わかった気になられてしまうこと」。あなたが数年かけて育てた恋に、ついに幕引きをしたとき、「『花恋』じゃん笑」と言われたら。公式なお付き合いを望み続けて、ひとに言えない逢瀬を重ねながらも悶々としていて、「『愛がなんだ』かよ~笑」と言われたら。それなりに割り切った性生活を複数人のセフレと営んでいるけど、たまに虚しくなる話を打ち明けて、「桃ちゃんか笑」と言われたら。親と仲良くしているつもりなのに、たまの違和感について話したら「毒親じゃん!笑」と言われたら。

 「理解と差別はよく似てるから」。これは中村珍さんの『群青』上巻に出てくることばである(余談だが、本当は「群」の字は「君」が「羊」の上に乗っている字のものである。変換で出てこないので、これでご容赦願いたい)。「『~』かよ!」というセリフから、作品に繋がって、心の寄り辺ができるなら、良い。あるいは、そのセリフを皮切りに、「あなたの」話がきちんとできるなら、万々歳だ。でも、たぶん、「『~』かよ!」というセリフからは、そういう発展はほとんど見込めない。あんたの経験って、「あれ」でしょ。「あれ」と同じなんでしょ。知ってる知ってる。そういうものだよね。むしろ「あれ」に比べたらマシなんじゃない? そうやって、「タイプ化されること」。「わかった気になられてしまうこと」。それは、「あなた固有の物語を見逃されてしまうこと」である。ねぇ、「マシ」って、なに? わたしとあのキャラを、簡単に同じにしないで。わたしの話を聞いてよ。あなたはそう思って、然るべきなのである。

 共感力の高い作品それ自体が、有害なのではない。その作品がつくる大文字の文脈に、あなた個人の物語が回収されてしまうことが、問題なのである。あなたの物語は、大文字の文脈に、押し潰されていませんか。あなたの物語は、あなただけのものなのである。そこに安易に立ち入って、わかった気になること。これがどれだけ暴力的なことか。「わたし」を見て。「わたし」の話を聞いて。あなたはそう叫んで、至極当然なのである。

 久しぶりに文章を書いた。しかも長い。これを読むひとはそんなに多くないと思うけど、大文字の文脈に気圧されて自分の物語を語れなくなっているひとに、届けば良いなと思う。あなたの叫びが、きちんと届きますように。

【追記】本当は、大文字の文脈でもって、ひとの物語を押し潰す人間に、それをするな、という文章を書く方が建設的ではあるよな、と、文章を書き終わったあとに思った。だけど、そういう人間に、こういう文章が届くことは、おそらくほぼない。それならば、せめて、大文字の文脈に押し潰されそうな人たちに、少しでも寄り添える文章を書きたかった。あなただけがどうにかすべき問題ではないのです。でも、あなたが怒るのは普通だよ、という気持ちを、いつかその怒りが伝わると良いね、という祈りを、せめて捧げさせてください。

【追記2】冒頭のことばの引用元に確証が取れないので、被引用者の名前を取り下げました。だいすきな方なので名前を載せたい気持ちが強いのですが、だいすきな方だからこそ、曖昧な引用で迷惑をかけたくないという気持ちが勝った結果です。確証が取れたら、また載せるかもしれません。

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