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【文学フリマ大阪12新刊紹介】真跡騙り

 お世話になっております。時速8キロの小蝿です。
 文学フリマ大阪12で発表する新刊は「何者かによる手記」をテーマにした小説集です。

 以下に試し読みを掲載いたします。



その逆 マリアチキン作

この人々はその大切な時間を使って読むまでもない文章を読まされる。その時間は、その文章は本当に何も生み出さないのか。

 文書が撒かれる □

 ここに手記がある。
ちょっと気をつけて扱わなければ糊が剥がれてしまいそうなほど、古ぼけたB6サイズの小さなノートだ。道ばたに落ちているのを通りがかりに見つけた。地図アプリを起動して確かめたところ、ここはあらゆる交番から誤差十メートルでちょうど遠い場所だった。そこそこの労力をかけて交番へ持っていくほどのものなのか確かめなければならない。ただ、その手間をかける程度には自分は暇ではあるのだった。
 慎重に開いてみると、一つの罫線につき細かい字が二行ずつびっしり書き込まれており、「えー」と思った。これを読み切るにはさすがに時間がかかりすぎる。どこか落ちつける場所はないかと周りを見回すと、前を通るときそこにあると気づけないほどの寂れた雰囲気をまとった、喫茶店のように見える店舗があった。微妙にコーヒーマグのように見えるマークがかすれている、ほぼ真っ白の看板が置かれていることから、ひょっとしたらそうかもと思ったのだ。
 奇妙な符合を感じる。
 自分は吸い込まれるようにその店のドアを開け、ドアベルがチリンチリンと鳴り、低い声の「いらっしゃいませ」が発せられるのを聞いた。喫茶店で間違いなかったことに安堵する。店主であろう人物により、ヤケクソのように通された、六人掛けのテーブル席に着く。注文したミルクティーを待ちつつ、ノートを読み始めた。

 ***

「お守りのような言葉」という表現を先日インターネットで見かけた。その言葉をそらんじるだけで勇気をもらえたり、なにか大切なものを見失いかけたりするときに思い出せたり、自信をとりもどすきっかけになったりする言葉のことだ、と思う。別に新しい表現でもないと思うが、その概念を自分でも知らず知らずのうちに使っていたり、自分にとってこれがお守りのような言葉だなと思えるものがいくつかあるな、と気づいた。それで今回は、私にとってのお守りのような言葉を紹介してお茶を濁して「濁ってるなあ」と思いましょう。
 数ある私の読んでいない漫画の一つに『善悪の屑』という漫画があり、その続編に『外道の歌』がある。二度と排泄行為を出来なくさせる人としてネットミーム化した、両作品の主人公の鴨ノ目武の台詞が、私にとってお守りのような言葉になっている。
「大丈夫だ。霊は存在しない」
 読んでいない漫画なので、お察しの通りネットに転載された画像で知った言葉です。調べた結果『外道の歌』六巻に収録されている四十三話の扉絵の画像だとわかった。
 私は自分のことをホラー作品が好きな性質だと思っているのだが、霊障には遭いたくない。怖いものはきらいではないが、実害にさらされたくない。苦しい死に方もそれに至る過程も体験したくない。ただ、ホラーが好きな人間は皆そのために苦しんで死ぬと思っている。これに意見がある人は幸福に生きてください。そこで出てくるのがこの言葉だ。
「大丈夫だ。霊は存在しない」
 はい。その通りですね。専門家や、お化けでごはんを食べている人たちに「こ れにどうか反論してください」と、仕事として依頼すれ ば、いつものことなので引き受けてくれるだろうが、そ ういうことではなく。「いるかもしれないよ」みたいな、雪男とかツチノコとか。仕事や仕事仲間のことが好きで、だからこそ一生懸命がんばれる人、みたいな。そうい うのは理論上存在しかねないよという夢を持たせる言葉 もあるけど、そういうことではなく。そうはっきり言わ れちゃうと、そうだなあ、となる。「いや、でも夜中に 一人でいるときフッとこわくなったりするじゃないです か」「不思議な現象って実際に起こってるじゃないですか」「そういうのがおばけなのかなって想像が働いて不安がよぎるじゃないですか」という意見がある。それもそうなんですよね。ただそれは、お化け側に寄り添った意見だと思う。お化けだったら寄り添ってもらわなくとも、ものすごい霊力(幽遊白書)で取り殺して見せなさいよ。なんで人間がお化けに寄り添って味方した意見を出さないといけないんですか、という。
「大丈夫だ。霊は存在しない」
 それにひきかえ、この言葉はお化けにまったくこびない。「だってそうでしょうが」という強気な姿勢にしびれる。ぜ~んぶ誤解。科学。そのうち科学で解決するから。残念でした。そういう気持ちが湧いてくる。こびる必要なんてないんだ。お化けに。
 ただこのお守りを持ってしても、私は将門の首塚を蹴ることはできないし、蹴ったことのある奴は軽蔑する。霊は存在しないが怨霊は存在する。呪いはある。妖怪はいる。
「大丈夫だ。霊は存在しない」
 この言葉で安心した隙を、肉体を持たない害意のある思念が突いてくる。そう思えて仕方がない。夜中に一人でいるのがこわい。怪現象が自宅で起きたら消極的な対処しかできない。害意ある思念が今まさに私を殺そうと
している。怖くてしょうがない。
 今日は以上です。明日も何も起こりませんように。さようなら。死にたくない。

 ***

 先日の文章について。ところで、あのあと家に誤配が四件来ました。はたして霊は存在するのか。
 先日の文章について、微妙に主旨が違うなと、書いていて二百文字目くらいで気づいていた。本当に微妙に、お守りの意味が違う。それは神社仏閣で買えるお守りのことだろ。魔除けみたいなことだろ。もっとこう、人生の岐路に立たされたときに道を決定づけたりするような、自分を見失いかけたときにそれを取り戻せる言葉みたいな意味だろ、お守りのような言葉っていうのは。ただ、誤差の範囲ではあると思う。自分で指摘するほどのことなのかがわからなかった。
 微妙に違うけどなんとなく見過ごしてることは、生きているととても多い。たとえば、で何か例を出せればよかったのだが、今は思いつかない。見過ごしているからね。そのうち書けたら書きます。
 逆の話をする。昔テレビで見た話だ。テレビの話をここですると与太話になるのだが、する。東大生や東大卒の人はどこの大学か聞かれると、「東大」ではなく「東京大学」と答えることが多いらしい。そうしなければ別の「東京」がつく大学に在学しているのをちょっとふざけて東大と略しているのだ、と思われることが多いからであるらしい。そうなんだ。(いつの何の番組かというソースはありません)この場合は、本当は間違ってるけど見過ごしてしまいがちなことを見過ごさずにちゃんと拾っている例だな、と思ったのだ。こうありたい。東大生のように。違うけど見逃されているやつをひとつひとつ指摘する細かい人間になりたい。
 今日は以上です。

 ***

 男女間の友情は成立するかどうかの話をちょっとしたあと、本題に入ります。
 個人的には条件付きで成立すると思う。条件とは、その男女が「男女間でも友情が成立する」と信じていること。よりポリティカルコレクトネスを重んじる言い方をすると「男女間を性自認が違う者同士と解釈し、それを互いに認識しており、なおかつ相手と友情が成立すると考えている者たちの間になら成立するのではないか」ということ。待って! デミロマンチスト(デミロマンティックの人。デミロマンティックとは強い信頼関係があらかじめ築かれていなければ恋愛感情を抱かないセクシャリティのこと、らしい。デミロマンチストという言い方はあまり見かけない)なら友情が恋愛関係に発展してしまう可能性があるので、それも除きたい。
 条件が多くなった。まとめると、①性自認の違う者同士が、②互いに友情は成立すると考えており、かつ③―1デミロマンチストでないか、③―2デミロマンチストでも両者ともにまだ恋愛感情に発展してなければ、友情は成立する。
 そして、この条件を満たしていると思われる友人が私にはいる。その友人から聞いた話をしたあと、本題に入ります。
「自慰をするとき、あなたのことを考えることが多いの です」とミニブログで友人に向かって発表した方がおり、友人はその方とつながりがなかった。友人はその方に怒り、怒られた方はその発表ごとアカウントを消した。そういう事件があったそうだ。それは嫌な気持ちになっただろう、と私は友人に言った。そして友人は怒(おこ)りの表明として出した文章に「性的搾取」という言葉を使っていた。怒(おこ)りは正当だと思うけど、搾取ではなくない? 嫌な気持ちにはなるだろうけど、搾取はされてないじゃないですか。そう思ったが、こちらは言わなかった。
 搾取なのかそうでないのかを確かめるため「性的搾取」をネットで検索すると、国際平和協力研究員という肩書 きの人の記事が出てきた。引用すると引用元のユーアールエルを書かないといけないので、私なりにかいつまむ。性的搾取とは、力関係や立場の強弱を利用して性行為を したり、それを試みること。また、それを利用した利得 行為である。しかしそれだけに限られない、らしい。含 みを持たせた文章だった。以上のことの隙をついた性的 搾取の方法もあり得るということだと思う。
 じゃあ性的搾取で合ってたのだろうか。めったなことは言えないが、人によっては、する方もされる方も頻度が半端じゃなくない? ぜんぶ逮捕できるってこと? 表明してなければOK? それとも無関係? だとしたら、すごい。痛快。これが本題です。この世界は、すごい。ぜひ逮捕してもらおう。前例を作ろう。友人に今度相談してみます。弁護士費用も払うつもりです。
 今日は以上でした。

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 耐え難い暇を持て余し、拾ったノートを横領するか遺棄するかの迷いを捨てた私は、ミルクティーが来たことに気づけるくらいの集中力で、このノートに小さな字で細かく記された文章を読み耽っていた。おかわりは半額になるようなのでどんどんしたところ、お会計表に三杯飲んだのと同じ値段が記入されていた。トイレに三回行ったり、古い喫茶店によくあったおみくじ器がないことに気づいて「意外だなあ」と思ったりしていた。陽が暮れていたが、夜はバーになる店らしい。
 やがて、読み終わった。交番へ持っていくべきものかどうかを判断するためだから、ぜんぶ読む必要はなかったことには、とっくに気づいていた。しかし読み進む目と手は止めなかった。止まらなかったのではなく、止められなかった。店内を見回すと若干客が増えており、正面に人が座っていた。こちらにはいま気づいた。
 たぶん男性だ。特徴の少ない、場に即した服装をして いた。まるで店内にいる年齢層の中央値をとったようだ。カクテルグラスを机に置き、無表情でこちらを見つめている。
「どうだった」
感想を求められた。このノートのことだろう。
「知らん、というか」
 知らない人の知らない話をされて、かつ文章表現が巧みなわけでもない、自分勝手でひとりよがりな書き方だから、読むのが大変だった。そう説明した。この人物が書いたものかもしれない、とは考えなかった。気づいたら素直な感想を口にしていた。
 想定したとおりの返答だったらしく、その人物は表情を変えなかった。彼は自分のグラスを持ち、私の伝票をさりげなくうばい取った。
「お時間をいただきまして」
 用は済んだと言わんばかりに、席から立ち上がって会釈をして行ってしまった。

 文書が撒かれる □

 熱帯夜。目が覚めてしまったので冷えたお茶を飲みたいと冷蔵庫を開けた。卵をパックごとしまえるスペース、あそこにUSBメモリがサランラップに包まれた状態で置いてあるのが目に入った。
 パソコンのバックアップはクラウドに取ってある。USBメモリは持っていない。僕は一人暮らしだ。記憶障害の診断書はない。だから僕のものじゃない。
 取り出してラップを解く。USBメモリの裏側に紙が貼ってある。ファイル転送サービスの名称とURL、そして5文字の英数字が書かれていた。もしUSBメモリが壊れていたときはこのURLから同じデータを引き出せるのだろうか。
 USBメモリをパソコンに差し込む。容量がテキストデータだけで八割埋まっていた。気持ち悪い。
 眠気はまったく戻ってこず、僕は謎の集中力で全文を読み進めていった。

 ***

「世界線って言葉はいまパラレルワールドみたいな意味合いで使われてるけど本当は違うんです」という主旨の文章を読み、「じゃあ世界線という言葉を使った奴を全員殺して回らないとダメじゃないか」という気分になった。そのときから私はシリアルキラーになる覚悟が決まった。
 七人目を始末して八人目を監禁した段階で、正誤を確かめるには「世界線」の意味を理解しなければいけない、と思った。ひとまず辞書を引いたのだが説明文を読んでもピンとこなかった。八人目の書いた文と照らし合わせてみてもよくわからない。前提となる知識が欠けている のかもしれない。それを獲得するには、もしかしたら論文なども読まないといけない可能性もある。そして私は シリアルキラーになった過去を捨てた。八人目が今ごろどうしているかは知らない。今では人を殺すのと論文を読むのとでは後者のほうが圧倒的に簡単じゃないか、と思っているが、私は捨てた過去にとらわれたりしない。私に待っている未来は、世界線という言葉を見聞きする都度どういう感情を抱けばいいのかわからない動物であり続けることだ。みんなは世界線の本来の使い方を知っているかね。知ってたらわかりやすく教えてください。シリアルキラーになります。
 今日は以上でした。

 ***

 Sリスクという概念をインターネットで知った。ネッ トで見た話を誰かに喋りたくなるという、インターネッ ター(インターネットをする人)の習性はもちろん私にも備わっている。申し訳ない。Sリスクを知っているい ないに関わらず、次の段落を読み飛ばしてもかまわない。あなたを束縛するものは何もない。
 SリスクのSはサファリング(苦しみ)のSだそうだ。苦しみは
誰でも、身体的なものでも、心理的なものでも味わったことがあると思う。地球上ではさまざまな苦しみが日々発生しているが、そのいずれよりも強い(私が参照した記事では宇宙規模と表現されていました)苦しみをもたらされる危険性をSリスクと呼ぶ、と私は解釈している。誰が、については、とくに指定はなかったけれども、苦しさを感じる生命のすべてがSリスクを抱えていると 言っていいと思う。Sリスクがどういうものかを書いた論文があるが、私はシングルリンガルなので読めなかった。ただ、そんなことを言われても想像しづらいと思う。



播種船 ゐづみ

ある男の手になる日記。
他愛のない身辺雑記が、日を追う毎に、様相を異にしていく……。

 ――さぁ、物語を連ねよう。
 ――この私を宿し、次の物語へ。次の次の物語へ。

  ○

 三月三一日

 始まりはいつにしたっていい。なので、日付に然したる意味はない。
 時点を設定すると、そこには意味が生れてしまう。何故その日なのか。きっかけは何だったのか。他の日ではいけなかったのか。この世に無意味なものは存在しないというヒトもいるが、読み取れるほど確たる意味が含まれていないということは、往々にしてあり得る。
 節目の日付ではあるだろう。
 明日は四月一日。新年度が始まる。捉え方は年齢や立場によって種々あるだろうが、多くの場合は環境に大きな変化がもたらされる日になる。
 だから今日は、旧環境最後の一日、という読み取り方もできる。期待とか不安とか高揚とか落胆とか平静とか混乱とか、悲喜交々を抱えて過ごすヒトが一年で最も多い日である、と考える向きもあるだろう。
 しかし哀しいかな、僕にとってはそうではない。
 今の僕の生活に、一年の区切りという考え方はあまり影響を及ぼさない。詳しくはまた追って書くこともあるかもしれないが、ともかくも、今日という日に僕は特別な区切りという認識を持てずにいる。
 ならばそもそも始まる時点を定めなければよいではないかという話にもなるのだが、これについてはただ単に記録しているにすぎない。
 時間の感覚が間延びして、一日を一日と捉えられなくなって久しい。この極短い文章を書くために費やすであろう時間がどれくらいなのか、感覚的に判断できない。
 キーを叩き、文章を出力し始めた日付に打点して、記録しているという、ただそれだけだ。この第一節目を書き終えるころには日付が変わっていることも想定される。今のところはまだ大丈夫だ。
 何かを思いついた時に、徒然なるままにキーを叩こうと思っている。いざ読み返した時に、点と点の間隔が一定なのか不揃いになっているのか。自分の時間感覚を確認するいい物差しになっていることだろう。
 物差しとして成立させるには、結ぶべき点が沢山要る。
 飽き症は自覚していて、特定の趣味に一年と打ち込んだ記憶がない。運動のようなものをしてみようと、ランニングマシンを導入するも、物の二、三か月でその駆動音は聞こえなくなり、ただ微かな意欲だけはぼんやりと持っているので、片付けられることもなく放り出されている。
 読書に打ち込もうと、電子書籍を沢山ダウンロードしたが、どうにも読み始めると文字の上を目が滑るようになってしまう。書かれた内容が腹に落ちず、するすると抜け落ちていく感覚に陥り、一時間と集中がもたない。
 電子書籍ストアで読みたい本を探している間が一番楽しくて、自己啓発本の概要から、これを読破した時に自分はどんなヒトになっているのだろうと思いを馳せ、購入するところまでで一定の満足感が得られてしまう。というのは順序が逆で、なんとなく現状の自分に不満があって、こうなりたいなという淡いビジョンに都合よく寄り添ってくれそうな概要の本を探している。ヒトから好かれる話術を身に着けた自分とか、断捨離が上手い自分とか、ナンパ師の自分とか。そんな妄想の補強材として手に入れた電子書籍は、最初の数十ページでしおりが挟まれ、以降開かれることはない。
 自分へ投資するということが、全くもって苦手なのだ。
 というわけで、この文章は、誰かに読まれることを意識して書こうと思う。ある程度の文量になれば、何らかの形で公に発信することを目指して。
 一節ごとに単体で発信してしまうと、都度、小規模な満足を得てしまうので、まとまった形になるまで書き溜める。結果として、自分を見つめ直す物差しも完成している。
 ほんの思い付きでしかないが、二つの目標設定は出来た。
 気が向いた時にキーを叩く。
 その積み重ねの先の得られる成果に期待して。
 そう考えれば、無意味だと思った日付にも、個人的な意味が宿る。多くのヒトにとっては最後の一日だが、僕にとっては始まりの一日だ。
 幸い、まだ日付を跨いではいない。
 まだ見ぬ読者の皆皆様へ。どうかこれから先も、お付き合いください。

 四月二日

 文章を書いていると、自分の肉体が液状化し、長いホースを流れていくような感覚になる。
 当然文章は、絵のように平面的ではないし、音楽のように重層的ではないし、映像のように動きを与えられてはいない。均等に一列に文字が連なっていくので、この感覚は一定の共感を得られるのではなかろうか。
 何か物語性のある文章を書く場合は、先に大きな設計図を描くこともあるだろう。それは平面でもあり重層でもあり動きも与えられているかもしれない。脳内に広がる想像は果てしなく、ヒト以上の全能感をもってその身体を拡大させ続ける。
 しかし、その肥満した想像の身体を文章としてアウトプットする際は、液状に変化することを余儀なくされる。しかも、流し込まれるホースは実に狭隘で、そのうえ終着点が一切見通せない。
 ホースに流しきれず溢れ出した肉体の一部は、妙な粘性を保ちながら四方八方に飛び散り、壁や床を汚す。自室の方々に付着した想像の残骸が、干乾び、シミになって、生活の中でその価値を失っていく。もったいない、とは思わないまでも、不潔だしなんとかできないものかと考えたりはする。
 結果、今僕が書いている文章は、想像の肉体を肥大化させる必要がない、思いついたままをただ書き連ねるためのものになった。これなら多少ホースが狭くとも容易に流し込めるし、溢れるものも数滴の雫に過ぎなくなる。
 或いは、尺取虫のような線状の生き物になる感覚もある。
 これは液状化の例のような観念的な話ではなくて、文字自体が線で構成されているからそう思えるだけだ、という話になる。
 僕は今、この文章を日本語で書いているので、日本語を例に挙げるのだが(万が一、僕がこの文章を発信し、何者かが他国語に翻訳した場合を想定する。詮無い妄想だが、こういうのがモチベーションアップに繋がるし、何より楽しい。先の文章は「この文章はA言語で書かれているので云々」という形になって、僕が今から伝えたい想像が十全に伝わらなくなるのだろうか。無論、プロ翻訳家はそんなことは織り込み済みで翻訳をするものだろう。妄想なので、プロの翻訳家に訳されるという飛躍がシームレスに挿入される。A言語話者の読者が、今から伝えるイメージを想像した時、僕の想定と寸分の乖離がないものとなった場合、訳者のスキルは当然のことながら、すべての言語そのものに通底するイメージの源泉のようなものを思わずにはいられない。言語はイメージの源泉に浸す匙のようなもので、形は変われど、掬い上げるイメージは本来同じものである、という想像。そうあって欲しいという願望が、つい今しがた芽生えたのを感じた。)「あ」というひらがなを三本の曲線の集合とみて、それを全て伸ばして一本に繋げると、果たして何cmの線になるのだろうか。
 僕が今使用しているワープロソフトで設定しているフォントのptは10ptで、これは約3.5mmの大きさになる。千文字書くだけで、その全長は3.5mにもなる。これは、先ほどの「あ」の例のように文字を解体せずに、文章の形を保ったままの状態でこの長さになる、ということだ。
 前提が固定的すぎる気もするが、ともかく、たった千文字の作文で、一般的なヒトの身長を遥かに超える全長の文章になるのだ。それを一文字一文字解体して、一本の長い線になったらどうだろうと、想像するとなんだか愉快な気分になってくる。
 僕がこの文章を全て書き終えた時、解体して一本につなげたその線はいったい何万kmになるのだろう。
 外には無数の星が煌めいている。
 例えば、あのどれか一つにでも届くくらいの長さにはなっているだろうか。大きいも小さいも、遠くも近くも、様々ある星々のなかで、どれか一つにでも届くくらいの長さにはなっているだろうか。
 もっと言うと、つなげた線の先で輪っかを作って、それが星の全周よりも大きければ、星に引っかけて、ここまで手繰り寄せられるかもしれない。或いはそれを伝って、僕自身が星までたどり着くか。
 いくつもの“もしも”を積み重ねた上で妄想に羽を生やしてしまうと、制御を失ってどこまでも飛んで行ってしまう。
 そうと決まれば、行動は迅速に。文章をペーストするだけで、文字の全長を計測する計算式を組み始めることにする。さすがにすべての文字種の長さを解体して図るのは困難であろうから、せいぜい平均を取る程度が関の山だろう。それにしたって、容易な作業とは言い難いのだが、ゆっくり進めればいい。
 どうせ時間は掃いて捨てるほどあるのだから。

 四月六日

 暇な時間に映画を観ることがある。SFが特に好きだ。
 こんな環境にいるからか、フィクションにはより壮大な法螺を吹いてほしいと常々感じていて、しかし、ファンタジー物は肌に合わない。これはきっと、僕があまりTVゲームをやってこなかったからだろう。
 剣と魔法のファンタジーというジャンルは、幼いころに如何にTVゲームに親しんできたかによって、思い入れのレベルが変わってくるんじゃないかと思っている。漫画やアニメのような受け身のコンテンツとは違い、自分の意志で物語に介入するゲーム体験は、思い出と分かち難い。
 フィクションの受容とはそもそも現実逃避の一環で、というのはやや暴力的な持論なのだが、物語世界への没入と幼少への回帰という二つの逃避行が併せて用意されているなら、一部層にとってはファンタジージャンルの放つ魅力は他を圧倒していることだろう。
 単純な法螺吹き度合いでいえば、SFよりもファンタジーに軍配があがる、という見方もあるが、SFの魅力は何といっても理論や技術に立脚しているところにある。
 一つまたは複数、核となる実在の理論や技術があって、そこから仮定を重ね、物語を飛躍させる。積み上がった仮定が強固且つ多重であるほど、視点は高くなり、睥睨する景色は壮観になる。すべてのSFがそうである、とは言わないが。
 一つ例を取ると、ショーン・レヴィ監督の『リアル・スティール』という映画がある。近未来(公開当時からすると)、人型ロボット同士がぶつかり合う「ロボット格闘技」が勃興するアメリカを舞台に、失意の元プロボクサーである主人公の再生と、競技を通じて育まれる家族の絆が描かれている。ドリーム・ワークス製作の作品なので、ファミリー層を目掛けた大衆映画という趣は否めないが、なかなかに見応えがあって面白い作品だ。
 この作品の核となっている技術は、ロボットとモーションキャプチャー。そこに仮定を重ねる。もし人型のロボットが実用化され、普及したら。ロボットを闘わせる娯楽が最盛を極め、人間の格闘家が職を追われることになったら。モーションキャプチャー機能を搭載したロボットに、格闘家が持てる技術を教え込むことで、リモコン操作の他のロボットを圧倒できたとしたら。
 細部まで緻密に練られた設定、とまでは言わないまでも、作り手側に明確に見せたい景色があって、そこにたどり着くまでの筋道を用意するための仮定があって、結果、観客の目と心にそれを見せることが出来たのなら、映画として成功しているし、僕の求めるSFはそこにある。クライマックスの試合は、不覚にも込み上げてくるものがあった。
 という風に、現実の地続きとして大法螺を吹いてくれるSFが好きなわけだけれど、一方で、ジャンル的には対極にあるように思える実話ベースの映画も、似た理由で好きだったりする。
 ふと、考えたことがある。
 実話を元にした作品を指して、しばしばノンフィクションという言葉が用いられるが、何者かの手になる作品がフィクションじゃない事なんてあり得ないだろうと。
 無編集の定点カメラ映像を流しているのなら、それは全くの非創作といっていえないことはないのだろうが、物語として編集された映像は、必ず作り手の解釈と意図が絡まり、創作物として受容されることを免れない。
 先日、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』という映画を観た。実在の物理学者であり、「原爆の父」と呼ばれたJ・ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたノンフィクション映画だ。
 ガイ・バートとマーティン・J・シャーウィンという二人の歴史学者が共著した原作小説があり、希代の映像作家であるクリストファー・ノーランがこれを映画にしている。主演のキリアン・マーフィの迫真の演技と、監督が偏執的なまでに拘りぬいたリアリスティックな映像により、途轍もない没入感を伴う映画体験が約束されている作品だ。一度観ておいて損はない映画だと、太鼓判を押したい。
 当然のことながら、キリアン・マーフィはオッペンハイマー自身ではない。原作の著者である二人も、クリストファー・ノーラン監督も、オッペンハイマーの人生を生きたわけではない。歴史的資料と関係者へのヒアリングを元に著された小説があり、それを元に映像化したのが、この映画だ。この時点で、二重三重の解釈が、作品に介在している。
 オッペンハイマーの遺族は、原作小説の一部描写に対し、明確に事実に反すると指摘しており、ノンフィクションとはいえ、映し出されたすべての内容が実際にあった出来事ではないということは、当然のように明らかだ。ドキュメンタリー映像であったとしても、編集によって物語化されているのだから、脚本・脚色によって物語化されている映画に、ありのままの現実なんて一つも存在しない。
 回りくどい言い方になるが、映画や小説においてノンフィクションというのは、そういうジャンル名のフィクションでしかない。
 そう考えると、SFとノンフィクションの物語の作り方が似ているということに気が付く。SFが技術や理論という立脚点のもと、仮定を重ねていくのに対し、ノンフィクションは、歴史的資料や証言等を立脚点にして、その数多ある立脚点の間隙を、仮定で繋ぐ事で、物語を成り立たせている。点と点を繋ぐ仮定の線は、直線じゃなくてもいい。どれだけ迂遠に曲がりくねっても、その他の点に干渉さえしなければ問題はないのだ。「事実に基づいた物語ですよ」と素知らぬ顔で差し出してきている分、そこに法螺を吹く行為は、その他のフィクションよりも一層スリリングだ。
 こうして文章にまとめてみると、自分がフィクションの何に力を感じているかがよくよく分かる。僕の手になるこの文章も、言ってしまえば僕の解釈を通じて出力されたフィクションだ。
 いざ読み返した時に、どれだけ上手に法螺が吹けているか、今はまだ判断がつかないところだ。



遠き石の声を聞け 糠

神懸かりの都ロウデンはいかにして世界から忘れ去られたか。人びとに思いも及ばぬ神々の気まぐれ、あるいは憤激について。

 Ⅰ  ノグラの剣石

 本来こうした記録文において筆先を鈍らせるのは、“何から語り始めるべきか”という点であることについて疑念の余地は無い。しかしながら、初めに私を悩ませたのは“何に綴るべきか”であった。そこを解決したところ、次は“どこから記し始めるべきか”という逡巡が私のまえに立ちはだかった。今や蒙昧とした思考力が正しい始点を見いだせたかどうか、確かめるすべは無い。実際にそうするだけの猶予が残されているかも不確かであり、悠長に泥んでいる間に砂時計の尽きてしまうおそれも大いにある。であれば、ここから始める以外に私は手段を持たない。
 しかし、ここにもうひとつ憂慮がある。果たして、この字をあなたがたは読むことができるのか? これは二つの懸念に由来しており、そもそも私の悪筆が造形芸術上の悪徳を遺憾なく発揮してしまった場合、すべてはご破算となる。或いは我々の用いる言語があなたがたの時代にすっかり淘汰されてしまっていたら? だが、やはりこんな懸念もあまりに馬鹿げている。通商語を用いる点についてはこのロウデンの都もあなたがたの祖国も変わらぬはずだ。
 あなたがたの祖国の為政者が一様にわれらが王と同じ愚行を働き、このような末路を辿っていなければの話だが。
 さて、私は名をゲニックといって生涯の半分を鉱夫に、もう半分を石工に費やしてきた。響きの凡庸に違わず生粋のロウデン生まれではない。かの大いなるスカース山脈を越え、沈水海岸のように入り組む黒の丘陵を隔てた西果てのメルクサットから、新王イドリウスによる古都ロウデン再興の布告を聞きつけたのだ。私について、それ以上に語るべき話はない。
 けれども、しかし、今や遠きわが寒郷に関して二、三の言を費やしたところで、いったい誰が私を責められようか?
 メルクサットはここロウデンと同様、奇しくも採鉱によって財を為した。無論、規模の差は歴然たるものだ。潮風つんざく骨灰の海を臨む岸壁に穿たれた坑道から採れる富など、物の数ではない。時おり世捨てぶった旅人がメルクサットを訪れ、己がまことの世捨てでないことを悟り、踵を返していく。こうした人々によれば、我々メルクサットの鉱夫は人夫でなく燕であるらしい。わが郷里のつつまきしき祖先たちは、いささか無精に過ぎたのだ。岸壁の横穴に仮設したあばら屋を、終の住処としてしまうのだから。
 郷里のために込み上げる言葉はちっとも限りがない。若き私を導いた坑道の“くすくす闇”。頑迷なスティジアン鉱。そして何より、私の夢見がちゆえ置き去りの妻子たち。おまえたちの名を私は記さない。憤激の神々におまえたちの名が決して知れ渡らぬことを。そして、ただただ愛している。
 いっかな詮ない郷語りを止し、述べるべきを述べよう。まさに私の立脚するこの地、ロウデンについて。
 あなたがたの時代にはどのように伝わっているのか。金城鉄壁の山岳都市。忘れ去られた古都。簒奪された星見の都。払暁と善美の都。それとも、暗君のもと天に弓引いた悪信の都か、もしくは、再びすっかり忘れ去られたのだろうか。根こそぎ失われるにはあまりにも惜しい数多の顔をロウデンは有していた。だが、私は史学者ではない。したがって、最も語るに値するロウデンをこそ語らねばなるまい。
 ロウデンは長い歴史の中において、スカース山脈の谷間に抱かれた天然の要害であった。ただ南西にのみ、つづら折りの渓路によって裾野を抜け外界と繋がる。この峰々の影に落ち込んだ都を訪れた者は、疲労に火照る喉元から厳粛な溜息の上ってくることを禁じえまい。これほど真善美に満ちた都は他にないのだ。
 初めて訪れたとき、赤土にまみれた山岳都市などといった予想は鮮やかに裏切られた。むしろ天の星々の作り給うた隠れ港ではないかというほどであった。白壁と木材の組み合わせ、優雅に曲がった白屋根と広い露台が特徴的な建築様式は、遥か遠い秘密の精霊国アヒマのそれを思わせるものであり、スカース山脈に広がる野生の美とは色合いを異にしていた。大理石が敷き詰められた大通りが都市を貫き、広場の噴水は楽園の歌を奏でる。蜘蛛の巣状に広がる街路は放縦に見えて、確かな審美意識によって整備されていた。事実、街路の方々には空へと伸びる八本の大石標が楔のように直立しており、これは明確に都市を区画するとともに、二本を一組として往古の四神の加護を記憶している。大石標より年若いとはいえ、戦乱の時代に都市を守り抜いた市民的古英雄も彫像となって姿を残した。路地で遊ぶ子どもらが見上げる青銅の横顔。市場ではよろず買い付けられた色とりどりの衣が並び、匠の技による品々の多くが、気まずい緊張ではなく朗らかな挨拶によって取引される。
 大通りを抜けた都市の中心には城山が高くそびえ、ふもとには富裕層の居住区が広がり、これを白色地区と呼ぶ。櫛比する尖塔、純白の円形屋根、噴水や異国の植物に満ちた邸宅の多くは開け放たれており、香油の香りや古の詩を吟じる声が道行く人を綻ばせる。城山には新王イドリウスを讃える王堂と宮殿が、やはり純白に輝いていた。手仕事の行き届いた庭園は開けており、いとも勇ましく精悍な王像は、王の郷里の伝承における雷神との同一視が見られる。スカース山脈を見晴るかすような立ち姿の傍らには、かつての古老たちの像が王の爪先の地面に口づけるように頭を垂れていた。
 切り立った山肌に彫り込まれた石窟神殿にはノグラ、キラー、パリド=フォーク、コル=ヌヴァク、これらスカースの地にまつわる偉大なる四柱の巨神像が城山すらも見下ろしている。
 今までのところ、叙述は少しも完全ではない。ここで石工として暮らし始めてからも、豪奢な門や彫像は次々造り上げられ、朝目覚めるごとに偉観はいや増すばかりであった。だからといって、赴任の日に見たロウデンがみすぼらしく古寂びた街並みであったとは決して言えまい。王のなすことは余りにも多端で、相応以上に果断であったのだ。だから、私が初めて目にしたロウデンですら人為を離れ、神々に捧げられた美を湛えていたことには間違いはない。
 私はこの最後の仕事に取り掛かるまえ、石窟神殿の直下にうずくまり、五体をなげうち額づいた。四神の恵みを記憶した大石標、その聖体を損なう罪深きを、どうか赦し給わんことを。

 Ⅱ  ノグラの盾石

 先のくだりに失念ごとがひとつあった。途方もない行いをしているのだから、鉄屎のように指間からこぼれ落ちる事々は限りがないものだ。さりとて、大石標とそれにまつわる四神について忽せにはできまい。畏れ多き往古の神の名を口にすることに恐怖を抱かぬわけではない。この瞬間にすら、指が泥のように溶け落ちたり、肉と皮が裏返しになったとしても、それは驚くべきことではないのだ。だが、狂気に身を投じるのも悪くはない。何といっても、わが御前にそびえる盾石の主、ノグラは狂気を寿ぐのであるからして。
 ノグラの盾石には影と銀、そして朔望を示す紋様が整然と刻みつけられている。紋様をひとつの紋章として右から読み解けば力と神秘家、左から読めば、即ち秩序と狂気が表れる。ノグラは市中において戦女神として親しまれた。が、本質は月神であり、潮の流れの支配者、夜の秘密の番人、そして狂気をささやく者である。盾石はかつて、ロウデンの高壁を生々流転のものとした。幾度破壊され、崩れかけたとしても、高壁は自ずから修復するのだ。大石標において最も荒唐無稽の伝承だが、ノグラが周期的な律を司っていたことは確からしい。
 一方、剣石は周期上のある一点を最大化させたとされる。それはさながら月狂いの心地であり、ロウデンの兵は剣石に拝して躊躇と恐怖を捨て、まさに一心不乱であったという。異説によれば、周期とは過去と未来の絶えぬ反響であり、その無窮のこだまに耳を傾けた兵の中には、二度とこちら側へ戻らぬ者もあったらしい。まあ、兵が戻らぬことは戦の常なのだが。
 私が初めてロウデンの石門をくぐった日も、真っ先に目に入ったのは、青銅の古英雄らを従えるように手を伸ばしたノグラの女神像だった。新王イドリウスは王座を得て間もなく、万国から人材を募った。とりわけ、芸術家や職人が厚遇されると聞き―加えて、私はさる縁から神秘のわざを託されていた―、馳せ参じたのだ。鍛冶師、木工師、織匠、なるほど、市街の一画は確かに職人街の様相であった。だが尋常の職人街ではない。一子相伝を重んじる古式ゆかしい職人はどこにもおらず、先祖伝来の木槌を誰も尊ばない。むしろ赤の他人に手渡された石鑿を試し、木工師は宝石職人の肩を抱いて木目に対する意見を求めた。ロウデンの職人街は奔流であり、常に躍動していた。
 さて、赴任に際して造営官のもと審査を受けることは想定内だったが、それが城山のうえで行われるなど誰が予想し得たろう。集められた二十人近い石工らも一様に肩肘を張らせていた。審査は公正で端的であった。石材の選定、切り出し、彫刻、図面の理解、まっとうな職人であれば手こずるはずがない。だが、誰かがアッと声を上げた。私も手を止め、同様にした。いとも気高き装いのお方が、奴隷の輿から身を乗り出し、我々の手ぎわを検めていた。それが新王イドリウスをこの目で見た、最初の瞬間だった。私より一回りも若い、しかし、武張った浅黒い体躯に角冠を戴く青年は、水牛じみた生命力に満ちていた。
 王は輿を降り、黒檀のような手で鉱石を取り上げ、傍らの近習らしき少年に手渡した。
「彼らにこんな他愛ない仕事をさせてはなりません」
 もう二、三、ロウデンびとらしからぬ装いの者を侍らせており、これらは王の振る舞いを咎める様子はない。
 戸惑う我々を尻目に、王は「あれを持ってこさせなさい。黒血を。あれをものに出来る石工を、見定めなければ」と近習の少年に告げ、今度は我々の賤しき眼をしかと見据える。
「余のもとに集える善き工匠、善き石工たちよ。この漆黒石、神々の黒血はスカース山のもたらす恵みの鉱物、その最も深く暗い澱。ロウデンの石工はそれをこそ自在にせねばなりません。あなたたちがまこと石の声に耳をかたむける者であるか、ここで余に証立てをして頂きたい」
 王の振る舞いはスカース山の巌のごとく立派であったが、その眼にはまだ年若い猫のような、奔放な光が揺らめいていた。
 神々の黒血が我々の手元に行き渡ったことを見届たところで、王は近習に急き立てられ、元いた官人に後を委ねた。
 黒血はその名に違わず濃密の黒を湛えており、私には何か、よく磨かれた黒光りする扉のように思われた。私は装束の内側に吊るした人さし指ほどの小瓶からひとつを取り出し、詮を開け、ひと思いに飲み干した。たちまち体内に熱が灯る。こうした“準備”はメルクサット坑道で出会った友人から教わったものであり、これまでも多くの場面で私を助けてきた。再び黒血に目を移せば、石は生きているかのように微動する。
 その瞬間、私は白昼に棒立ちとなった。暗闇にうずくまる小人、無限遠の灰色の地平、足元を走る白と赤褐色の亀裂、こうした矢継ぎ早の幻視が脳裏から溢れ、周囲を駆け巡る。それらは勢い目前の黒血に吸い込まれ、私の視界はようやく平常を取り戻した。いまや漆黒の鉱石は面妖を増し、表面を走るまばらな虹色の光、奥深くより反射する極光、そうした全てはまさに何かに対する入口のように感じられた。そして、私はその扉を叩いた。
 結論から言おう。審査において私の手ぎわは十分以上のものだった筈だ。都会風の職人ですら手をこまねいた黒血を、私は幾らか見映えする平板に仕立てあげた。切り出しは平滑で、彫った溝は深く、申し分ない陰影であった。にも関わらず、作業の終わり際に平板は二つに割れ、細かく崩れ、とうとう砂のようになってしまった。
 官人はこれをどのように評価したか、知れぬ。しかし、私は幸運にも職人街の片隅に居住権を認可され、他の多くの石工のようにロウデンの美観を彩るありふれた石割り男となった。
 ところで、審査を終えたおり、近くにいた職人の一人が私のほうに身を寄せ、官人の背中を見遣りながら小声で言った。「なあ、おい。見たかよ。あれが“征王”イドリウス様ってこった」
「ああ、確かに、目を瞠った。あの威風堂々たるを新王呼びは、いささか礼を欠くというものだ」
「違ぇよ、あんた。あのイドリウス王は、征服者さ。いや、簒奪者さ。どこから来たか知る由もないが、スカース山を抜け、一夜にして王城を攻め取ったそうだぜ」
「盗人じゃないか、それは!」
「ばか、滅多なことを言うな! だが、確かに、盗人かもな。城の古老どももみな殺されたって話よ」男は辺りを再び窺い、目をぎらぎらさせながら次のように言った。
「なあ。ああいう手合はな、駿馬を駆る。遊牧の身体つきさ。そして、長駆けで喉が乾けば、馬の土手ッ腹斬って、血を啜るのさ。攻め落とした領地だって、似たようなもんよ……」
 男が善なる舌を取り戻すには幾らかの時を要した。男は結局、ロウデンには残らず荷物を纏めるらしかった。まこと、善悪とはただそれだけで価値を有するものであり、それゆえに真偽とは何ら関係を持たぬことである。



 以上です。当日はよろしくお願いします。
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