常識を疑うこと、異を唱えること
当たり前を疑い続ける
歴史を学ぶ意味って今の当たり前に疑いの目を持つことだと思う。その意味で狭い了見の施政者には歓迎されない学問。
今の時代にそぐわない面が多々あるので親から叱られたり非難されたり、周囲から異端視されることが多かったせいで、当たり前を疑うのは比較的自然にできる。
ところが異端児の自覚があるばかりに異を唱えるのは難しい。大多数はそっちだし、和を乱すのもなんだしと思ってしまう。自分が静かに去っていけばいいだけのことだ。
私の問題はどこにも自分を明らかにしなかったこと。これでは似たもの同士の邂逅もない。生涯孤独になってしまうのだ。さらに言えば合わない場に、人に会い続ける悪循環に陥ってしまう。
孤立しようが変人だろうがたった一人で行動することから始めなければならなかったことに気づいたのは、やむに止まれず行動し仲間に出会った後だった。
自分らしく生きるって自然体で生きるって、その環境に生まれていない場合、なかなか勇気がいるのだ。
異を唱える大切さ
別のパターンで陥りやすいミスがある。どんなに非常識な状況でも「これもアリかな」って思いがちだ。
体力的物理的精神的に無理なことは否定する判断が鈍い。ムリなことはムリだし、おかしければしつこく確認する、それをワガママだと思う教育の影響が抜けきれない。
いや、ワガママでもいい。はっきりワガママな人は好きだという意見を聞いて目の開く思いがした。ワガママは悪いばかりじゃないのだ。
我慢した挙句に破綻する人よりはよっぽどマシだろう。
現時点の確認
今無理してないだろうか。我慢してないだろうか。都合をきちんと伝えているだろうか。
だいぶ伝えているし、自分に確認も取れるようになってきた。咄嗟に出てくるのはまだまだかな。
当たり前から自分にとっての不自然を抜いていく作業は楽しいけれど、どんどん変わり者になる。それを否定も肯定もせず自然体でいるのはなかなか難しい。ワガママなのかな、頑固者なのかな、ダラシないかなと不安になる。
偏らなくていいし、矛盾していい。きっともっと曖昧模糊とした生き物なんだと思う。
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