アメリカ軍は何を隠したのか 原爆初動調査の真実【第2章】
第2章 研究対象の地区で明らかになった「異常値」
「西山地区」で何が起きていたのか
博多からJRの特急「かもめ」に揺られること2時間。長崎の駅前はいま、来年の新幹線開業を控え、空前の再開発ラッシュに沸いている。新しい駅舎、外資系のホテル…新たなビル建設の工事の槌音も聞こえてくる。
そんな中心部の喧噪をよそに、私たちは西山地区を目指した。市民から「おすわさん」と親しまれる諏訪神社を超えてさらに北へ。15分も車を走らせると、すっかり都会の風景は様変わりし、豊かな緑が眼前に広がってくる。
水面煌めく貯水池を中心に、斜面にへばりつくように連なる家々と段々畑。地区を歩いても目に入るのは、人々の静かな暮らしぶりと、美しい自然ばかりだ。原爆について伝える遺構はおろか、原爆にまつわる案内板や慰霊碑もない。ペース少佐らアメリカ側の注目度の高さとは裏腹に、西山地区には、一見、原爆被害を伝えるものは何も残されていないように思えた。
ペース少佐らが報告書(注11)にそう記したように、西山地区はアメリカの調査団や日本の科学者らが、調査のために名付けた俗称だ。実際は、貯水池を中心とした複数の集落が含まれ、調査報告書ごとに細かく対象範囲も異なっている。貯水池の東側に広がる木場町、南西方面の西山3丁目(当時は西山町3丁目)…。
中でも調査団が特に頻繁に訪れていたのが、西山4丁目(当時は西山町4丁目)だ。戦後に宅地開発が行われ、今でこそアパートや民家が建ち並んでいるが、当時は世帯数40戸、人口200人余り の小さな農業集落だった(注12)。
住民への聞き込みに協力してくれたのが、松尾利之さん(79)だ。先祖代々この地区で農業を営み、自治会長を務めたこともあって、地元の事情に精通している。彼自身は、原爆が投下された時は3歳で、ほとんど記憶はないという。
「住宅地図を持ってきたら、だいたい当時から住んでる人がわかりますよ」
当時から西山4丁目に住んでいる70代後半以上の方のお宅を、住宅地図にマーカーで印をつけてもらった。
話を聞き始めると、原爆投下の日に降った雨についての証言を得ることができた。当時11歳だった松尾義高さん(87)は、原爆投下時に畑の手伝いをしていたという。
「ピカッと光って、その後、夜みたいに真っ暗になった。しばらくして、20~30分くらい強い雨が降った。ちょうど郵便屋さんが配りに来ている時で一緒に柿の木に避難した。大きいあられのような雨だった」
原爆投下のすぐ後に振った雨や灰のことを記憶している住民は少なくなかった。
「8月9日は暑かったので、雨が降って喜んだ覚えがある」(90代女性)
「埃のようなものが舞い上がって降ってきた」(80代男性)
西山地区で、放射線物質を含む、いわゆる「黒い雨」が降ったこと自体は、これまでも知られてきたことではある。ただ、住民の方々から聞いて、はっとさせられたことがあった。
「金比羅山がなかったら、原爆で西山は壊滅していたけど、金比羅山が守ってくれた」(80代男性)
「金比羅山が助けてくれた」(80代男性)
西山地区は、爆心地から3キロに位置するが、その間には、標高366メートルの金比羅山がそびえ立つ。このため、爆風や熱線という原爆の直接の被害はほとんどなかったとされ、住民たちも自分たちは原爆被害から「守られた」と今も認識していたのだ。残留放射線のことが意識されてこなかったのは、やはりアメリカ軍の情報隠蔽の影響だろうか。
当時、アメリカが調査していたことを住民たちはどう見ていたのか。記憶している住民に話を聞きたいと思ったが、当時の大人の多くがすでに亡くなり、なかなか詳しく記憶している人にはたどり着けずにいた。
教授の「黒革の手帳」に記録されていた西山地区
西山地区に注目していたのは、アメリカ軍だけではない。日本人科学者たちもアメリカに協力する形で、西山地区の調査に関わっていた。
日本もまた、広島に原爆が投下された翌日から、被害を調べるために医師や科学者を現地に送り、初動調査を行っていた。8月7日には海軍が広島を調査、8日には陸軍が国産の原爆開発を行っていた物理学者の仁科芳雄博士とともに広島に入っている。終戦後は、原子爆弾災害調査研究特別委員会が設置され、東京帝国大学をはじめとする旧帝国大学の科学者たちが中心となって、医学、物理学、化学など様々な専門の見地から調査にあたった。
長崎での調査を担った大学の1つが、九州帝国大学だ。原爆投下によって、爆心地から約600~700メートルにあった地域の医療拠点、長崎医科大学が壊滅的な被害を受けていた。そのため、九大は医学部から医師を多数派遣。市内最大の救護所だった新興善国民学校などで被爆者の治療にあたり、調査も行っていた。理学部も専門家を派遣。その中で西山地区に注目し、アメリカとともに残留放射線の測定を行った研究者たちがいる。篠原健一教授の調査チームだ。
篠原教授たちの調査資料に当たれば、西山地区の住民についての情報が得られるのではないか。調べてみると、篠原教授の個人資料が残されているとわかり、私たちは埼玉県和光市へ向かった。
和光市駅から10分ほど歩くと、巨大な研究機関が姿を現す。理化学研究所(理研)だ。創設は1917年。物理学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う、日本では唯一の自然科学系総合研究所。仁科芳雄博士も所属し、篠原教授はここで原子核物理を研究していた。1940年、九大理学部の教授に就任し、戦後は理研に戻っている。
地下にある史料室を訪ねると、史料の管理を担当する職員の三輪紫都香さんが、篠原教授の資料(注13)を木箱にまとめて用意してくれていた。論文やメモ、日本や海外の研究者との手紙など多岐にわたる。10年以上前に遺族から寄贈を受けたものだというが、ほとんど検証されることはなく、手つかずのまま残されていた。
資料の中でひときわ目を引いたのが、黒い革製の手帳だ。1945年に、篠原教授が書き留めていた日記だった。スケジュールを中心に書き込んでいるようだが、毎日の行動や出会った人の名前なども綴られていた。
原爆投下直後の長崎を目にした科学者が何を書き残したのか。はやる気持ちをおさえ、1ページ、1ページめくっていった。
長崎に向かう記述が出てきた。果たして西山地区は登場するのか。
あった。そこで出会ったであろう、「中尾氏」という個人の名前も記されている。そばには大きな字で「西山四丁目、中尾高市」とも書かれている。
さらに篠原教授が残した回想録(注14)をさらに紐解くと、こんな記述もあった。
ペース少佐らが調査を下支えしていたことを伺わせる内容だ。
篠原教授と接点があった「中尾高市」とは誰か。本人は亡くなっていたとしても、家族がいれば何か覚えているかもしれない。一縷の望みを賭けた。
調査のことを知る住民「中尾氏」を発見
私たちは再び、西山4丁目に向かった。
貯水地の付近で車を降り、池沿いに坂を登っていく。貯水池を過ぎると、一段と道の傾斜はきつくなる。額に汗がにじんでくる頃に、中尾さんの家が西側に見えてくる。爆心地から見れば、ちょうど金比羅山の山陰に隠れる場所だ。住民たちが言う「金比羅山が守ってくれた」という意味が少しわかった気がした。
中尾さんは今も、当時と同じ場所に住んでいた。
柔和な笑顔で出迎えてくれたのは、中尾恒久さん(86歳)だ。篠原教授の日記に記された「中尾高市」の次男にあたる。父親が亡くなってから後を継ぎ、家を守ってきた。
「わざわざすいませんねえ」
そう言って取材班にお茶を出してくれたのは、恒久さんの妻アイ子さん(80歳)と、妹の郁子さん(80歳)だった。乾いた喉に冷たいお茶がありがたい。
「これはもう100年以上なるけんね」
家は戦後建て替えていたが、隣にある倉庫は当時のまま残っていた。鍬や鋤など、年季の入った農具が所狭しと置かれている。先祖代々農業を営み、中尾高市は町内会長を務めていた。
「長崎の原爆の後に放射性の物質が、西山とか東側のほうに降っていったという話を取材してまして」
私たちはそう切り出すと、恒久さんは調査のことを覚えているようだった。
「アメリカの方も早かったですもんね。原爆投下から50日ぐらいの時に、ものすごくきたんですよ。僕たちは恐ろしかったですよ、本当。アメリカ兵は小銃ば肩に担いでいるでしょう。恐ろしかった」
原爆が投下された時、恒久さんは10歳。当時の西山地区は田畑が多くを占め、民家がポツポツとある、のどかな風景が広がる場所だった。そこに突然アメリカの調査団が押し寄せてきたのだから、住民たちが抱いた恐怖感は想像に難くない。
「調査に来た人たちで、名前を覚えている人はいますか?」
「ようおりなさったですよ。九大からは篠原先生、この人はもう畑で土ば取って調べてたですよね」
手帳に書いてあった通り、篠原教授はやはり中尾さんのもとを訪れていた。
「アメリカの人はどんな人が来たか覚えてますか?」
「ワレンっていう人が来た。その人は、クリスマスの時、プレゼントっていって、父にライターを持ってきてくれたですよ」
ワレン…そんな名前の人物が、アメリカの調査団にいただろうか。その場ではピンとこなかった。
恒久さんが、調査団が土を調べていたという畑に案内してくれた。
畑は家の裏手にあるが、現在では宅地整備がなされ、道を迂回して坂を登らないとたどり着けない。少し歩くと、恒久さんは膝に手をつき、荒い息遣いをしていた。聞けば、慢性閉塞性肺疾患を患っているという。5年前には胃癌になり、その後、膀胱癌も発症した。遡れば、20歳の頃、甲状腺機能低下症を発症して以来、病に苦しんできたという。
「我慢して、我慢してきよったですよ。病気の多か76年でした」
畑では、ちょうどアイ子さんが、サツマイモの苗を植えていた。恒久さんは、癌を発症して以来、農作業をすることもままならなくなっている。この日もアイ子さんの畑仕事の様子をじっと見ていた。そのまなざしはどこか寂しそうにも見えた。
「ちょうどあそこら辺の、ハナモモが植わっている辺やったです。調査員が傘さして、そして泥をとって。当時は目的とか何とか、そういうことは言わんですね」
調査の理由や結果について、住民には一切知らされることはなかった。何もわからないまま、調査の対象は恒久さんたち自身にも及んでいった。
「学校に行ったら、西山4丁目はみんな帰ってと。帰って町内会長のうちに行けと言われて、帰されよったです。耳たぶ切って、そして血ば取って、検査をしよったですよ」
苦悶の表情を浮かべてこう語った恒久さん。当時、メスで切った時についたのだろうか、耳たぶにはくっきりと傷のような痕が残っていた。
調査の対象は、大人から子どもまで、西山4丁目の全人口となる200人に及んだ。血液検査は恒久さんの家の軒先で行われ、町内会長だった高市は住民への呼びかけ役を担い、姉の妙子さん(93歳)は、調査団の求めに応じて検査を手伝っていたという。
血液検査で明らかになっていた「異常な値」
アメリカや日本の科学者は、血液検査から何を調べようとしていたのか。
手がかりは、中尾さんが語っていた「ワレン」という人物だ。当時の日本の新聞や文献に当たっていくうちに、「ワレン大佐」「ワレン博士」といった記述を見つけた。前後の内容から、調査団のメンバーだった、シールズ・ウォレン海軍軍医か、スタッフォード・ウォレン大佐に絞られた。
そこで、はたと気づいた。その名前なら見覚えがある。
慌ててスキャンさせてもらっていた篠原教授の手帳を見返した。確かそれに近い名前が書いてあったはず…。
あった、「Stafford L. Warren」と記されていた。
スタッフォード・ウォレンは「マンハッタン計画」の医療部門のチーフで、放射線科学者でもある。「マンハッタン管区調査団」では班長を務めていた人物だ。西山地区の調査についても、重要な役割を担っていたのではないか。
日本から約9000キロ。その資料は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、通称「UCLA」の図書館に眠っていた。「WARREN PAPERS」と呼ばれる資料群だ 。ウォレンがUCLAの医学部長を務めた縁から、ここに所蔵されている。
その数は、BOXと呼ばれる資料をまとめた箱だけでも300以上に上る。そのうち、50~70番台のBOXに、多数の広島・長崎関連の資料が収められていた。「アメリカは原爆に関する資料をすべて持ち帰った」とよく言われるが、そのことを実感するボリュームだ。
BOX64 に「Patient Data」と書かれた資料(注15)があった。複写しているもののため見にくいが、1枚ごとに付箋のようなメモが5~6枚ずつ貼り付けられていた。
1行目には筆記体で、名前、年齢、そして性別を示す「♂ ♀」が記されている。
2行目に「4chome Nishiyama」とあった。それは西山4丁目の住民に対して行われた、血液検査の結果を示した資料だった。付箋ごとに、少し大きな文字で「WBC」とある。「WBC11550 」「WBC19600」軒並み、1万超えの数字が並ぶ。
WBCとは「White Blood Cell」つまり白血球のことだ。それが1万を超えるということは何を意味するのか。
西山地区でのこの血液検査に関わった九州大学の石川数雄医師は、戦後に残した証言(注16)でこう振り返っている。
「いままでかつて我々が予期しなかった。とにかく普通でない変化がありました。非常にたくさん増えて、1万2万と、いわゆる白血球増多症を持っていた。それが若い子どもほど強かった。私たちは、ここに非常に恐るべき事実があるような気がしまして、それが(残留放射線が)ずっと蓄積した時にどうなるか」
当時、石川医師が人体への影響が生じる可能性を懸念していたことがうかがえる。
資料に書かれた数字について、専門家の意見を聞いた。放射線医学の第一人者である鎌田七男名誉教授だ。
白血球が1万以上というのは正常値をはるかに越える値で、放射性物質が体内に入ったことで起きた可能性が高いと指摘した。
「内部被ばくで、骨髄を刺激しているんです。特にプルトニウムは骨髄に留まりますから、刺激されて白血球が増えるんです」
血液検査の資料の中に、中尾恒久さんの結果はないだろうか。20ページほどめくったところに、それは記されていた。
血液検査は複数回にわたって行われ、ウォレンが残した他の報告書には、恒久さんの白血球の値が3万を超えているものもあった。
今回、新たに発掘した報告書(注17)で、西山地区についてアメリカ軍はこう記していた。
私たちは、これらのウォレン大佐の資料を、恒久さんに見てもらった。
血液検査の資料を出すと、それまで穏やかだった彼の表情が険しくなっていった。
「ちゃんと説明を受けたことは?」
「いや、それはなか」
そして、私たちの質問の言葉をさえぎるように言った。
「その結果は、1回も教えんやったもんね」
彼は、眉間にしわを寄せてうつむいていた。長い沈黙だった。
正直、私たちの中には、資料の存在を伝えるべきかどうか、ためらいもあった。だが、事実を知りながら伝えないのでは、アメリカの調査団が住民にとった行為と同じになってしまうし、何より本人の健康に関わる重大な情報は、本人が知って判断すべきだ。
アメリカ軍は、「残留放射線の人体への影響はない」としながらも、特に残留放射線の値の高かった西山地区の住民にどのような変化がおきるのか、検査を繰り返し、観察を続けていった。
一方でアメリカ軍の思惑を知らされないまま検査に協力した住民たちに、調査の目的や結果が伝えられることはなかった。
その後しばらくして、体調不良や原因が不明なまま亡くなる人が出ていた。
=続く
(NHK原爆初動調査取材班/佐野剛士・水嶋大悟・大小田紗和子)
※注11:MEASUREMENT OF THE RESIDUAL RADIATION INTENSITY AT THE HIROSHIMA AND NAGASAKI ATOMIC BOMB SITES
※注12:長崎市制六十五年史 長崎市総務部調査統計課(1959年)
※注13:理化学研究所 史料室所蔵
※注14:原子爆弾災害調査の思い出 Isotope News 1986年8月号
※注15:Box 64, Folder 3 1-18. Patient data, Warren Papers, UCLA Library Special Collection
※注16:長崎放送 シリーズ「被爆を語る」1971年
※注17:RECOMMENDATIONS FOR CONTINUED STUDY of the ATOMIC BOB CASUALTIES Papers of James V. Neel, M.D., Ph.D. Manuscript Collection No. 89 of the Houston Academy of Medicine - Texas Medical Center Library