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彼女は夢を追いかけている

「わたし、彼女のこと大好きなんですよ。こういう、夢を追いかけている子が大好きなんです」

多分秋で、ケーキがおいしい店だった。というか、ケーキ屋に併設されていたカフェだった。
同期のシンガーソングライターのライブの前座として一人芝居をすることになったからと、空席を出すわけにはいかないからと、土下座ばりの蝶子の頼みを聞き入れて私は神戸元町の坂をのらくらと上がり、会場になったカフェの隅の席に腰を下ろしていたら程なくして蝶子がやってきて私の向かいに座った。「すごいな」彼女が言う。
「何が?」
「いや、わざわざそこ選んで座ったんがすごいなって。あたし、この席から芝居始めるんよ」
「あ、そうなん。休憩しに来たんかと思ったわ」
「ちゃうねん、紛れ込んでんねん。ていうかめちゃいい色の口紅やな」
「あ、使う? これやけど」
私は鞄からアナスイの口紅を取り出してテーブルの上に置いた。けれどそれを蝶子が手に取ったかどうか、彼女がそれを彼女の唇につけたかどうか、もう私は思い出せない。


蝶子の20分ほどの一人芝居はつつがなく終わり、主役である彼女の同期がマイクを持って、蝶子に拍手をしながら登場する。そうして彼女は蝶子のことを「夢を追いかける子」と表現した。「そういう子が大好き」なんだとも、ショートカットにワンピース姿の彼女は目を細めて笑った。蝶子に向けられる拍手と口笛。私ももちろん拍手をする。クラシックバレエ上がりの蝶子はふわりと一回転してから深くお辞儀をして、お店の奥へと去っていった。



夢を追いかけている子。
蝶子がいなくなれば知り合いなんて一人もいないライブの帰り道。当然蝶子と一緒に帰れるわけでもない、私はCD販売の列の横をすり抜けて早々に店から出て、西日の海に浸かったみたいな神戸元町の坂道を、今度はすったすったと後ろから押されるように歩いている。
夢を追いかけている子。
そうね確かにそうだろうね。蝶子もあなたも、私のように何かを見限って就職活動に身を投じることもなく、これからも音楽なり演劇なりの道を歩いていくのだと決めたあなたたちは、夢を追いかけている子、としか、私にも表現しようがない、だろうね。
だろうね。まあ、あなたたちが自分のことを、それから友達のことを、どんな言葉で表象しようとそれは全くあなたたちの自由だし、実際「そう」見えているなら「そう」表象して何にも、問題はないと思う。
夢を追いかけている子。
私はすったすったと坂道を下る。あっという間に駅まで戻ってくる。私は、さっき観た蝶子の一人芝居にも、それから始まったライブにも、特にあの曲がよかったなとも思わないまま、強いて言うなら内輪な空気のライブだったなと、それは私が全くの外野からやってきた人間だったからそう思っただけかもしれないけれど、だけど、あれだけ内輪の温かい空気でやれるライブならさぞ楽しいだろうなと、無表情に改札を通り抜けた。



冬にスタートを切った就職活動を4月の早々に終えて、内定者懇親会や研修も受けたりなんかして、卒業論文の準備をしながらも23歳の私は学生でありながら、社会人になるのを待つだけの人でもあった。
卒業後の行き先が約束されているというのはこの上ない安心感があった。この安心感があったからこそ、私は残りの学生生活を、さしたる不安を抱えることなく過ごすことができたと言ってもいい。それは就活を無事に終えることができた人間の特権でもあった。
同時に私の、就職するという選択は、それ以外の選択肢をふるい落とした。それこそ蝶子やその同期の彼女が選んだような、芸術の道へ賭けてみるという選択肢もその一つだったことだろう。
彼女たちと私とでは、確かに、根本的に違う土台に立っていた。学科で音楽なり舞踊なりを専攻していて部活でも軽音をやって演劇をやってという彼女たちでは大学3年生になった途端リクルートスーツを着て就活に身を投じるという選択の方が現実味がないものだっただろうし、その逆も然りで、部活では演劇をやっていてもこれと言って秀でた光があるわけでもなく、結局のところ学科での机上の勉強や語学の方が楽しかった私がいきなり演劇や文芸の道に賭けると言い出す方が突拍子もない。
私には私がこれから進むであろう道がなんとなく見えていた。少なくともそれは、就職せずに「夢を追う」という道ではまずなかった。作家になりたいという漠然とした希望があったけれど、だからといって就職せずにいきなり専業作家を目指すなんて向こう見ずにも程があると私は私を切り捨てた。
結婚の予定もない、家庭に入れと言ってくる彼氏もいない。私は、正社員になりたかった。



正社員を辞めることなく30歳にもなって、地元で画家業を続けている幼馴染と5年ぶりに再会してコーヒーを飲んだ。彼女は東京での個展を終えたばかりで、私はひとまずそれを労った。
「なんだかんだで画家業、続いてるよねえ」と私が言うと、彼女は「そうだねえ。でも毎回『辞めたいよー』って思いながら描いてる」と答えた。
「いや辞めて欲しくないよ」
「いや辞めないけどね」
「だってさ仮にじゃあもういいわ辞めるっつって辞めたとするじゃん。そしたらさ多分、この先ずっと『ああ自分辞めちゃったんだな』って思いながら生きてくことになると思うんだよね。多分そっちの方が、しんどいし悲しくもなると思うんだよね」
「そうかなあ」
「多分よ。だから私は辞めて欲しくない」
オーバーサイズのコーヒーを啜る。だけど私はあの時、一体どの立場から彼女にものを言っていたのだろう。まだ作家になりたい私が言っていたのか、もうほとんど諦めてしまった私が言っていたのか、諦めたとも思っていない、全て忘れてしまった私、会社員というアイデンティティしか残っていない私が言っていたのか。
あの時の私は一体誰だったのだろうか。



もう10年近く前の神戸元町での一日を思い出す。「夢を追いかけている子」と無邪気に蝶子を紹介していたあの子の笑顔を思い出す。
あの子にとって「夢を追いかけている子」というのは、自分のように音楽や演劇、とりあえず芸術、芸能の道を志す少数の人たちを観測しているのであって、就活なんていう自ら没個性の沼に進んで飛び込んでいくような「大勢」は含まれていなかっただろう。となれば私だって、彼女の観測外の人間でしかない。
だけど「夢を追いかけている子」って、何なんだろうねと、何のつもりであなたはそう言ってるんだろうねと、もっと踏み込むなら、何様のつもりであなたは人をそう判断してるんだろうねと、あの日の笑顔に、私は今でも問いかけることがある。



「あたしはあんたのそういうところが腹立つねん、蝶子。あんたは自分みたいに芝居とか音楽とかとりあえずなんていうの、そういう、就活じゃない道に行く子のことしか見えてへん。そういう子たちの方ばっかり見て、夢を追いかける子はやっぱり良いとか素敵とか、あんたはそう言ってんの。でもよ、あんたの全然見えてないところにおる人たちやってね、自分のできること考えて自分の将来考えて自分の手が届くくらいのささやかな、あんたにとってはささやかよ、あんたにとってはくだらんとかつまらんとか思うことよ、例えば何、家買うとか結婚するとか子供持つとか自分の子供の成長喜びたいとか安定してお金もらってたまに旅行出かけるとか、そんなんよ、そんなんやって自分の未来のことを思ってるわけやんか、でも何、あんたにとってはそういうのは夢じゃないんか? そういう、芸術とか芸能とか、あんたみたいな人にしか、夢は夢って言われへんのか? なあ蝶子、夢って何よ? あんたが言うてる夢って何よ? あたしは、就活してこれから会社員なるあたしは失格か? 会社員なって、その傍らにやりたいこと目指すっていうあたしは失格か? 蝶子、なあ、夢って何よ? 答えてみいよ、夢って何よ?」



そんな台詞を、いつか小説にしようと思っていた。けれどこの「夢」も多分、叶えないまま捨てるだろう。私に生き続ける「蝶子」と「私」の物語をいつか書きたかった。けれど今に至るまで形にならない。この物語で自分が何を言いたかったのかもほとんど忘れてしまった。違う、私が言いたかったことは朝井リョウが『何者』で先に書いてしまっていた。やられたなと思うより先に私と同じ気持ちの人が存在していたんだという喜びの方が足が速かった。私がわざわざ改めて書くことは何もないと思った。だからこの物語はきっと叶えられないまま捨てられていく。私より小説が上手な人に書いてもらえた感情の形はそのままで、それでいい。

朝井リョウだけじゃない、私が日々思っていることなんてほとんどBUMP OF CHICKENが音楽にしている。「得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは/それを自分より 得意な誰かが居たから」そう。「生活は平凡です 平凡でも困難です」本当にそう。「健康な体があればいい 大人になって気づく事/心は強くならないまま 耐えきれない夜が多くなった」わかる。「悲しみは消えるというなら 喜びだってそういうものだろう」そうだよね。「一人じゃないと呟いてみても/感じる痛みは一人のもの」そうなんだよね。
「壊れた心でも 悲しいのは 笑えるから」

なぜ私が書けなかったの。なぜこんなに鋭い人がいて、なぜそれを、享受するだけの人間でしかないの、私は。
なぜこの音楽や言葉を世界に発信したのが私ではなかったの。



企業を動かすひとつの小さな歯車に過ぎない存在に自ら嵌め込まれに行って、それでも人と同じや平凡は嫌だからと着飾って、奇抜な髪型にして、髪を染めて、休日になったらミニシアターに通って、本屋に行けば自分より若い作家の存在に嫉妬して、SNSを覗けばまた嫉妬してスマホを放り投げて、誰が見ているともわからない文章や小説を書いてはまだ自分は大丈夫そうと安堵する。そのくせ日々思うことは朝井リョウやBUMP OF CHICKENを間借りしているような、独創性も瞬発力もどうにも足りない。これが私。夢を夢とも観測できない他人の視野の狭さ浅はかさをいつまで経っても忘れられないままに蓋を開けてみれば結局「夢って何ですか?」

バーアッ、カ。だろ。
ダサいのはどっちだ。




瓦礫が、広がっているような気がする。

「夢って何よ?」何だろうねえ。私は瓦礫の上を歩き出す。かつて夢だと思っていたもの、蓋を開けてみればそうでもなかったもの、時間切れになって瓦解したもの、人には夢だと映らなかったもの、そういう、瓦礫の上を新品のスニーカーでざくざくと歩く。何だったんだろうねえ。私は足元に目を落としながらざくざくと歩く。歩くたびに瓦礫はばきぼき割れていく。こんなに全部が脆いのは、結局私が「そんなもの」だったからなんでしょうか。

「夢を追いかける」には体力がいる。気力もいる。だからこそ誰かを「夢を追いかけている人」と表象するのは、軽々しくやってはいけないことなのかもしれない。それこそ、将来の安定を投げ打って自分の道に賭けに出た人にしか、使ってはならない言葉なのかもしれない。

それでも思う。ざくざく靴を鳴らしながら足を取られながら私はむきになってでも歩く。自分が夢だと思っているならそれは夢でいいんじゃないの。だって悔しいから。

「捨てないのなら 違いますよ/持ち主がいるのなら 夢ですよ」

ほら藤原基央だって歌っている。そして私は結局間借りしている。間借りしながら私はしゃがみ込んで瓦礫を拾う。ひとつふたつ持ち上げてみて、形の綺麗なものをポケットに仕舞う。磨けばぴかぴかになるかもしれない。ならなかったらまた拾いに来るかもしれない。だって悔しいから。悔しさを食べてここまで生きてきたから。だから多分生きているうちはずっと、悔しいから。




瓦礫散らばる部屋でひとり、黙り込んで書き上げる。
自意識ばかりががなり立てる愚にもつかない話に時間をかけすぎだ。
もういいや、お茶を入れよう。愚にもつかない私だが、今日もまだ大丈夫のようだから。




読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。