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エレナの行き先

私たちが住んでいた学生寮は地下1階にランドリールームがあり、コインランドリーでよく見るような横置きの洗濯機が数台並んでいた。いつも鍵が開いていて、私はここで数回下着を盗まれた。洗濯機の中を開けて、下着の入ったネットをわざわざ見つけ出し、器用にパンツだけを盗んでいくとはご苦労なことだった。泥棒のせいで私の下着はあっという間にストックがなくなり、H&Mで安い下着をまとめ買いさせられた。純然たる無駄な出費だった。洗濯室に張り込んで泥棒をぶん殴る計画を立てかけたが、ひたすらに面倒だった。初めて盗まれた時は相当にショックを受けたけれど、数回やられれば心も麻痺していく。


洗濯カゴを抱えてエレベーターに乗る。ランドリールームにやってきて、数台あるうちの一台の前にしゃがみこむ。洗濯物を詰め込んでから異変に気づいた。どうも蓋が閉まらない。壊れているかもしれない洗濯機を使って何が起こるかわからない。私は一度洗濯物を全て取り出して、隣の洗濯機を使うことにした。
エレナがやってきたのはその時だった。彼女は私の隣にしゃがみこみ、さっき私が使うのをやめたその洗濯機に自分の服を詰め始めた。詰め終わった彼女は私と同じように蓋を閉めようとして、首を傾げた。
多分、その洗濯機壊れてると思うよ。私が声をかけると、そうみたいねとエレナは答え、他の洗濯機を見回した。私はすでにスイッチを押したところで、タイミングが悪く、空いている洗濯機はエレナが使おうとしている壊れているかもしれないその一台だけだった。また出直したら、と言おうとして、また別の誰かが入ってきた。エレナは壊れているかもしれない洗濯機の蓋と戦っていて、見知らぬその人は洗濯機が壊れていることも知らず、エレナに助け舟をだす。その人の力もあってようやく蓋は閉まり、洗濯機は動き出した。ありがとう! エレナは顔を輝かせてその人にお礼を言った。


私が部屋で洗濯物を干し終えて、ぼんやりパソコンの画面を眺めていると憤然とした様子でエレナが戻ってきた。彼女が抱えていた洗濯カゴの中の服たちはびしょ濡れで、明らかに脱水が上手くいっていなかった。エレナは何も言わず怒りを露わに、びしょ濡れの靴下を床に叩きつけた。だから言ったのに。私はエレナに声をかけなかった。

そういえばあのランドリールームには下着泥棒が出ることを、ついぞエレナに言わなかった。


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エレナは体だけが国を越えてここに来て、心は家に置いてきたままのような人だった。他の同居人が皆玄関で靴を脱いで部屋に戻っていくのに、エレナだけは部屋に戻ってベッドに腰掛けようやく靴を脱いだ。エレナのスニーカーは常にベッドの脇にあった。
エレナはあまり物を食べなかったし、食べているところもあまり見ないままだった。エレナはとても細い人だった。
エレナはよくスカイプでお母さんと話していた。スカイプが繋がっている時だけ、エレナはエレナでいるように見えた。ドイツ語が話せなかったエレナは誰に対しても英語で、そもそもあまり話そうとはしなかった。そんなエレナにはスカイプだけが唯一の拠り所だったのかもしれない。エレナは私の隣で1時間でも2時間でも話し続けていた。それがあまりに早口だったから、聞くつもりがあろうとなかろうと私にはエレナとお母さんの会話がさっぱりわからなかった。

エレナは画面の前でよく泣いていた。初めてそれに遭遇した時は私もさすがに驚いて、話し終えた彼女に大丈夫? と声をかけたりもした。エレナは大丈夫ありがとうとそればかりで、私はそのうちエレナが泣きながらスカイプをしていても何も言わなくなった。

エレナはよく旅行に出かけた。エレナがいない二人部屋は広々として、静かで、私は内心エレナが旅行に出てくれると喜んだものだった。私は国を越えてここに来ても結局腰は重いままで、休日もほとんど街を歩き回るだけで過ごしたし、帰る場所はいつもあの二人部屋だった。私はエレナの不在に慣れていた。数日いなくなって、帰ってきたエレナにどこに行ってきたのと聞くと、そのたびエレナは色んな国の名前を挙げた。スロヴェニアに行った翌週にスロバキアに行くようなエレナだった。


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クリスマスから冬休みが明けるまで、エレナは長い旅行に出た。エレナはいつも行き先を告げない。いつ帰ってくるのかも告げない。相変わらず腰が重い私はせいぜい特急列車で日帰りできるほどの街にしか行かず、誰もいない部屋に帰ってきては、今日もエレナは帰ってこなかったと、不安と安堵がないまぜになった思いを抱えて眠りについた。


長い旅行から帰ってきたエレナは憂鬱の海に落ちた。口数も少なく、私とエレナの間に交わされる会話はそれぞれが部屋に帰ってきたときの"Hi."だけになった。私はそれで平気だった。私ももともと、話すことは得意じゃない。それに他の同居人とはドイツ語で話すのに、エレナと話す時だけは英語に頭を切り替えなくてはならなくて、それがますます、エレナとの会話を億劫にさせた。エレナもまた、他の同居人との会話を億劫がっているようだった。

その日もエレナは泣きながらスカイプをしていた。特にひどい夜だった。見かねた画面の向こうのお母さんが「エレナ、あなたはもうすぐ家に帰って来られるのよ」と言ったのを聞いた。それは彼女に言い聞かせるように一語一語しっかりと発話されたので、私は偶然聞き取ってしまったのだ。そして私は、エレナとの別れが近いことを知った。


私は大学の近くにある文具屋に出かけ、便箋と封筒を買った。いつも行き先も帰る日も言わずに出て行くエレナだから、別れの日も伝えてくれることはないだろう。それでも私はこの手紙を、なぜか絶対に渡せるものだと思っていた。この手紙はきっと間に合うだろうと思っていた。「エレナへ」と、短い手紙を書いた。あまり話すことはなかったけど、半年間ありがとう。アメリカに帰っても元気でね。決まり文句だけの手紙は、そのまま私たちの没交渉を表していた。

その日はとても寒い日で、天気予報はマイナス10度なんて、すぐには信じられない気温を示していた。私は朝から授業があった。服を着込み、コートを羽織り、カバンの中にはエレナへの手紙を忍ばせて、部屋を出た。エレナは昨日と変わらない穏やかな笑顔で"bye"と私を見送った。私も"bye"とだけ、少しだけ手を上げて、部屋を出た。

それがエレナを見た最後だった。


The day you slipped away
Was the day that I found it won't be the same


授業を終えて夕方に帰ってきた私は、玄関のドアを開けた瞬間、ここが昨日までの空気と違うことを感じた。リビングのテーブルに置かれていた一枚のメモを見つけ、それは確信に変わった。


Sorry to run.
but I hope you all the best.
Elena


私は私とエレナの部屋の前でしばらく立ち尽くしていた。こんなに、この部屋に入りたくないと思ったのは初めてだった。それでも私は、開けなくてはならなかった。

エレナはいなかった。エレナが使っていた机の上は、何も残らず綺麗になっていた。いつも綺麗に服が畳んで並べられていたエレナのクローゼットは空になって、ベッドはシーツが剥がされて、マットレスが残されているだけだった。エレナがいつも使っていた大きなバックパックも、キャリーケースも、何も。何も。

私は振り返って自分の机の上を見た。私に、何か残してくれたものがないかを縋る思いで探した。

何もなかった。私の机には私の物しかなかった。

カバンを床に落とし、コートも脱がないまま、私は自分の椅子に座る。改めて、何もなくなってしまったエレナのスペースを見た。床に落としたカバンの中にある手紙を思った。今夜、渡すつもりだった。間に合うと思っていた。これだけは渡せるものと信じていた。
何の気配もなかった。今朝。エレナはいつも通り、パソコンの前に座っていた。私に振り返って、"bye"と見送った。それは毎日のエレナ、見慣れたエレナだった。

エレナは行ってしまった。いつも通り行き先を告げることなく、けれどもう永遠にここには帰ってこない。

片側だけがぽっかりと綺麗になったがらんどうの部屋で、何とも比較ができない不在の大きさに、人ひとりがいなくなるだけでこんなにも色が変わる空気に、嗚咽を憚らずに泣いた。

エレナ、旅行じゃないんだから。
これは旅行じゃないでしょ。ねえ、エレナ。


It wasn't fake
It happened, you passed by


"Sorry to run" -エレナは、ここに居られなかったのだろうか。最後までここはエレナにとって、辛いばかりの場所だったのだろうか。ルームメイトが同じアメリカ人だったなら、エレナは寂しくなかっただろうか。私だったから、対話が苦手な私だったから、もしかしたらエレナは。


Now you're gone, now you're gone
There you go, There you go
Somewhere, I can't bring you back


不在がちなエレナと、いつも部屋にいる私。ドイツ語をそれなりに話す私と、最後まであまり上達しなかったエレナ。幸いにも体も心もここに持ってくることができた私、心だけはどうしても持って来られなかったエレナ。いつも泣いていたエレナ。洗濯物にも怒ってしまうエレナ。それでも雨が降れば、私の洗濯物を取り込んでくれていたエレナ。

エレナ、この街の冬はとても寒いね。
とても、寒かったね。


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それから数日を部屋でひとり、誰とも顔を合わせずに過ごした。ようやく部屋から出られた日、階段を降りると向かいの一人部屋に住むイレーネがソファに座ってコーヒーを飲んでいた。イレーネは私を見て、小さく微笑んだ。エレナのことは互いに触れないまま、私とイレーネは何も言葉を交わさないまま、しばらく同じ時間を過ごした。外は止む気配のない雪、天気予報は変わらずマイナス10度。暖房のよく効いたこの部屋はまるで冬の海の中に浮いた箱のようだと思った。

部屋を掃除した。エレナのスペースの分まで掃除機をかけた。カバンに入れたままだったエレナへの手紙を、私はそっとゴミ袋の中に入れた。


エレナの行き先は、いつも、誰も知らない。



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Slipped Away / Avril Lavigne



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