耐える(20200524)
先週、大阪も緊急事態宣言が解除された。私の会社はとりあえず今月いっぱいはテレワーク中心の勤務とする方針でいるので、ひとまず今月は割と自由に会社と家を行ったり来たりする仕事を続けるのだろう。けれど来月になって、一気にそれが解除されて、一気に会社に人が戻ってきて、一気に人の声が溢れる執務室の空気に、私はもう一度耐えられるだろうか。耐える。4月の緊急事態宣言の前後から徐々に会社から人がいなくなり、がらんどうになった執務室の静寂が少しずつ身体に染み渡って初めて、私は会社の、人と声の多さに耐えていた、それも自分が思っているより相当の圧力を自分にかけて、耐えていたのだと知った。永遠に緊急事態の下で生き続けるのも嫌だけれど、このままテレワークと人の居ない会社の両方に慣れてしまって、それがいざ、急に元に戻されるのもかなり堪えることだろうと思う。リモートワークが広まって自殺率が減ったというニュースを読んだが、それは多分、6月で元に戻るあるいは倍増する予感がする。
気づけば休日に一歩も部屋から出ないことにも随分慣れてしまった。そして気づけば、世界は夏に向かって突き進んでいる。私が部屋から出ない間にも季節は移る。春服を買わないままだった。きっと買っていたであろう服、化粧品、アクセサリー、買わないままに、身に着けないままに夏が来る。私の頭上を立派に咲き誇っていた桜はとうに葉桜となり、大通りの銀杏並木は新緑を茂らせている。上りゆく気温、この身体に熱が篭ってゆく。
奇妙な罪悪感が、伸びた髪の先を引っ張る。
孤独に安らぎを見出すような人間で、他者との関わりを「耐える」ような人間で、誰のことも受け入れようとしない人間で、誰のことにも興味がない人間で、こんな人間で。
こんな人間であることが、私の髪を引っ張る。千切れない程度の、抜けない程度の力で、やわく、絶えず、やわく、絶えず、
私はいつまでこんなことをしているのだろう。いつまでこんな人間でいるつもりだろう。
それでも私は今でも私のことを分からない。心底人間が嫌いなわけでもない。だけど嫌いなのだろうか本当は。嫌いだったのだろうか。誰も彼も。会社員としての日々が人生の割合を食いつぶしていくなかで、私にとって他者の存在は、「耐えるべきもの」としてしか有り得なくなってしまったのだろうか。誰にも自己を開示することなく、生きていこうとしているのだろうか。そんな愚かな選択肢を、春が可視化させてしまったのだろうか。人が消えて見晴らしの良くなった、過ぎた春が。
少しずつ世界が扉を開け始めている。けれどあの過ぎた春を境に、それ以前の私は二度と戻ってこないのだろう。私は適応してしまった。外に出るのは、当分の間は、訓練として。
不思議だ。外出自粛が言い渡されても緊急事態宣言が出されても私は変わらず出社して働いて、それなりの社会生活を維持していたはずなのに、今私を待っているのは紛れもなく「社会復帰」のそれだ。
日記を書くとだいたい同じことを書いているといつも思う。書くべき出来事が何も起こらないからだ。何も起こらない日々は穏やかで、安らかで、私は気づかぬうちに息が細くなっていく。
今日はマンションのオートロック取り付けの案内が来た。日曜日に家にいるとこの類の煩わしい訪問を受ける。結局契約書にサインしてしまったけれど、クーリングオフを使うような気もする。
誕生日までに短い小説をもう一本くらい書けるだろうかとふと思ったけれど、5月はもう十分に私は書いた。誕生日を過ぎても日々は続いていくのに、もう十分だなんて、言うにはとても早いのに。結局は何かを放出し続け他者からの承認を受け続けることでしか私という人間は生きられないのに。
悲しくて愚かだ。誰に何を言われずとも、誰からの承認を受けずとも、敢然として立っていたいと、こんなに、願っているというのに。
読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。