見出し画像

supernova (summer of 21)

7月の終わりにはアスファルトにこぼれ落ちるくらい咲いていたノウゼンカズラが、今では数えられるほどの花だけを残して静かに夏の終わりを見つめている。9月を過ぎて残った花は私の手には届かない高いところで、太陽を向いて、じっと静かに。
ノウゼンカズラは凌霄花と書く。あの橙色と桃色が混じったやわかい色の花と、咲いたそばからアスファルトにこぼれ落ち、そしてなお蔓いっぱいに咲き続ける生命力と、太陽を見つめる眼差しを、「霄を凌ぐ花」だと大昔の誰かが名付けた。私の生家から二軒離れた家の塀をはみ出して、毎年をこぼれ咲く凌霄花。リョウセンカ。



生家の町で、蝉の声をもう聞かない。大阪の街で毎日毎日、脳を破壊せんとするばかりに鳴いていたクマゼミの大群はここにはいない。8月の終わりに一匹だけのミンミンゼミの声を聞いた。最後の振り絞った声を。誰も応えてはくれないであろう孤独な声を。生まれるのが、生まれるのがあと少し、一週間でも早かったなら、きみを誰かが見つけただろうか。
私は蝉の声をもう聞かない。あのミンミンゼミの声ももう聞こえない。
昼間は長い雨が降り続いて、水と風の音以外には、全てがアスファルトと用水路に流されていくばかり。

雨の止まない真夜中に、死を思って一人横たわる私に虫の声がやってくる。秋の虫の声が、雨をやり過ごし窓の隙間からそっと入り込んでくる。私はタオルケットをかぶり、天井を見つめている。どうしたら死ねるだろうと考え、その気さえあればきっと私はいつでも死ねるのだという安堵とともに眠りにつく。悲しくて午前3時にひとり睡眠薬をぱちぱちと、一粒ずつ出していき、右手いっぱいになった錠剤を一気に飲み下した夜。抽斗のカッターナイフが全然切れなかった夜。悲しみを足に縛り付けて引きずって、戻ってきた部屋に鳴り響いている虫の声。全てが夢みたいに、私は何もしなかったのだと錯覚するほどに、昨日も今日も明日も、静かに部屋を満たす虫の声。
液体のような夜。冷たい空気に肌を浸ける。もうエアコンはいらない。



夏は燃え上がり、私は部屋を閉め切ってエアコンを入れた。蝉の声も、工事現場の音も、まとめて遠ざける。私は私をこの夏から切り離す。燃え上がる夏を前にして、こうする以外に私の生きる術はないから。
エアコンの効いた部屋からベランダに出て洗濯物を干し、布団を頭からかぶって昏々と眠る。照りつける太陽も夕立も何もいらない。彼らに早くいなくなって欲しいから、私は明るい間をずっと眠る。夏はいつも、どうやって生きるのがいいのか途方に暮れる、やり過ごすより他にない季節。
今年の私は歯車が急に噛み合わなくなったように、がたついて、倒れ込んで、いきなり立ち上がって走り込んで、また動けなくなって、倒れるしかない、足元のおぼつかないからくり人形のようで、ちょうど今年二度目の不調に突き落とされたとき、世界は夏になっていた。燃えるような快晴の日々から一転し、長い雨の降りしきる曇天の夏になっていた。
長雨のせいで、梨が不作らしいんだよねと母が言った。



ついぞ、オリンピックもパラリンピックも観なかったと書こうとして、パラリンピックの車椅子バスケットボールの決勝だけは試合開始から試合終了まできちんと観たことを思い出した。この地元から選手が出場していると聞き、車椅子バスケットボールのルールなんて何も知らないのに40分間をじっと観た。結局この地元から出場している選手がどの人なのか画面に見つけることはできなかったし、試合は負けてしまったけれど、これが私の唯一のTOKYO2020の記憶。嵐の歌う「カイト」が耳に残る。風が吹けば歌が流れる。歌っているのは嵐の5人なのに、紛れもない米津玄師が体に持つメロディで、消し切れない、あるいは消そうともしない彼の存在感を、ほんの少し、可笑しく思う。らる、らり、ら。
オリンピックもパラリンピックもどっちも中止になればいいと、なるはずだと、ずっと願っていたけれど、9月も半ばに来て、どちらもスケジュール通りに開催されて、終わってしまった。オリンピック開会式に抱いた悲しみと、車椅子バスケットボール決勝のほのかな高揚感と、パラリンピック閉会式に抱いたあらゆることへの諦念。何をやっても覆らないことがあるのだと、鉄壁の権力をまざまざと見せつけられれば刃も折れた。残された「カイト」のメロディ。糸が切れて、あとは自由に飛んでいくカイト。らる、らり、ら。



働き、歩き続けることが困難になった体を抱えて生家に戻ってきた。
18歳までを育てられたこの生家で、私は18歳までの記憶を絶えず語りつづける。この家にいて無限に溢れ出てくる10代の記憶。あらゆるところに残る、10代だった私の存在感。
命ばかりを燃やして、日常に使い切れなかった分の全てを部活動に注いだ夏。矯正器具にマウスピースを押し付ける痛みに耐えながら、思い通りに吹けない悔しさに泣きながら鳴らし続けたトロンボーン。心はとっくに絶交しながらも同じ音楽を完成させるために隣に座り続けたファースト・トランペットの彼女の横顔。彼女の口が吹くトランペットの高らかな、風のような主旋律と、その下を川のように流れる私の副旋律。離れた心を誰にも悟られないように、互いに不可侵を貫いた3年間。
昼も夜もなく脚本を書き続け、何度も迎えた夜明けの薄明かり。平気で遅刻して向かった部室。いつも靄がかかったような頭で、次はどこを直すべきかを考えている左手。全ては私の脚本にかかっているのだと、私が完成させられなければ全てが終わってしまうのだと、崖の端に置き去りにされたような日々。
自分が作った役を演じるために、自ら長い髪を切り落として「男」になった夏の終わり。白いオーバーブラウスに紺のプリーツスカートを履いて、そのちぐはぐな姿がとても、怖かったこと。


随分、髪が伸びた。
7月の終わりに切り落とした私の髪は、もう物珍しくもない長さへ落ち着きつつある。
髪型を変えるとき、ここでも夏が私の背中を押す。暑さを乗り切るためと周りに上手に半分ほどの嘘をつき、私は「女性」からの脱出を図る。ささやかに、私は私を女性から切り離す。
髪を切り落とすことに、怖いことなどもう何もない。16歳で私は男になった。17歳でも18歳でも、私は男の子だったのだ。その度に髪を切り、その度に、髪はまた伸びるのだ。スカートの裾は揺れるのだ。
冬を迎える頃には誰も、私が男だったことなんて、覚えていないのだ。誰も。

31歳の命は静かに燃えている。ただその日を生きながらえるだけの分の火が、毎日静かに揺れている。頭を駆け巡る記憶の映像を映画館に一人座って眺めるように、終わらない上映に席を立てないままでいる。



夏は燃え上がり、爆発し、収縮して死を迎える。
小学校へ向かって自転車を走らせていた私の車輪めがけて、一匹の蝉が突っ込んできたことがあった。
慌ててブレーキをかけてももう遅く、一瞬で蝉は砕け散って、残骸のひとかけらさえも見つけることができなかった。自転車に跨ったまま呆然とする私に、蝉時雨が降り注ぐ。真夏の太陽が肌を灼く。
少女だった私は、一体何匹の蝉をあの自転車で轢き殺してきたのだろう。一体何匹の蝉がそうやって、人間の自転車に突っ込んでいったのだろう。
夏の死は鮮烈だ。砕け散って跡形も残らない。破片は真っ黒なアスファルトに焼かれて腐ってゆく。耳をつんざく蝉時雨に燃え上がる太陽の日差し、陽炎とともに揺れる死の光景と腐臭。
一瞬を輝いて燃え尽きてしまう花火と火薬の匂い。慣れない浴衣に汗を滲ませて、足を痛めながら歩いた河川敷。人の群れに押し流されるようにして帰った熱帯夜。友達の恋を手伝うことにばかり一生懸命で、自分の恋をついに叶えられなかった。これもまた鮮烈に死んでいく夏の断片、今も忘れない。



「弱った夏に秋は背後から忍び寄り、気付いた時には首元にナイフを突き立てられている」
16歳の夏、終わりゆく夏を見つめて日記に書いた。けれど秋は、夏の首元にナイフなど立てたりしない。夏は燃え上がり、爆発し、収縮して死を迎えるのだ。その収縮した死を、秋はただ包み込むだけだ。収縮が永遠のものとなる前にその手に捕まえて、胸に抱きしめて、空を押し上げて太陽を遠ざける。
夏は秋の胸の中で眠る、燃え上がった火をそっと吹き消して。
秋は夏を抱いて目を閉じる、夏の残した生命が実りを成すことを祈って、いずれ自分を迎えに来る冬を思って。


今年も夏は逝ってしまった。
田園の稲穂は皆深くこうべを垂れて、国道沿いに広がる林檎園は赤く色づいて、しめやかに収穫のときを待っている。
私は夜の声に満たされた部屋でひとり眠る。明日を目覚めるために、もう少し、生きるために、今夜もそっと目を閉じる。
ノウゼンカズラが咲いている。9月を過ぎて残った花は私の手には届かない高いところで、離れゆく太陽を見送るように、ただ静かに。



読んでくださってありがとうございます。いただいたお気持ちは生きるための材料に充てて大事に使います。