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研ぎ澄ます

切れないハサミ、切れない包丁、切れない鎌、どれもイライラします。刃物と言うのは使用しているうちにどうしても切れ味は落ちて行くものです。切れ味の落ちた包丁を使いながら、
ほんとにもう!この包丁は切れないんだから!

と切れない包丁に切れるのは間違いです。むしろ切れたいの包丁の方でしょう。
切れない刃物は危険です。切れる刃物は安全です。この意味は分かりますよね? 切れなくなったら研ぐ。切れ味が戻るようにひたすら研ぐのです。

今の建築現場では刃物を研ぐ風景はほとんど見かけなくなりました。のこぎりは替え刃になり、ノミやカンナを使う作業自体が無くなったからです。
昔の住宅と言うと、まず、柱や梁に墨で線を引き、それをのこぎりで切ったり、ノミでほぞ穴を掘ったりして、骨組となる構造材を加工します。構造材の中でも、柱にはカンナを掛けツルツルにします。もちろん出来あがった時に見える柱だけカンナを掛けるわけですが、昔は和室が多かったので、たくさんの柱をカンナ掛けする必要がありました。今は洋室ばかりで、たまに和室があっても洋風の和室で、柱が見えなかったり、見えていても節のある柱に薄い節の無い板が貼ってあったりと、柱にカンナを掛ける亊はなくなりました。
また、棟梁の腕の見せどころである本格的な床の間もなくなったので、刃物の道具も必要ではあるものの、出番は極端に無くなってしまいました。

腕の良い大工さんは、当然の事ですが、家でちゃんと道具の手入れをするし、休憩中にもノミやカンナを研いでました。腕の悪い大工さんは休憩中はしっかり休憩をし、作業時間中にノミやカンナを研いでました。それだけで腕の良し悪しの目安になったし、刃物を研ぐ亊は良い仕事をする基本でもあります。

ちなみに私は大工ではありませんが、刃物を研ぐ亊が大好きです。なんと言っても、輝きの無い刃をして切れなかった道具が、輝きを取り戻し、力を加える亊なくスッと切れるようになった時の快感は何とも言えません。
ただ、研ぐと言っても、気を抜いていると、刃の幅が一定で無くなったり、角度が変わってしまうと切れ味に左右するので、集中しなければいけません。集中して、切れろ!切れろ!と念じながら砥石の上で刃物を動かす、何も考えず、切れる亊だけを念じて研ぐのです。
朝まだ夜が明けない暗いうちに、シャッ、シャッ、と音を立ててノミを研ぎ、時折ノミを掲げて刃先を確かめつつ、ニヤリと笑う。傍からみると不気味な光景にも見えるかも知れませんが、私にとっては至福の時間です。

私が刃物を研ぐのが好きなのは、親父のDNAかも知れません。親父は祖父から家業の鍛冶屋を受け継ぎました。平たい鉄を真っ赤になるまで焼いて、ひたすら叩く、叩いて叩いて、叩く亊で鉄は強度を増します。そしてそれに刃となる鋼鉄(はがね)を合わせ、元の鉄と刃が一体になるまで叩くのです。
一件包丁は一枚の金属で出来てるように見えますが、実は刃の部分と他の部分の違う鉄2枚で構成されているのです。もちろん、最初から包丁の形に切り出して刃を付けたやり方もありますが、親父は2枚の鉄で作っていました。

輝く刃を持つ刃物は綺麗です。刃物の中でも最高峰と言える日本刀は本当に美しいです。その美しさと同時に恐ろしさも感じます。人間の首など一発で切り落とす日本刀。戦国時代の侍は、そんな殺傷能力を持つ道具を普通に持っていたわけですから、考えると恐ろしい時代だったと思います。日本刀の中でも、斬馬刀と言われる刀や、子連れ狼の拝一刀の持っている胴田抜(どうたぬき)は、胴体を切り落としで田んぼにまで到達するほどの殺傷能力があったと言われている戦場刀で、刃こぼれし難い刀だと言われています。それゆえに普通の刀より、厚く丈夫に作られているので誰でもが扱える代物ではなかったとも言われています。

親父がまだ元気なうちに、俺が死ぬ前に、お前たちに一振ずつ日本刀を打ってやろう。と言ってましたが、あの言葉は冗談だったのでしょうか?そんな物手元には残っていません。でも、親父は確かに日本刀を打てる技術は持っていたと確信しています。
話が日本刀にまで発展してしまいましたが、とにかく刃物を研ぐって気持ちの良いものです。ときどき、大工さんや建具屋さんが、もうこれ以上は研げない、と言うくらい短くなったノミとか使ってるのを見ると、何だかうれしくなってしまいます。

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