見出し画像

普遍的な真理は無い

現代ほど、「普遍」という言葉が空虚に響く時代も無いだろう。

心理学でいえば、長椅子に座らされ、思い付いた言葉を言い続けたり、よく分からないインクの染みを見せられて何を想像したか答えさせられたり、という図はもはや今の時代では意味の無いもの、という説が一般的になっている。

教育は、画一的なものから自主性を重んじるスタイルにシフトしているとはいえ、若者は自由の意味を模索し続け、自分とは何か、答えの出ない大海を彷徨い続けている。
一億総中流時代は終わりを告げ、一部の人が成功する時代になってからというもの、家庭の経済的格差が教育格差を生み、それが更なる経済格差を広げる元にもなっている。

法律も既に時代にそぐわないものと化してしまった。
憲法自体、戦後の輸入物であるにもかかわらず、一言一句変えずに使い続けているうちに世間常識とはかけ離れ、例外的な法律は増える一方だ。

中国の春秋時代に活躍した法家、韓非子は「普遍的な法は無い」と言い切っている。
時代は常に変化しており、それに応じて法も変えなくてはならないからだ。

法とは、国民の生命と財産を守る為のものである。
生命はアメリカの核の傘にかろうじて守られてはいるものの、今怖いのはサイバー戦争ともなると、経済そのものが麻痺してしまい、個人及び法人の財産が守り切れなくなる恐れがある。

そんな時に、この新型コロナウイルス騒ぎである。
個人の持つ力は、想像より大きいのではないか、と感じ始めている。
世界各国と比べて、日本の感染者数の少なさは不気味なほどだ。
国民一人一人が危険を自覚し、回避する行動をとっているからではないだろうか。


今こそ「普遍は存在しない」ことを自覚し、変わらなければならない時だと思う。
変えねばならない事は山ほどある。
個人がそれぞれの場所で問題提起し、連携していく中で、世の中を変えるほどの声になると信じている。


楽しいお勉強カフェを作りたい!