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父が亡くなった話

父が18日に亡くなりました。
70歳でした。
ここ数日の出来事は私の今後の人生の中でも大きな出来事だろうから、記録として書き残します。


3月8日
午前中に知らない電話番号からの電話。
父が通う病院からでした。
その日は色々あったのですが、父が緊急入院になったこと。そして肺がんの転移が酷く、余命は長くて一ヶ月であること。ただしいつ何があってもおかしくない状況であること。を知りました。
この日から、ずっと心につっかえがあるような状態で毎日が苦しかったです。




3月9日

朝一で病院へ行こうと思い早朝に起きるはいいけど、そもそも面会できないのでは?
病院のHPを見ると「面会禁止」の文字。でも諦めがつかず、病院へ問い合わせの電話を。
このご時世なので基本は面会禁止ですが、面会の許可がおり「本当に残り時間がないんだな」と感じながら急いで新幹線で滋賀へ。

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病院へ着くと、割と元気そうに見えた父。泊まりで来たかと思ったようで「え?帰るの?」と言われ後ろ髪引かれましたが、
仕事もあったので2時間ほど面会して東京へ戻りました。

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昨年の2月上旬に会ったのが最後だったので、父がこの1年で結構弱ったことが見た目からも分かって少しショックでした。
それよりもしんどいのは父だとわかってはいたのですが、とにかく心が抉られるような気持ちでした。

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天気も薄暗かったから、余計に心がやられた感じもあった気がします。


3月15日
色々と詰まっていた仕事がひと段落したので、泊まりで滋賀へ。

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ボーッとしていたのか、JRを乗り間違えたのか乗り過ごしたのかわからないけれど、全然違う駅に辿り着いて時間をロスするというハプニング。
「そういうところだよ…」と自分にげんなりする。
2泊3日を予定していましたが、父に会いに行き1泊へ変更することにしました。
父と一緒にいる時間が貴重であるとはわかりながらも、自分自身のメンタルが持たないと感じたからです。
病院の談話室的なところから見えた夕陽がとてもきれいで沁みました。

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この時、父が携帯電話のパスワードがわからなくなってることに気付きます。
会話の中で何かを思い出そうとしても思い出せない、頭が痛いと言いだす。少しボケているのかなとも思ったのですが、右の肺が機能していないと聞いていたので、脳に酸素がいかなくて頭が痛かったのかもしれません。
家賃を払っておいてほしいんだけど、金額がいくらだったか思い出せない。通帳を見ても金額がわからないと言っていて、これは結構まずいかもしれない…と思いました。
ご飯は前回から食べれてないと聞いていたので、ふりかけがあれば食べれるかな?と思って色々買って行ったけれど「食べれないから持って帰って」とのこと。
前回来たときに「甘いパンなら食べれそうだから買っておいて」と頼まれたパンも結局食べられずに置いてありました。
食事が出来ていないことが心配ではありましたが「グミなら食べれそうだから買ってきて」と言われたので、グミを何種類か買っておきました。
この日は3時間くらい病院にいて、その後父の家へ。家まで歩いて15分くらいだったのですが、歩きながら「これが父の暮らす土地の景色なんだな。この景色を見ながら生きてきたんだな。」と思いました。

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部屋を見て、体調を崩しながらもこの家に1人でずっと居たんだなと思うと胸が苦しくなりました。こたつの上にあったルービックキューブ。右脳の活性化にいいと一時期はまっていて、父は全ての面が揃えられのです。最近もやっていたんだな、これを見て思いました。
ぺたんこの布団。湿気っていて少しカビの匂いがする布団。
悲しさや切なさもありながら「私はこれでは眠れない…」と思い、近くのホテルを予約。我ながら薄情だなと思いつつ、この1週間まともに眠れない日々が続いていたので今日くらいはホテルといういつもと違う空間でゆっくり寝よう、と思いました。
でも結局全然眠れず。



3月16日

2時間くらいの睡眠で起きて早々病院へ。
行きのコンビニで、前日買ったグミとは違う味を何種類か買っていきました。
ベッドのシーツ交換中、ベッドの横に座っている父の機嫌がよくないように感じました。今思えば、体調が悪かったんだと思います。
「仕事があるから2時間くらいで今日は帰るね。来週また来るから。」
お父さんを優先にして仕事は休んでいいからって言われていたけれど、自分が辛いから仕事を理由にして帰ることにしました。
ベッドで横になった父と、家族の話や友人の話をしたり、昔話をしたりしました。
それまではカメラを向けるとポーズをとってくれていた父に、この日は「もう写真はええよ」と言われました。元気のない自分を撮られたくなかったのかな。
でも、こっそりカメラで動画を撮ってました。父の話している姿を撮っておきたかったから。今となっては撮っておいて本当によかったなって思ってます。
実はこの日、父の目が茶色く見えたんです。
亡くなった祖父のお見舞いで。祖父の目の色が濁って見えて「もう長くないかも」と思った日の夜に祖父が亡くなったから、それを思い出して少し嫌な予感というか、引っかかる感じがして。
後ろ髪引かれながらも「また来週くるね。」と伝えて帰りました。
父は無言で手をあげて「またな」という感じでした。今思えば結構しんどかったんだろうな。

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帰りのタクシーの中も新幹線の中もとにかく心が抉られるでしんどくて。どんよりとした天気がそれを増長させた感じもありました。
私なんかよりも父の方がしんどいに決まっているのだけれど、とにかく辛かったけれど、仕事をしているとその辛さが忘れられる感覚があって
この日仕事を選んだことは、振り返ってみても間違っていなかったなと思います。
帰り道、桜が咲いていることに気付きました。春だな〜と思いました。

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仕事をしたことで気分の切り替えができたこと。
あと自分の家でゆっくりお風呂に入って自分のベッドでちゃんと眠れたこと。(母に睡眠導入剤を分けてもらって、8時間きっちり寝ました。)
これがなかったらもっとしんどかっただろうなと思う。だからこの選択は間違ってなかった、改めてそう思います。そう思いたいだけかもしれないけれど。
寝る前の母との会話。
「お父さんの目の色が気になったんだよね。」
『でもお父さん元々目の色茶色いよね?』
「うーんそうなんだけどね…。」
『まぁ来週と言わず、会いに行けるときになるべく行ってあげなね。」
「うん、そうする。」
そんな会話をしてこの日は寝ました。


3月17日
久々にしっかり眠れて、すっきりとした目覚めで気分が良かったです。
父が携帯電話を開けないので、連絡方法は電話をかけるのみ、
起きて白湯を飲んで、コーヒーを飲みながら父へ電話。3回かけても出ない。
「出ないな」
と思ったら、同じタイミングで病院から電話がかかってきていたようで、不在着信が。
かけなおしたところ、呼吸状態が酷く窒息しかけているのでモルヒネを打つこと、今日か明日が山場になるからできれば付き添ってあげてほしいとのことでした。
母にそれを伝えて、急いで身支度をしようとしたものの、気が動転していて何を用意していいかわからない。
「服とか下着は向こうで買えばいいじゃない」
と母が言ってくれたので「あ、そうか」と、最低限の装備で家を飛び出ました。
とにかく間に合ってくれという気持ちでした。
新幹線に乗っていると、病院から「個室へ移動になります」と電話。病院からの電話が来るたびに、父が亡くなったんじゃないかと不安で電話に出るのが怖い。
駅について、タクシーに乗って、病院へ向かいながら考えることはとにかく「間に合いますように」。
病院着いて、ナースセンターで個室の部屋番号確認する時間でさえ「早くしてくれ!」と思ったし(もちろん口に出しては言ってない)
部屋番号がわかりづらすぎて「もっとわかりやすくしてくれ!」と思ったし、部屋の前で「あー」という父の声が混じった呼吸音が聞こえた時はすごくほっとしたし、父の顔を見た時は思わず泣いた。
父の彼女さんが三重県から既に駆けつけてくれていて(病院から電話がきて、すぐ私から連絡した)
まだ父も意識がはっきりあったので「お父さん!ますみだよ!わかる?」と声をかけると、うんうんと頷きながら反応してくれた。
これが16:00くらいのこと。
父の手を握り、なるべく父に声をかけ続ける。
口を開けて苦しそうに全身で呼吸をしている父。気を抜くと泣いてしまう。
時々耳元で声をかける。うんうんと父がうなずく。
その後、点滴をしようと看護師さんが来たものの血管がなかなか捉えられないのか、徐々にベテラン看護師へと点滴のバトンが受け渡され、数名がかりで父に点滴を刺そうと奮闘。見てるのがちょっとしんどかったので、その間に談話室でおにぎりを食べました。この日初めての食事は喉をなかなか通りませんでした。長い一日になるかもしれないと思い、レッドブルを飲みました。夕陽がとてもきれいでした。

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父は何かを話してくれようとしてもどの言葉も「あー」になってしまって言葉が聞き取れない状態でした。思い返せばこの日はもう父とは会話できてなかったんだな。
面会は20:00まで、それ以降の付き添いは1名のみ。
父の彼女さんは前日に目の手術をしていて、片目が充血した状態で車を3時間かけて運転して父に会いに来てくれていたので
流石にそんな彼女さんを病院の外に出すわけにはいかないと思い、私は近くのホテルに泊まることに。
「何かあったら電話ください。すぐ来るので。」そう伝えて20:00に病院を出る。ホテルへ歩きながら、涙が止まらない。
コンビニでご飯を買って、ホテルへ。
お腹いっぱいにしたら眠れるかなと思い、湯船に軽く浸かって(頭洗ってる最中に電話が来たら困るから、浸かることしかできなかった)
お腹がすいてもいないのにカップ焼きそばとおにぎりを食べて横になる。全然眠れない。涙も止まらない。
うとうとしてきたな、というところで彼女さんから電話が来る。
「呼吸が少し荒くなってきたから、看護師さんが娘さんにも来てもらってくださいって言ってるの」
急いで準備して、ホテルの人にタクシーを呼んでもらう。23:00。
深夜だったらタクシーが動いてなかったから、この時間でよかったと思った。
病室に着いたら、さっきよりも苦しそうな父。
彼女さんから
「さっき少しだけ話したの。話ができたの。『ありがとな』って言うから泣いてしまって。そしたら『泣くな!いつでも笑顔や!』って。」
と聞く。
彼女さんは滋賀で1人で住む父を支えてくれた人で、本当にありがたい人で、その彼女さんにちゃんとありがとうって父が伝えられたことに単純に良かったなと思った。
正直言えば私も話したかった。最後にちゃんと話したかったけれど、私の「ありがとう」と「大好き」はちゃんと父の耳元え伝えていたから、それよりも大事な会話を2人がしてくれていたことが嬉しかった。
そこからは苦しそうな状態が少し続いて、モルヒネを追加で打ってもらって。それまではすごい力で手を握ってきていて、とにかく苦しかったのかなって。


3月18日
薬が効いてきて、楽になったのか手を握る力も弱まって。
だんだん瞬きが少なくなって「目が乾いちゃうよ〜」なんてまぶたを閉じさせてあげたりして。
「お父さん」と耳元で声をかけるとはっと目を覚ましたような顔で反応してくれていたけど、それもだんだんなくなって。顔色も変わってきて。
ちょっとずつ終わりが近付いているんだなというのは感じた。
彼女さんとずっと父の話をした。
「ますみちゃんの自慢ばっかりだったんよ。ますみを20歳まで育てたけど、育てたんじゃなくて俺が育てられたんだ、ってよく言ってたよ。
あと生徒会長になった時は本当に大したもんだと思ったし、誇りだと思ったってよく言ってたわ。」
とおしえてもらった。私にはそんなこと言ってきたことなかったから、父がそんなこと思ってたんだなってちょっとびっくりした。
「私は父と離れて暮らしてから父に対して反抗期が来てしまったから、全然連絡返さない時期とかもあったし、反抗的な態度とった時もあったし
今思い返すと、お父さんすごい悲しかっただろうし寂しかったんじゃないかなって思って申し訳なくて。」
なんて話をしていたら急に心拍が30を切って、0に。
あまりにも急すぎたけれど、父の顔がすごく穏やかで、ああやっと開放されたんだなって思った。
彼女さんは気が動転したのか父を揺らしながら「嘘でしょ!」「笑顔でって言うから泣くの我慢してたのに!嘘でしょ!いやや!」と泣き叫んでいて、あぁなんだかドラマみたいだなって。
看護師さんたちがかけつけたけれど、もう心拍は完全に止まっていて、さっきまで体を揺らして呼吸していたのが嘘みたいにお父さんが動かなくなって
胸元に耳をあてても何も聞こえなくなって、死んじゃったんだと言う悲しさよりは、どちらかというと「やっと楽になったんだね」という気持ちが強くて、少し安堵した自分がいたように感じる。
これが1:20くらい。
そこからは現実的な話で、霊安室に父がいられる時間が何時までで、葬儀場をどうするか決めなきゃいけないとか、父の体をきれいにするから外で待っててくださいだとか、病室をあと10分で片付けてくださいだとか。あれよあれよという間に父は霊安室へ運ばれて、私と彼女さんは病室の荷物を持って何もなかったかのように病院を出た。
父の部屋に2人で行って、溜まっていたゴミを出して。
「なんか嘘みたい。こんなに呆気なく人って死ぬん。私明日から何を生きがいに生きていけばいいの。」
という彼女さんになんと声をかけていいかわからず
「そんなこと言ったらお父さんに怒られますよ!頑張って生きていきましょ!」
くらいしか言えなかったな。
彼女さんは車でまた三重県まで帰って行って、私はホテルの部屋に戻って。それが3:30。
部屋で役所の連絡先とか調べて、身の回りの人への連絡を入れて。
父がもう苦しまなくていいんだと思うとほっとしたから「今日は眠れる気がする」と思ったものの、結局眠れず2時間くらい寝たところで朝を迎える。
役所への連絡を済ませて、ホテルを出て父の家へ。片付けをしながら、役所の人が来るのを待つ。家の契約書類を探したり、印鑑を探したり。家の解約の連絡をして、5月までの家賃を払わないと行けないと知って「お金がかかるなぁ」と思ったり。
役所の方が来て、書類を書いて、その後父の自転車を借りて病院へ。父の診察券やら何やらを受け取り、霊安室から火葬場の人への父の受け渡しが1時間半後だからまた改めて来てくださいと言われ、家に戻る。
部屋を片付けていると父の昔の手帳が出てくる。1996年の手帳。
開いてみると、とにかく色々なことが書き込まれていたのだけれど、その中の一つに
「麻純の為に生きる!」
と書いてあって、思わず泣いてしまった。

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きっと父にとって私は全てだったんだな。
私がいなかったら仕事だってしたいことできただろうし、彼女作ったり再婚したりもしやすかっただろうし、とにかく好きに生きれただろうけど
私が手を離れる時までは、本当に私のために生きてくれていたんだろうなと思う。
前にも書いた気がするけれど、父と離れて暮らすのが決まった日、専門学校で授業を受けていた私に父は電話をしてきて
「もう一緒に暮らせないから、ママのとこに行け。」
と泣きながら言った。私も電話越しに泣いた。
その頃父の仕事がうまくいってなくて、家にお金がなくて。父は母にお金を借りようとしたけれど「お金を貸せば一時的にはなんとかなるかもしれないけど今後どうするの?それならうちで引き取ります。」という話になったと後で聞いた。
父は悔しかったんだと思う。
とにかく大変な思いをして育ててきた私を、もうある程度まで育った私を母に渡すのが悔しかったんだろうな。
母と住み始めてからしばらくは「あんな女」とか「お前を捨てた女」とか言ってて、それを聞くのが嫌だったんだけど、今思えば悔しさの現れで本心ではないのがよくわかる。
父の手帳は何冊も出てきて、これは全部持って帰ろうと、持って帰るもの箱に一通り入れた。
それからまた病院へ行って、霊安室から父を見送った。棺に入れられた父は穏やかな顔で、仏さまみたいだった。
淋しいなって思ったけど、悲しさは不思議となかった。
病院を出たのが14:15。
片付けも疲れたし、父の好きだった琵琶湖を見に行こうと自転車で琵琶湖へ。

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途中で桜の木を見つけ、春を感じる。気持ちがいい。

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天気がとにかくよくて、青空と琵琶湖の組み合わせは最高に癒された。
父が琵琶湖に住み始めたのは10年近く前だったと思うけど、当時体調を崩して入院したのが今回も入院していた病院で
その時病院から見えた夕陽があまりにも綺麗で、滋賀に住もうと決めたんだと言っていた。
父が好きだった夕陽が見たいと思って、一度家に戻って、片付けをある程度終わらせて、また琵琶湖へ行くことに決めた。
自分の荷物もある程度まとめた状態で、部屋にあったたばことライターを持って、また琵琶湖へ出発。
途中コンビニで父の好きだったお酒とおつまみとジャスミンティーを買った。

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ジャスミンティーは父の部屋から出てきたレシートにいつもジャスミンティーが入っていたから好きだったと知った。
私の分の飲み物も買った。
これはお父さんの奢りだよな、と思って父の財布からお金を出した。
琵琶湖へ着いて、陽が落ちていくのを眺めた。
父の好きだったものと一緒に、父の好きだった景色を楽しんだ。

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本当だったらこれを父と一緒にできたらよかったんだけど、私はそれをしてこなかったんだと気付いた。ただしてこなかった、それだけのことだった。一番大切なひとをちゃんと大切にすること。当たり前のことなのになんでできなかったんだろう。そんなことを考えながら泣いた。
父の旧友で私が連絡先を知っている人が2人いる。
2人とも父とは10代・20代からの仲で、父を「さくら」と呼び「俺はますみの父親みたいなもんだからな」と言ってくれるおじさん。2人にも電話して、父が亡くなったことを伝えた。

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「でも俺もさくらも好き勝手に生きた人生だったからな!充分楽しんだよな!」
と笑ったおじさんと
「寂しくなるなぁ」
と電話越しに泣いてたおじさん。
友達が少ない父だったけれど、その数少ない友達からはしっかり愛されていたんじゃないかな。
夕陽を見ながらおじさんへの報告を済ませて、夕陽が沈むのを見届けた。

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記念にセルフタイマーしたけど、全然ちゃんと撮れてなくて笑える。

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琵琶湖は風が強かったけど、波の音が気持ちよくて最高だったな。
自分の荷物を持って、父の部屋を出た。18:30。
父の葬儀はなし。火葬だけで済ませる予定だったので私1人でもよかったのだけど、母が「流石に火葬で1人っきりにはできない」と喪服を持って滋賀まで来てくれることに。彦根駅の近くのホテルを予約したので、バスに乗って向かった。
ホテルについてまずしたのはお風呂にゆっくり入ること。
前日は頭も洗えなかったので、時間を気にせずお風呂に入った。最高だった。
お風呂の後、母を駅まで迎えに行くまで30分あったので、ベッドで横になって寝た。
ここ最近眠れない日が続いているせいか、ちょっとした仮眠程度の眠りでも睡眠の深さが異常に深い感じがある。
21:00、母を迎えに駅へ。
コンビニでご飯を買ってホテルへ。
部屋でご飯を食べながら、滋賀へ来てからの出来事を一通り話した。
食べるだけ食べて「今日こそぐっすり眠れるはず!」と、お風呂へ入る母を見届けでベッドへ。
22:30に多分寝た。
めちゃめちゃ眠れるだろうと期待していたのだけれど、実際は0:00に目が覚めてしまう。


3月19日
寝ようとしても眠れない。
隣のベッドで母は爆睡。睡眠導入剤は余ってないかなと思い机の上を見るも(母は薬がないと眠れないので)、持ってきた薬は全て飲んでしまった様子。
イヤホンをしながら眠れそうな音楽を聴くものの、全然眠れそうにない。
結局そこから4:00くらいまでは眠れず、8:00起床。
いつになったら眠れるんだよ、と思いながら身支度。眠れてない朝の身支度の体の重さは異常だと思う。
朝食を食べて、喪服を着て、ホテルを出発する。9:40。
火葬場は山の上にあるので、タクシーで行くことに。タクシーを呼んで、来るのに15分かかるとのこと。
「都会の感覚で来ちゃいけないね。」と母と話す。
タクシーが来て、運転手さんがひたすら自分の話をしてきてうんざりしながら火葬場へ到着。
なぜお金を払って知らないおじさんの自慢話を聞かないといけないのか、しかも喪服着てて火葬場行く人に自分の自慢話する?と思いながらもへらへら相槌をうってしまうよね、と母と話す。無駄な気遣いに遺伝子を感じる。
10:30、父の棺にタバコやコーヒーを入れてあげて最期のお別れ。穏やかな顔。
母も父と久々のご対面。私がこの2人が揃うのを見るのはこれが3回目。これで最後になるけど。
「いい顔してるね」と母。
何度も言うけど、父の安らかなおだやかな表情が悲しさを全く感じさせないんだと思う。
行ってらっしゃい、という気持ちで見送る。
収骨が13:00だったので、またタクシーを呼んで彦根駅へ。母は予定があって先に東京へ戻らなければならなかったので、彦根駅で2人でお茶して、母を見送って私はまた火葬場へ。
火葬場へ向かうまでまだ時間があったので、彦根駅の周りを少し歩いた。
父と行った父のお気に入りの居酒屋。
47都道府県ツアーで滋賀県に来た時は、私は大津に泊まっていたので電車で彦根まで会いに来たな〜なんてことも思い出したりした。その時一緒に行った居酒屋もまだあったし、帰り際「もう一軒行こう」とスナックに誘われたけど断ったことも思い出した。
のちに母が「あんたのこと自慢したくて連れ回したかったんだと思うよ」と言っていて、つれない娘でごめんねって思った。

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父と過ごした時間を思い出しながら、火葬場へまた向かった。今回の運転手さんは寡黙な人だったのでありがたかった。
タクシーを呼ぶのも時間がかかるから、収骨している間も待ってもらうことにした。
骨になった父と対面。思ったよりも骨がしっかりと残っていてびっくりした。抗がん剤治療をしていたから、勝手なイメージで骨とかスカスカなんじゃないかなと思っていたけれど、太い骨がしっかり残っていた。
小さな小さな骨壺に、ちょっとずつ骨を入れた。もうこの骨に父は宿っていないから、ほんとうにちょっとで充分だと思った。収骨自体は5分もかからなかった気がする。小さな骨壺と一緒に、タクシーに乗った。
今日は晴れていてとても暖かくて、なんなら暑いくらいで「THE・快晴」という感じで、帰りのタクシーから見える広くて青い空は特に気持ちが良かった。
途中いろんなことを思い出して一瞬泣いてしまったけれど、父もきっと晴れやかな気持ちだろうと思うと、心がスッとした。し、笑顔になれた。
14:15、彦根駅到着。
新幹線のチケットを買って、JRヘ乗り込む。米原駅で喪服から普段着へ着替える。
父が入院した時にかぶっていたchampionの茶色のキャップ。たまたま私が滋賀へ向かった時の服装がベージュのフーディーに茶系のチェックのパンツでコーディネートにぴったりだったので、そのキャップはありがたく拝借してきたから被って帰った。
帰りの新幹線でも少しだけ泣いたけど、でも晴れやかな気持ちだった。
ここ最近新幹線に乗る時はいつも「間に合え!」って思いながら乗っていたり、どんよりとした気持ちで乗ったりしていたから、こんなにリラックスして乗れるなんて最高だなと思った。リクライニングも気持ちよく倒せた。
気付いたらちょっと寝ていたのだけど、起きたら車内販売がちょうど横を通ったので、アイスコーヒーとカッチカチのスジャータのアイス(うまい)を買った。

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「これはお父さんの奢りでいいよね」と思って、お父さんのお財布からお金を出した。お父さんの奢りのアイスとコーヒーは最高に美味しかった。
16:00、新幹線下車。
17:00、最寄駅到着。2泊しかしてないのに、すごい長旅をしてきたような気持ちで駅の改札を出た。見慣れた景色にほっとする。
自分の自転車で家に帰る。サドルに座った瞬間にお尻の痛さに気付く、お父さんの自転車(クロスバイク)が原因だ。あれはおじさんが乗るもんじゃない、よく乗ってたなと改めて思いながら帰った。

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2日振りの家なのに、すごい久々みたいな感覚。家は落ち着くな。
おじいちゃんが残してくれたおかげで私には帰れる家があるんだと、改めておじいちゃんに感謝した。
家ではモモちゃん(犬)が荒ぶっていた。昨晩は母が帰らず、私も数日帰らずで、家に1人の時間が多かった上に今日は散歩に行ってないからだ。
疲れ果ててへとへとだけれど、小さな骨壺に入った父を机に出して、着替えて、散歩に行った。
夕陽を見ながら「東京の夕陽も悪くないよ、空狭いけど」と思った。でも、琵琶湖の夕陽の方が格段に綺麗だったね。
散歩の後、コンビニで父の写真を印刷して、写真立てを買ってきて、骨壺の横に置いた。
父の部屋から持って帰ってきた父の書いた絵も置いた。
お花は母が買ってきてくれて、立派な父の居場所が我が家にできた。父はお墓がないので、今後遺骨をどうしようかな?とは思っています。個人的には自分の部屋に置いといてもいいかなって思ってるんだけど、お線香をあげたいって言われるとお墓みたいにふらっと会いに行ける場所があった方がいいのかな?って思ったりもするし。まぁ急がないから少し考えようと思う。

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とにかく今日はゆっくりしようとのんびりお風呂に入って、でもここ数日のことを書き記しておきたくて、今に至ります。
流石に色々ありすぎて書き起こすだけでもだいぶ時間がかかってしまった。


本当に長い3日間だった。
父が亡くなってからの方が私の心は晴れやかではあって、それは死んで欲しかったとかそんなことではなくて、ずっと苦しそうな父を見ているのは本当にしんどかったし(父が一番しんどいというのはもちろんわかっている)いついなくなってしまうかわからない恐怖を抱えているしんどさ、とにかく心が休まらない時間がずっと続いているような感覚で。
父は1人でも楽しく生きていたこと、私に対して自分の人生を楽しんでほしいと思っていたこと、私のことを誇りに思ってくれていたこと、それが知れてよかったし、何より最期に立ち会えたことが本当によかった。これは私にとっては最上級の親孝行だったと思うし、父の最上級の娘孝行でもあったと思う。泣きながらだけど「ありがとう」と「大好き」を伝えられて、最期を見届けたことで悔いは一切なくなった。

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とは言っても「もしできるならしたかったこと」はいっぱい出てくる。それを世間では悔いというのかもしれないけど、ここはあえて違うものだとしておきたい。もっとこうしてあげたかったとか、あれを一緒にしたかったとか、そんな私の「もしできるならしたかったこと」はきっとこれからもたくさん出てくると思う。月に1回お父さんに会いに行きたい、毎月何か贈ってあげたい、東京に招待して横浜に連れて行ってあげたい、これは2021年のやりたいことリストに入れていたこと。もう叶わないことではあるけど、こんな私の気持ちでさえも大事にしてこれからも父を思い出しながら生きていこうと思う。

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昨年、自分の誕生日を迎えた時に父に手紙を送った。
・お父さんの娘で良かったと思っていること
・「お前は普通の家の子じゃないんだ」と育てられたのがとても嫌だったけれど、結果的にそのお陰で自分ができることが増えたこと
・この歳になってわかる子供を育てる大変さ(私は子供はいないけど、私が生まれた時の父は35歳だったから経済的な意味や人生観的な意味で)
・父が私を手放した時とても辛かったのではないかということ
・そしてその時に反抗期を迎えて連絡をしなかったことへの謝罪
・父のお陰で今の私がいるということ
・あと父に何回会えるか考えてしまう、もっと沢山会いたいから元気で居て欲しいということ
・もっと会いに行けるようにしたいと思っていること
そんなようなことを手紙に書いた。私が伝えたかったことを全部書いた手紙だった。
部屋の片付けをしていたら、こたつの机の上にこの手紙が置いてあった。去年の7月に送った手紙。何度も読んでくれていたのだろうか。それとも7月からそこにおきっぱなしだったんだろうか。答えはもうわかりようがないけれど、父がちゃんと読んでくれたことだけはわかった。この手紙を送った上での今回の数日間だったから、私は悔いを残さずに父を見送ることができたんだと思う。

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今回強く思ったことがある。
少し前まで、自分が欲しいと思ったものを悩まずに買えるくらいの経済力が欲しいと思っていた。お金はツールだけど、お金で大体のことは解決できるし、何をするにもお金がかかるという認識だった。
今回の父の件で思ったのは、大切な人と過ごす大切な時間のために、お金は必要だということ。私の父は滋賀に住んでいたので、会いに行くにもそれなりにお金がかかる。新幹線の指定席。往復で約2万6千円。
車社会の土地ではタクシーに乗らないと移動はできない。宿泊するならホテル代もかかるし、ご飯を食べるのも、お土産を買うのも当たり前にお金がかかる。父の入院費もそうだし、父の下着やパジャマもそう。何にするにもお金がかかる。
残りわずかな時間しかないって時に、お金を理由に断念しないといけないことがあったらしんどすぎる。幸い、今回は母がお金を出してくれて父になるべく会いに行けたからよかった。でももしそれがなかったら?
自分にとって大切な人と、大切な時間を最も楽しく過ごすため、そういうためにお金は必要だと思った。ちゃんと稼げる自分でありたい、そう思った。


長い長い数日間がやっと終わる。
今日こそは、薬を飲んでしっかり寝る。書きたかったことも書いた。胸のつっかえもない。これで明日からまた頑張れる。
きっと父を思い出してこれからも泣くと思う。でもそれと同じくらい、父を思い出して笑うこともあると思う。それくらい、父はいろんな思い出や経験を私に残してくれた。
私は父のことをずっと忘れない。忘れたくても忘れられないと思う。だから、父は私の中でこれから先も生き続けるんだろうな。

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お父さん、ありがとう。もし輪廻転生があるとして、また違う形で出会えるとしたら、今度は他人がいいよね。あまりにも破天荒すぎて身内だと笑えないことも多かったけど、きっと他人なら心から楽しめると思うからね。きっと他人だったとしても仲良くはなれると思う。お父さんは手先はめちゃめちゃ器用で、何をしても卒なくこなしたし、とにかく勉強家で本もたくさん読むし知識も豊富で、努力家で、人が好きで。でも自分の感情の伝え方や感情の消化の仕方が下手くそなところが人としては不器用で、横暴なのに謎に繊細で、だから友達は少なかったけどさ、結構優しくていいやつだからね。
そんな日が来るのも楽しみにしつつ、ずっとずっと忘れないからね。

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