映画「ジョーカー」のカタルシスの正体は何か
「ジョーカー」という映画は、映画としての素晴らしさを多くの人が認めつつも、私の周りでは必ずしもカタルシスを得られないという人が多数派でした。下記は、そのひとりに、「なぜ中本はカタルシスを得たのか」という問いをもらっての回答です。
映画終盤の重要なシーンに触れているため、すでに映画を観た方のみお読みください。
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どうしてカタルシスを得たのか? 考えてみました。
この映画はアーサーがジョーカーという悪のヒーローになる映画で、そのヒーロー性がカタルシスを与えたのかと思っていましたが、よく思い返すとそこではないみたいです。
私はバットマンの物語に疎いですが、ジョーカーが悪のヒーロー、ヴィランというんですっけ? であることは知っています。おそらく観客はほとんど知っています。
だから、この映画は「どうなるんだ?」という要素は少なくて、ジョーカーになることはあらかじめわかっている。
どのシーンであっても、アーサーはジョーカーになるんだろ、と思ってみんな観ている。私もです。
ところが、思い返すと、なかなか状態がわからなくてハラハラするものがひとつあります。
それは、アーサー自身の、コメディアンとしての自己把握です。殺人者となったあともアーサーのコメディアン志望は変わりません。
尊敬する司会者にテレビに呼ばれることになるのは後半ですが、アーサーは番組で登場するときのために部屋で練習をしています。
この彼を観ているとき、私はハラハラしていたように思います。つまり、ジョーカーとしての自覚がないまま彼はテレビに出て、「笑い者にされる」ことのうちに、その希望を満足させてしまうのではないかと。
アーサーは、様々な不幸にさらされていますが、コメディアン志望は捨てない人物として描かれています。ですから、なおさら不安を覚えるのです。
実際、司会者との対立は、ウェイン家との対立に比べると、ぎりぎりまではっきりしないように描かれています。
楽屋でのアーサーはすでにジョーカーになっているはずですが、彼が「ジョーカー」と名乗ることを許容する司会者は、理解者であるようにも見えるのです。
なので、テレビ番組でアーサーがその司会者の蔑視を言葉にして、ジョーカーであることを明確にするとき、そこまでの場面のアーサーの行動が、ジョーカーとしての自己理解につながっていることが一気に伝わってきて、そこがカタルシスになった。
おそらくこの世界には司会者に笑い者にされて、それでテレビに出て喜んでしまう半端なアーサー候補がたくさんいます。しかし、アーサーただ一人は、さまざまな悲劇に翻弄された結果、そうではなかった。眼が覚めた。希望を捨てた。理解されない自分を受け入れた。自己受容と自己理解の物語であることで、最悪の結末である「笑われて喜ぶ」からもっとも遠ざかった。そういう爽快さがあると思ったのです。
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