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生きている証

しばらく旅に出ていて久しぶりの投稿になってしまった。

世間の状況が状況なだけに「旅に出る」という言葉を使いにくくなったなと思う。それでもこのnoteは何でも包み隠さず言える唯一の場所だから正直に言った。

暮らしている湖の平坦な景色とは全く違う、豪快な大自然がある場所へ久しぶりに出かけた。そこで生きている証を見つけた。

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自分にとっての生きている証は「いま生きていることが楽しい嬉しい」という気持ちを抱くことにある。

生きていることが楽しくなくて、悲しくて、真っ白な時もよくある。そういう時はあまり生きている感じがしない。ただただ時間ばかりが過ぎて流れていってしまう。過ぎていく時間を追いかけようともしないで、死んだ魚みたいに曇った目をしている。ヤル気がない。

単純に楽しい嬉しいという気持ちを心の底から抱くことは、わたしにとっての生きている証だ。

なんだ簡単じゃないかと思うかもしれないけれど「心の底から」というのが結構ミソで、心の底から本気で楽しいと思うことは意外に少ない。

そういう意味で「自然散策」は心の底から楽しめる。

自然散策に選ぶ場所はだいたいが綺麗な湧水地であることが多い。水が好きだ。透き通った水が森の中を流れている風景は何よりも心躍る(耐えきれないほどの空腹時に、お茶碗山盛りの炊き立てご飯を見せられたら揺らぐかもしれない)。

森を歩くと緑が次々に目に入り込んでくる。特に新緑の季節は緑が一段と鮮やかでいい。本格的な夏前が最も綺麗な色をしている。

人間という借り物をした別の生き物になった気分で散策をする。足から感じる土、落ち葉、大地、奇跡。足を伝って全身に振動がやってくる。家や建物のなかにいても感じられないものだ。一日の終わりに「生きている」と思う。前世はサルか、シカか、クマか、何か動物だったかもしれない。

生きている証を見つけられる場所はいい。大切な場所だ。生きている証、どんなところで拾っていますか、見つけていますか。

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写真 2020-07-23 10 40 31

今回は夫と旅に出た。たくさん歩く旅にしたから、多いときで1日2万歩を超えた。そんな日が何日か続いた。

旅の最終日で「もう歩けない」と感じたのは初めてだったかもしれない。これまで遊んでいる時にカフェで一休みする、という概念がなくてひたすらGOGOしていた気がする。小さい頃からたくさん運動させてくれた両親に感謝する。体格は小さいけど体力はすごくある。

それが今回は最終日「休もう」となった。自分も休みたくなるんだなというのは新しい発見だった。


そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。