私の幸せは誰かの幸せにならない
三連休で庭仕事がぐんと進んだ。
暖かくなってきて植物の成長スピードが倍増、いや、何十倍増しになっている。とめどなく伸びてくる雑草を刈ったり、タケノコを掘る必要がある。
気温が高くなれば私たちの生活も活気づいてくるような気がするけれど、それは植物も同じらしい。
そんなわけで春になると庭仕事が忙しくなる。忙しいんだけれども、なんだかとても楽しくて幸せだ。
「連休中、庭仕事ができて幸せだったね」夫とこんな会話をした。
改めて「幸せ」って自分の感覚でしか分からないもんだと強く思った。だって、庭仕事は私にとっては幸せだったけど、違う人が経験したら全然幸せと思わなかったかもしれないから。
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もしかしたら「他者の幸せ」ほど、当てにならないものはないのかもしれない。
そもそも「幸せ」ってどんな要素で出来上がっているんだろう?って考えたとき、要素も個人で選び取っているんだから更に複雑になると思った。
ほかの人の意見も聞いてみたいけど、とりあえず自分の場合はどんな要素が「幸せ」を決めているのか考えてみた。
・進めたいと思っていたことが進んだ(目標達成)
・夫と長時間過ごせた(パートナーシップ)
・タケノコというご褒美があった(報酬)
・今後どんな庭を作りたいかアイデアが湧いた(夢)
・理想の庭を作るための長期ビジョンができた(計画)
・体を動かしてすっきりした(運動)
・一日元気に過ごせた(健康)
これを書いていて思い出したのは、マレーの欲求リストだ。マレーはアメリカの心理学者で、体と心が求める欲望を40個に細分化した人物。
日本ではマレーの欲望リストをさらに細かく59種類に分けた研究者もいる。(荻野氏と斎藤氏)
ちなみに私はマレーの欲求リストで、達成欲と認知欲が強いことが分かった。頷ける。
新しい知識を吸収するのが好きだし、資格試験みたいな勉強も好き。そして何より、前に進んでいる感覚を常に求めていて、目標を達成したときの喜びを感じるために生きてるような気がする。庭仕事もそうなんだろうなあ。
結局人それぞれの欲望は千差万別に違うわけで、心が満たされる要素も異なるのだ。
そりゃあ「私の幸せ」が「誰かの幸せ」になるはずがない。
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他者の「幸せ」なんて気にしなくていいんだと思う。だって自分の幸せは自分でしか見つけることができないから。
「しあわせ~(smile)」
って感じることに多くの時間を費やせばいい、ただそれだけ。他者に惑わされず、自分の気持ちを真っすぐに読み取ってあげる素直さも忘れずにいたい。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。