晩冬の堆肥づくり
ヤギの糞尿が付いた稲わらは、混ぜて発酵させれば堆肥になるという。本にもそう書いてあるし、夫も同じことを言っている。
良く考えれば昔の日本では、人間の排泄物もこのようにして活用されていたのだから、材料がヤギの物になっても変わらず使えるんだろう。
「あしたまとめて仕込んでみようよ」
夫がそういうので、とりあえずOKの返事をした。ふたりで初めての堆肥作りが始まった。
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ヤギから出る排泄物はこれまで、毎日同じところにポイポイ捨てていた。それが今では山のようになっている(ヤギが草食動物なおかげで変な臭いはしない)。これらが全部堆肥になったら、と思うとなんだかちょっと贅沢な気分。
要らないものが要るものになる瞬間は、どんなときでも嬉しい。まだ出来上がってもいない、かつ成功するかも分からない堆肥のことを想像して、目の前の作業が楽しくなる。
「僕が少しずつそっちに移動させるから、さきはとりあえず踏み固めて?」
夫に指示されつつも、実際にやったことはとてもシンプルだった。
これまで溜めたゴミ(に見えるもの)の上を歩きながらえっさえっさと踏み固めて、空気を抜いて、たまに米糠を混ぜて、水を撒いて、という具合。これを延々と繰り返す。
作業中、ヤギたちが私たちのことをじっと見つめていた。ときどき邪魔をしてくるあたりがお茶目で可愛い(でも邪魔)。
砂埃がすごくて、マスクを付けての作業になった。後から気が付いたことだけど、鼻の穴が真っ黒になってた。鼻をかんだティッシュも黒くなった。靴も一旦洗わないとダメな状態になった。
作業は半日いっぱいかけて終わった。
堆肥は、秋頃には完成するらしい。半年以上先のことになる。
いま、世界はたくさんのものに溢れていて、お金を出せば「一瞬で」欲しいものが大体手に入る時代だと思う。そんななか、手に入るまで「半年も待つ」機会は滅多にないことだろう。
「待つ時間に触れること」は、珍しくなっているように感じる。
待つ時間が長いと、感謝したくなる。
今回仕込んだ堆肥はうまく出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。半年以上の不安と期待にさらされて、その時が来たら私はいろいろなことに感謝すると思う。
一緒に作業した夫に、ヤギに、気候に、自然界の摂理に。
首を長くして待つことで、ちょっとだけ謙虚になれる気がするね。
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田舎暮らしの先人たちは、当たり前のように堆肥作りをこなしているんだろう。すごいなあ。
ひよっこの自分にとっては全部が新しいことばかりに、「何をそんなことでわざわざ哲学しているんだ」って言われそう。でも、一つ一つの出来事を咀嚼し、感じたことを積み上げていく作業が好きだから。
だから今日もこうやって綴っている。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。