『平和への希求』 その4

★過去の歴史の地続き性・同一性
 わたくしには、戦前と戦後の隔絶よりも、その地続き性・同一性のほうが、よりリアリティを感じるに至りました。
 その最も大きな根拠は、「過去の歴史に対する心底からの反省の欠如」という事実です。歴代の首相や閣僚が相次いで、侵略戦争の事実を認めず、明確な謝罪と償いを果たしていないという日本の姿に、わたくしは、過去に罪を犯した事実を知った時以上に、大きな失望感と憤りをおぼえました。
 勿論、日本政府とて、国家間の賠償問題には取り組んではきていますが、しかし、明確に罪を認めた上での謝罪という事ではなく、「迷惑をかけて済まなかった」という意味合いでの、如何にも日本的な責任回避の観念と意識を宿した不誠実なものです。それに、実際に多くの命と健康と生活を奪った他国の民衆に対しては、謝罪はおろか、そもそも罪の意識すら認めることができません。
 この政府の不誠実な対応は、教育問題でも、顕著です。ドイツがナチスの歴史を詳細に教え、反戦平和の意識を育成することに真剣なことに比して、わが国の歴史教育は、ほとんど現代史に触れることがありません。教科書にも、天皇制軍国主義の植民地政策と侵略戦争の実態を詳細に伝える記事が著しく欠けています。原爆の写真を、「暗い戦争のイメージが強すぎる」と教科書検定でクレームをつけたのは象徴的な出来事です。
 この過去の歴史に対する心底からの反省の欠如は、政府官僚に限ってみられる現象ではありません。それぞれその専門分野でわが国を代表する業績をあげている知識人や学者の間でも、たとえば、「満州事変から日本は、おかしくなった」と、そもそも植民地政策をとったその事自体の不当性に対するネガティヴな認識が希薄なのです。それは善意に解釈すれば、満州事変以後、軍部独裁が強まり、軍国主義・ファシズムの嵐が吹きまくり、独裁国家への傾斜を強めたという実態に対する反省と批判の意識の表れとも言えますが、しかし、日本が諸外国、とりわけアジア諸国に対して罪を負ったのは、軍国主義如何というに限定されることではなく、植民地政策をとった帝国主義それ自体にあったわけですから、やはり「満州事変以後」云々は、あまりにも、身勝手で自己中心的な意識ではないでしょうか。
 そうして、或る意味で最も残念なのは、過去の歴史の罪を明確に認め、心底からの反省を尽くしていない非から、国民自身も免れ得ないという事実です。
 過去、日本の天皇制軍国主義の犠牲者になった諸外国の多くの人々に対する侮辱と冒涜の言葉を繰り返す首相や閣僚を生んだのは、他ならぬ国民自身であり、過去の歴史の罪の所在を正確に認識することなく、歴史を語る知識人や学者にマスコミの場を与えているのも、他ならぬ国民自身です。
 戦後、「戦争はもう二度と嫌だ」と、多くの国民が実感したはずですが、それは、言わば被害者としての感情であって、それ以上のものではありません。日本国民は、天皇制軍国主義の犠牲者であると同時に、諸外国の民族・国民にとっては、明らかに加害者として存在するわけですが、戦後日本において、その内なる加害者を告発する声は、あまりにも小さなものでした。国民自身も宿す加害者としての観念や意識や感情などに、厳しい目を向けることが、ほとんどなされてこなかったと言っても、決して過言ではありません。なるほど、アジア諸国への負い目のようなものは国民意識として内在してあるかもしれませんが、しかしその事ゆえに、国や社会の在り方、そしてなによりも己の人生の在り方、他者への関わり方、とりわけそのアジア諸国民に対する関わり方等々について、問いかけ、自省するというような事は、ほとんどなかったと言わざるを得ません。

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