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城戸口靜のNEGATIVEファイター!Vol.1ゴング

私は1969年山形県山形市で、一卵性双生児として姉の20分後に産声を上げた。双子の方々に聞くと様々で、私達が生まれる前までは先に生まれた方が妹で後に生まれた方が姉だったようだ。その後もコロコロと変わり現在は帝王切開なども多く取り出した先生が決めるのだとか(笑)
双子から言わせてもらえばはた迷惑な話だ。長男か次男。長女か次女。それによって人生が左右されている方だっているはずだ。私とて例外ではない。
「やっぱりお姉ちゃんよねぇ」
などとよく姉と比べられる。たかが20分で姉、妹などわかるわけがない。だが他人からすればそうなるのだろう。はた迷惑な話だ(2回目)。

今から思えば私のネガティブっぷりは母のお腹の中にいた頃かだったのだろう。私は生まれつき右目が小さかった。子供の私にはその理由、重大性がわかるわけもなく…。というか両親でさえ気にも止めていなかったのだから。大人たちは「腹さいだとき姉ちゃんから目蹴っとばさったのんねがよー?(笑)」などと言っていた。私は本当にそうだと思い姉に怒りの念を覚えたものだった。まぁそんなわけもなく、私の目はきちんとした病気だとわかったのは中学2年の時だった。
「眼瞼下垂」という先天性の発育不全の病気だった。いわゆる瞼の筋肉が著しく弱いということだった。それがその先の私の女としての障害になることは言うまでもないことだろう。
だが悲しいかな私に与えられた障害はそれだけではなかった。
下の歯が前に出る「反対咬合」というものもあったのだ。よく言う「受け口」というやつだ。私の場合顎ではなく歯だけがでていた。普通4歳くらいで矯正しなければならないのだが私は自力で治したのだ。いや、治さなければならなかったのだ。何故ならもちろん母には言った。だがかるく流されて終わりだった。
「そんなのみんなおんなじだ!」
毎日毎日出ている下の歯を前に出すようにがんばった!すると今度は上の歯と下の歯が重なってしまい、それをまた上の歯が前に出るように毎日毎日頑張ったのだった。(涙)

だが私はそのことについて今でも恨んではいない。後から出てくる話だが、その当時の母には「その程度のこと」で構っている心も身体も余裕がなかったのだから…。
もうお解りのように私の幼少期はネガティブ要素盛りだくさんだったと言えよう。だがそれだけで生きてきたわけでもない。
「ただでは起きない!」その精神が大事なのだということを私は今身に染みて実感している。
ただそこまで来るには相当の年月、経験を積んだことをここでこれから少しずつ綴っていきたいと思っている。

ポジティブ精神だけで生きている人がこの世にどれだけいるのだろうか?
問いたいところである。
「ネガティブだっていいじゃん!ネガティブだからこそいいとこだってあるよ!」
これを読んでいくうちにそんな思い、考えが頭の心の隅にでも浮かぶようになってくれる方々がいらしたら、私のこの試みは成功と言えるのではないだろうか。なんてね!

今後共よろしくお願いします。

Shizukaより愛を込めて―♥To be continued…


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