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メディアまたは通底器としての寺田みさこ ~ その前後

 石井潤追悼公演で『カルミナ・ブラーナ』を観た(2018年2月10日、京都府立府民ホール アルティ)。運命の女神・石川真理子(Kバレエスタジオ)は、肌色のレオタードに紅蓮の炎が巻き付いているような大胆な衣裳で、晴れやかにかつ野生と世俗のエネルギーを感じさせるダイナミックな表現の強い演技を見せた。

 この作品は以前にも観ている(2008年11月「秋の合同バレエ祭‐創作バレエの夕べ」、京都会館)。運命の女神は寺田みさこ(バレエでは寺田美砂子)。当時ぼくは「彼女が舞台上に現れるだけで、均質だった空間に歪みが生じるような重みの現れ。例によってアウラとしか呼びようのないものではあるのだが、巧みに踊っている時だけではなく、たとえば第8曲「店の人よ頬紅をください」で、3人のチャーミングな女性たち(川畑真弓、松村弘美、水野永子)にでたらめに頬紅や口紅を塗りたくる奇妙なコスメティシャンという役柄で現れた時でさえ、紅を塗るというその行為が何か決定的な秘儀であり、この吟遊詩人の歌集でしかない単純な物語曲を魔性と愛欲の魔物語りであるかのように変貌させてしまうのだ。」(京都芸術センター「明倫art」2008年12月)と陶酔している。寺田は今回の追悼公演にあたっては、振付指導として参加している。

 構成・振付の石井潤は、1966年にチャイコフスキー記念東京バレエ団に入団後、ヨーロッパ各地のバレエ団で活躍し、1997年から2004年まで新国立劇場のバレエマスターを務めた。彼の振付作品を、数多く観ることができたのは、彼が京都を本拠にして石井アカデミー・ド・バレエを主宰してきたからだけでなく、その門下から多くのコンテンポラリーダンサーを輩出してきたからだ。寺田みさこ、北村成美をはじめ、今回バレエミストレスを務めた植木明日香、schatzkammerのメンバーとしても活動していた夏目美和子、そして石井潤の愛娘である石井千春。千春はあろうことか…というのも何だが、DANCE BOXのDance Circusにソロで出演したこともある(2007年3月)。

 少なくとも関西で、これほどコンテンポラリーダンスに多くの才能を送り出してきたバレエカンパニーは見当たらないし、いくつか観た石井潤の振付作品は、アカデミック又はオーソドックスなバレエの範疇を逸脱して、美しさや激しさだけでなく機知、ユーモア、滑稽さ、官能性、諧謔、そして猥雑さ、悪ふざけまでが盛り込まれ、豊饒と言って足りなければ、奇矯と言ってもいいような驚きに満ちたものだった。

 石井は2015年3月に67歳で亡くなったのだが、2014年5月に寺田みさこ、中村美佳(元・新国立劇場バレエ団ソリスト)による『PERSONA』という作品を、京都芸術センターのフリースペースで発表している。これは「石井潤創作集vol.1」と題されており、チラシには「日本のバレエ界を牽引してきた振付家、石井潤が挑む新シリーズ始動!自身が主宰するバレエスタジオとは異なるアプローチによる新作創作にご期待ください。」と記されていた。病いを得て死を意識していたであろう石井が、新たなスタートを切る意欲を見せたことがわかり、それがvol.1で終わってしまったことが返すがえすも惜しまれる。

 この作品で2人のダンサーは、仮面や金髪のウィッグを着け、実在と非在の間を駆け抜け往還した。比べればオーソドックスで透明感のある少女であった中村に対し、寺田は意志の強い強固な存在であり、世界を攪拌する者だった。

 さらに遡れば、2009年3月に、中村が葵上、寺田が六條御息所という役どころで『葵上』を発表している(京都府立府民ホール アルティ)。もちろん伝統的な能楽を踏まえたものではなく、源氏物語を大胆に逸脱しながらも、この二人の緊迫した凄惨な関係は過不足なくわかって、中村の身体が作り出す造形美と、寺田の妖しさ、艶めかしさ、おどろおどろしさが織り成す緊張感が、息苦しくなるほどだったことを記憶している。

 併演の『game』は、2007年11月に上演されたものの再演だった。初演をこれもまた京都芸術センターで間近に目にして、客席に視線を投げかけたり、コンドルズと見紛うばかりの学ラン姿、セクシーな入浴シーン等々、大人向けのおもちゃ箱をひっくり返したように次々と現れ出る驚愕のシーンに、これは何を見ているのだろうとクラクラしたものだ。

 このように紹介していると、石井潤という振付家は、ケレンを狙って思いつきのような発想だけで奇妙なことをしでかす作家のように思われるかもしれない。しかし、石井の作品を見終えると、いつもバレエの楽しさと美しさに身をゆだねた満足感に浸ることになる。そのことを、これまでダンサーたちの力によるものが大きいのではないかと思っていたが、今回追悼公演にあたって、北村成美が寄せた稽古場日誌に、このような記述があり、なるほどと納得した。

バレエの基本にとことん忠実でありながら、そこからさらに大きく伸びたり傾いたり、その延長に起こるコントラクション(胴体のカーブ)は、バレエの動きを超えるダイナミズムを生み出し、壁を打ち破る姿勢や情熱を表しているようにも見えます。実は、奇をてらう型や机の上で考えて作ったであろう動きはひとつも無く、バレエを愛し踊り手を愛するが故に、潤先生自身の身体を通してデフォルメされ(過ぎて)生まれた振付だったのではないか、ということに初めて気づかされました。だからこそ、あの超絶技巧のようなステップは完璧に音楽の中にはまる必要があり、それを攻略しようと躍起になるダンサー魂に火をつけてくれるのです。かつて潤先生の群舞を踊りながら「生まれてきて良かった!!」と歓喜して泣いたことが鮮明に蘇ります。(Facebook「石井アカデミー・ド・バレエ」2017年12月25日)

 動きから生まれる奇矯さとでも言えばいいのだろうか、そのようにして湧き出た果実は、バレエ界はもちろん、コンテンポラリーダンスの世界にも引き継がれていくことになる。

 石井潤が1983年に帰国して数年後、寺田が石井アカデミー・ド・バレエに入団する。そして1991年に砂連尾理とダンスユニットを結成、1993年からアルティ・ブヨウ・フェスティバルに出演していたようだが、ぼくがはっきりと覚えているのは1996年の同フェスティバルにstrというユニット名で『No.9』という作品を出したころからだ。

 この作品については、笑いについても深刻さについても深入りしようと思えば深入りできるのに、浅さそのものを描いているようで、舞台上にスライドで映写されていた街景のように、表面だけであることに徹しようとしているさまに、共感を抱いていた。

 同フェスティバルの同じ年には北村成美が構造計算志向というユニットで振付作品『learn to work 歩きはじめよう』を出していて、何かが壊れた後の喪失を抱えたままの反復が印象的だった。どちらかというと北村の作品のほうに強い印象が残った。

 当時は、この2人が同じバレエ団出身であることは知らなかったと思う。話はやや逸れるが、今から思い返すと1996年のアルティには、他にも田岡和己、桂勘、サイトウマコト、角正之、池田一栄、ハイディ・S.ダーニング、碓井節子、山田いづみ、小谷ちず子、河合美智子、浜口慶子、山本隆之、Ken Mai、ブリジット・スコット、小川珠絵、五十嵐竜一、石原完二、等々バレエ、モダン、コンテンポラリーの大御所から新鋭までが咲き競い、なかなか凄みのある数日間だった。

 このころの作品で印象に残っているものに、『3-21/2のモジュールをほんの少しだけ』というのがある(DANCEBOX SELECTION、1999年3月、TORII HALL)。舞台には洗濯物がぶら下がっていて、その洗濯物には写真が留められている。写真を干していたりもする。寺田がバレエの形をきっちりとふまえた上でそれを崩したりずらしたりしている周囲で、砂連尾が寺田の振りまねをしながら追いかける。日常性、男女の関係というと簡単に四畳半的な世界を想像するが、個々のメタファを回収することなく、散らかしていくような舞台だ。この2人の世界は円環的に閉じるのではなく、直線的に広がっていく。

 セッションハウスでの上演が「踊りに行くぜ!! vol.2」のDVDに収録されている『あしたはきっと晴れるでしょ』は、2001年7月にセレノグラフィカとの併演『下鴨気象』という公演で観た(アトリエ劇研)。国際結婚をしたある若い夫婦の会話をバックに展開する2人の人を食ったような淡々とした動き。表向きはすごくユーモラスなのだが、それがいっそうとても深刻のことのように見えてしまう手旗信号のような動き。お互いにとって、また世界に対して、何ものかであることを規定されることを拒んでいるように見える動き。そんな連続と堆積が、崩壊する日常を思わせる、温度の低い恐ろしい時間だった。

そんなころに石井は新国立劇場に招かれ、偶然かもしれないが、その後2001年第1回トリイ・アワードで砂連尾+寺田は大賞、北村はフランス賞とオーディエンス賞を受賞、2002年第1回トヨタ・コレオグラフィー・アワードで砂連尾+寺田は「次代を担う振付家賞」(グランプリ)とオーディエンス賞を受賞と、開花することになったわけだ。

 パフォーミング・アーツ・メッセ2001 in大阪で砂連尾理+寺田みさこはA2サイズのポスターのようなパンフレットを作っていて、そこにぼくが次のような文章を寄せている。

このユニットが面白いのは、相対性と批評眼を持っているからだ。砂連尾の硬質でダイナミックな動きと、バレエの名手である寺田の高度に鍛錬された動きの美しい対照から、双方の動きが相対化され、その間隙に観る者を誘い込んで作品が成立しているようなところがある。寺田がしばしばバレエ的でなく、やや滑稽に動くことで生じる間隙もある。それらの結果、二人がその作品成立の背景としている日常の情景にも、同様の奇妙な間隙が潜んでいる。
そのように作品の内部で成立する相対性は、作品を外部から見る場合にも成功している。それはダンス・クリニックというイベントでのことだったのだが、再演に際して驚くほど作品が整理され、成熟したのには驚いた。つまり自作の核をきっちりと認識できる批評眼をもっている。これが基調で希有であることは、言うまでもない。
このクールにクレバーで奇妙な関係性を、ぼくはわがことのように、愛している。

 このころ、機会があって二人にインタビューをしているが、だいたいは砂連尾がとうとうと喋り、寺田は促すと喋る、といったふうだったように記憶している。寺田自身が「(砂連尾は)私に何か引っかかりが来るところまでしゃべり続けますよね。でも私は言葉にして捉えすぎると動けなくなってしまうんですね。……何か自分にピッと引っかかるところだけをピックアップして、そこからイメージを広げていったりみたいなことをしてるかなあ」(大阪都市協会「劇の宇宙」第12号、2003年春)と言っている。つい耳に入る言葉だけを聴いて、このユニットの中心(2人なのに中心とはおかしいとはいえ)は砂連尾のほうだと思い込んでいたが、投げられた言葉を受け止めてフィールドを組み立てるのは、実は寺田の引っ掛かりが軸になってのことだったのかもしれない。その引っ掛かりの基には、実は石井潤仕込みの奇矯さが潜んでいて、それは相当に強固なものだったと思うのは、強引だろうか?

 というのも、そのまた数年後、2007年に初のソロ作品『愛音-AION』(7月、びわ湖ホール)を前に話を聴いた時に、寺田がよく喋ってくれることに驚いたからでもあった。「愛」をタイトルに持っているとはいえ、生々しいエロスが提示される大胆でスキャンダラスなソロ作品だった。作品の中に極端で直接的にエロティックな場面を挿入して、観客を狼狽させながら、徐々に彼女があまりに無表情で機械的にそれを繰り返していることを気づかせ、エロスの意味や質感を剥ぎ取り、一層混乱させるという奸計。それはラストで全裸の寺田がゴミ袋に入り、舞台中央の井戸のような水面に身を投げて終わるという、寓話の終わりを思わせるあっけないような行きつき方に、巧妙に集約されていた。機械仕掛けのエロスに不幸にも興奮させられる観客には、世界の全体像がよく見えなかったことも含めて、時間がたってやっと確かな構成力を見せつけられたような作品だった。

 翌2008年秋から砂連尾が文化庁・新進芸術家海外留学制度の研修員としてドイツ・ベルリンに発ったこともあり、このころからユニットとしての活動は少なくなり、寺田は京都造形芸術大学の准教授として、伊藤キムらと共にいわゆる後進の指導にも当たることになる。実に多くの若い才能がここから輩出されることになる。現在の、そして今後10年ぐらいの関西を中心としたコンテンポラリーダンスの活況は、ここに端を発するとしても過言ではないだろう。

 伊藤キムが構成したのだったか、京都造形芸術大学内の学生を中心とした公演で、寺田がエジプトのミイラみたいなポーズで、祀られてでもいるかのように、壇上の箱の中で動かない、という存在の仕方をしていたことがあった。そして学生でもあったダンサー・振付家の倉田翠演出のakakilike『捌く』(2017年8月、アトリエ劇研)では、寺田は肉塊として舞台上で横たわるだけの存在の仕方をしていた。よく動く身体の持ち主でありながら、いつの間にか寺田は、動かず、そこに存在するだけの存在であってよいという存在になっていたようだ。

 それがいかにして獲得された様態であったのか、定かではないのだが、最新の『寺田みさこ「三部作」』(2018年1月、ArtTheater dB Kobe。ダンスボックス・ソロダンスシリーズvol.2)で見せた彼女のありようは、そのことを納得させるものだったように思う。

 この公演は、寺田がチョン・ヨンドゥ振付『鳥と女性、そして夜明けの森』、塚原悠也振付『ダンサーがチューインガムを運ぶための3つのフェーズ(準備・移動・撤収)』、マルセロ・エヴェリン振付『世界のすべての女たち』を踊るというもの。休憩を挟むとはいえ、2時間弱の間に3つの世界を提示という、ダンサーにも観客にもなかなか過酷な企画だと思われたが、少なくとも観るほうにとっては、脳みそを直接伸ばしたり縮めたりされるような、心地よく(?)贅沢で刺激的な時間だった。

 さて、三部作とは、単純に3作品というのではなく、連作3篇という意味合いが込められているはずだ。つまり、3篇に通底する主題のような共通項がある。それは何かというと、もう「寺田みさこ」であるという他はない。寺田について、マルセロは周りにあるものすべてに耳を澄ます人と言い、チョンはポジションが明確で動きの流れが見える人はいないと言い、塚原は経験値が豊富で物事を細かく見ている人と言う(DANCE BOX「『三部作』振付家インタビュー」による。https://vimeo.com/250743179など)。大げさにいえば、この公演を観た人は3つの作品によって、寺田のほぼすべてを把握することができたはずだ。

 チョンの作品は、ブラジルの作曲家ヴィラ=ロボスの交響詩『Uirapuru』(アマゾンに棲む鳥の名)と寺田その人からインスピレーションを受けたもので、バレエ的な美しさ、モダンダンスの表現性、音楽との美しいシンクロ、『春の祭典』を思わせる垂直性といった陶酔や幻惑への誘導ないし誘惑の反面、突然指で鼻をつまんだり、鳥の鳴き声を思わせるような舌打ちが入ったり、観客を煽るようなニヤリという攻撃的な笑いが挿入されたりと、多面性をもち、美しさという一筋縄ではいかない裏切りを包含した作品だった。以前から寺田を観ている者にとっては、バレエ的な「解像度の細かい丁寧」(寺田のインタビューでの発言から)な作品と思わせておいて膝をカックンとするような、砂連尾+寺田の作品でよく見られた脱力を強く感じさせつつ、民族性と煽りの刺激を行き来させられる、振幅の大きな作品だった。

 マルセロは、寺田に赤ちゃんの頭ぐらいの石を持たせた。ただそのことだけが作品の出発点だったそうだ。ヴァイオリンの生演奏があった(立花礼子)。石をボーリングのように構えた。すぐに置いた。ゆっくりとY字になり、頭の上の足裏にその石を載せた。美しい動きを身体を、佶屈させる装置として石があった。寺田の身体自体がぎくしゃくと見えたわけではないが、身体とは異なる部分で生じている無理が、観る者に伝染してくるようだった。身体をめぐる刺激と反応が、どこか病的だ。と、息を抜く。ヴァイオリン奏者も息を抜く。観客もまた。寺田は身体の可動域を存分に使って、石と戯れはじめる。石は負荷であるのかないのか。石は標であるのかないのか。

 佶屈と書いたが、好きな言葉だ。きっくつ。破裂音だけの単語。寺田の身体にとても似合っているように思えるのが不思議だ。無駄な所に無駄な力を自由に込めて、自在に佶屈することのできる柔らかな身体、などといくらでも戯れることができる。そんなふうに、寺田の身体の様々な部分を、個別に「きつ・くつ」と音を立てて外していくような仕掛けの作品だった。

この公演の最後に置かれたマルセロの作品を観ながら、ぼくはふと、寺田みさこはメディアだ、と気づいた。もちろん王女メディアであってもいい。残虐でわが子まで殺しそうな冷徹さが時折こぼれないわけでもない。特に『愛音』のクールなエロティシズムには、そのような気配があったといえる。むしろここでのメディアは、媒体・媒介あるいは単数形メディウムの中間という意味だ。振付家の思いと観客の思いの接点であり、それぞれの思いが通過する導管のような存在であり、いかなるコンテンツも搭載できるような媒体でありながら、無味乾燥というのではない。すべてを暴虐の王女メディアの色に染めてしまうような媒体=メディアとでもしておこうか。

 コンタクトゴンゾの塚原が手掛けるからには、素舞台で何の仕掛けもない振付であるわけがないと思われ、もちろん舞台監督のような出で立ちでベルトコンベアを中心に様々な器具を舞台上に設置していく塚原である。寺田も何やら設営を手伝うような動きをしている。当日パンフレットに塚原が「ほぼタイトル通りの作品です。」と書いているように、寺田はチューインガムを噛みながら、箱馬3段の上に渡した板を平均台のように伝って移動する。ベルトコンベアには塚原が蛇やトカゲのビニールフィギュアや財布や電池やミカンやラムネ菓子を次々と載せるが、ベルトコンベアが途中で段になっていて、半数以上はそこで落ちる。寺田は落ちない。

 問題は、というほど大げさに考える必要があるのかないのか、これは寺田みさこでなければいけないのか、ということだ。寺田でなければ渡り切れない平均台ではない。舞台でガムを噛みどこかになすりつけるのは、ソプラノ歌手バーバラ・ハンニガンだってやっていた(2015年にバービカンホールでリゲティの『ミステリー・オブ・ザ・マカーブル』をサイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団で演奏した折のこと)。寺田の美しかったり佶屈したりする動きが強調されていたわけでもない。

 それでもこれは、寺田みさこでなければならなかった。塚原はインタビューの中で「ぼくがやることをそのまま置き換えた」「みさこさんがこういう作品をやることはなかったはず」と語っているが、寺田がこの作品をやってしまった後では、寺田みさこというダンサーのコンテクストの中に自然に吸収されてしまい、この作品に寺田がめぐりあったことがすこぶる当然のことに思えてしまった。なぜなら、寺田みさこはメディアだったからだ。

 3つの作品、3つの世界を通じて、それらは「自分では絶対に作らないような作品」(チラシ掲載の寺田のコメント)ではあっただろうが、終わってみればすべて寺田みさこの世界として飲み込まれてしまっていたのではなかったか。といっても、寺田の一色に染められてしまっていたというわけでは、もちろんない。陳腐ではあるが、玉虫またはカメレオンのような寺田であるということだ。

 バレエとコンテンポラリーダンスを、これほどまでに長期間並行させているダンサーは、多くないだろう。それによって獲得された精神的可動域の大きさが、寺田の現在を形成している。ひところに比べて、バレエ出身のコンテンポラリーダンサーは増えた。特に関西では、コンテンポラリーダンスはバレエ的な身体訓練を受けていないことが前提であったり、バレエを否定することがコンテンポラリーの条件のようにみなされたりした時期もあったといわざるを得ないが、観客の疲労、世界的な風潮もあって、バレエでなくとも何らかの錬磨を経た身体でなければ実験や前衛はもたない、ということではないだろうか。世界の著名なバレエ団がコンテンポラリーの振付家の作品を多く上演するようになったし、コンクールにもコンテンポラリーという部門が当然のように用意されるようになった。その中から、バレエ的身体をもち、コンテンポラリーな精神をそなえた魅力的なダンサーが徐々に増えつつあるのは、まずは喜ばしいことだ。

 大学で寺田に薫陶を受けたダンサーは数多いが、バレエとコンテンポラリーを並行させている1人として、倉田翠を挙げておこう。倉田の作品を初めて観たのは、彼女が大学4年の時で、ぼくが企画していた「ダンスの時間 大学生版 第26回」(2010年3月)に寺田が推薦してくれたのだった。卒業制作で学長賞を受けた『とんでもない、お座りください。どうぞ想定内でしょう。』を短縮してロクソドンタ・ブラックという小空間で上演した。共演の松尾恵美も同じく3歳からクラシックバレエを始めたといい、機械的な動きが切なく痛い、完成度の高い作品だった。

2008年に学内で上演した『シスター コンプレックス シンドローム』を2017年3月に再構築・再演した(元 立誠小学校 講堂)。女性ダンサーだけで展開する美しい残酷さと緊張感、脈絡はないが切羽詰まった末であろう暴力。言葉を使わないだけに、そこで行われている何か大変なことについて、詳細のわからない不安が湧き、それを想像力で補おうとするともっと悲惨なことを思い描いてしまう……身体というものが目の前にあることで展開される残酷さを突き付けられる、厳しく冷たい世界を展開させた。

寺田の官能性やエロティシズムに代わって、倉田には常に暴力性が置かれているようだ。性も暴力も、身体が最も極端な形で力を露出する場面だといえるだろう。共にオーソドックスなバレエで強調されることはないはずだが、バレエにある種の酷薄さを与えて現代化するためには不可欠な要素であることは、直接に遡れば石井潤が試行してきたことであり、海外の多くの振付家も挑んできたことだ。

倉田の活動で興味深いことの一つに、ダンスをはじめとして様々な場やつながりをつくり続けていることが挙げられる。たとえば2011年に若手ダンサーの公募オムニバス公演として始まり、徐々に変容していった「すごいダンスin府庁」。2010年から2014年まで4回続けられた「実際に人と人とが関係する場合に生じるあの対等な緊張感を見せることはできないのか」という問題意識に基づき「現実の面白さに勝ちたいという人体実験」として行われた「今あなたが「わたし」と指差した方向の行く先を探すこと」という展示場での身体展示企画。京都市・東九条地域の高齢者と対話を重ねて作り上げた社会包摂・課題解決型の公演『はじめまして こんにちは、今私は誰ですか?』(東山 アーティスツ・プレイスメント・サービスの京都市からの受託事業)、などなど。

そういえば倉田の先輩にあたる、きたまりも2011年から「We Dance」、2013年から「Dance Fanfare Kyoto」を他分野のアーティストが出会う場として企画していたし、2018年3月には神戸で「ダンスの天地」(神戸アートビレッジセンター)を国内ダンス留学@神戸(文化庁からDANCE BOXが受託した「次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」)の卒業生たちが実行委員会となってスタート、大阪で「おどらぼ芸術祭」(芸術創造館)をodolaboの巖良明らが企画するなど、20代30代の若者たちによるダンスを中心とした連続公演が相次ぐことになる。それぞれダンスの出自が少しずつ異なる企画者がそれぞれ独自の企画を立てることで、ダンスの多様性が強調されるだろうし、ダンスと社会とのかかわりに否応なく直面するだろう。ぼくはこの流れを慎重に見定めたいと思うし、大きな希望を抱いている。

 寺田みさこを一つの軸としてダンスの流れを見ると、バレエの大胆な発展と継承、コンテンポラリーダンスの一形態の誕生と成長、そして継承が見えてくる。寺田自身が前世代からの継承を受け止めた者であり、次世代につなぐ存在であることが見えてくる。今回の『三部作』でそのことがはっきりと寺田の身体から受け止めることができたし、そのような身体は他にも何人も存在していることだろう。関西ではDANCE BOXが「Revival」と題して2010年にヤザキタケシ、2012年に北村成美の名作を、複数の若手と本人によって再演する機会をつくったことは、記憶に新しい。コンテンポラリーダンスが歴史的検証とそれによる個人と全体の賦活、そして継承という段階に入っていることに改めて多少驚きを感じないでもないが、それを経て次の新しい何かが生まれてくることが、楽しみでならない。


【寺田みさこ】 ダンサー・振付家。幼少よりクラシックバレエを学ぶ。1987年より石井アカデミー・ド・バレエにて、石井潤振付の主要レパートリーに多数主演。91年より砂連尾理とダンスユニットを結成し国内外で作品を発表。「トヨタ コレオグラフィーアワード2002」にて、次代を担う振付家賞(グランプリ)、オーディエンス賞をダブル受賞。平成16年度京都市芸術文化特別奨励者。06年以降ソロ活動を開始し、山田せつ子、山下残、白井剛、笠井叡振付作品の他、渡邊守章演出作品などに出演。アカデミックな技法をオリジナリティへと昇華させた解像度の高い踊りに定評がある。

(季刊 ダンスワーク81 DANCEWORK 2018 春号)
写真:Junpei Iwamoto

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