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「ゲームは遊びじゃない」が成功者のセリフになったように思う

自由さ


あなたは『オンラインゲームがいちばん強い人』と聞いて、どのような人物を思い浮かべるだろうか?あなたが10代から30代————若者向けのエンターテインメントにそれなりの親しみがある————ならば、おそらく赤と黒のゲーミングチェアに座って、虹色の放射光がビカビカ飛び交うような部屋で、真剣にプレイをしているプロゲーマーを思い浮かべるんじゃないかな、と思う。具体的に‥‥それも日本人の名前を出すと、ときどとか、ウメハラとか、もうちょっと世代が変わってくるとザクレイとか、あばだんごとか、あめみやたいようとか、仮に固有名詞が出てこなくても『あのなんかシャドバで1億貰った人』とか、そういう遠い夜空の綺羅星みたいな、『E-sportsドリーム』的ゲーマーの姿がある。

もしかすると、おそらく、そこに、『ネトゲ廃人』の姿はないんじゃなかろうか?WoW廃人になった『サウスパーク』のカートマン一行や、『ノーゲーム・ノーライフ』のキャラ造形なんか、ステレオタイプとして(過去の)というカッコがつくようになった。

数年まえのことで、こういう話がある。小学生のころMOで知り合ったネット友達と一緒にオーバーウォッチをしていると、「この前友達と旅行したんやけどな」「そんでな、オープンカーで‥‥」とネット友達が言った。僕はオープンカーの名前や値段をひとつとして知らないけれども、学歴もコミュ力も有ってモテる奴が言うと世界が違いすぎる!なんというか軍手で革袋と握手するような話で、そういう奴と知らなかったら惨めになっていたかもしれない。ここからが重要で、彼はとてもプレイが上手だった。FPSが苦手な僕はいつもいつも彼にcarry(介護)されていたし、明らかに呑み込みの速度も違った。

ゲームが上手な人間がそういう奴なのは、意外でもなんでもない。そのゲームがトレンディーかつ競技的な志向が高まれば高まるほどそういう傾向は強くて、僕のやっていたゲームの世界プレイヤーはいつも近畿大学や早稲田大学のグループ(彼らはゲームの大会のために頻繁に海外旅行をしていた)だったし、院生も明らかに多かった。今現在も東大生/OBや京大生のプレイヤーが、目を見張るような実績を出している。高学歴のプロゲーマーの名前はけっこうな数あげられるし、「FF14のガチ勢は社会的地位の高い人ばかり」という言説も、しょうじき確証バイアスだとは思えない。

こうなったのはいつから?「ゲームは遊びじゃない」と嘯くゲーマーがダメ人間ではなくなったように思える。なんか能力が高そうで軽やかでピシッとしてて意識が高くて、ねらーや引きこもりとそのまま接続するようなイメージは無くなった。

プロゲーマーの説法が膾炙するのを見て

それでもやっぱり、「遊びでやってるんじゃない」というスタンスにはある種の否定感と、獣道を往く愚者の印象が付き纏う。一昔前のデジタルネイティブに否定的な報道(もっぱらマスメディアからの)への反動/抵抗感があるにしても容易には変え難いし、頭ごなしの否定が古くなったからこそ「遊びでやらない」ことの実態がよく把握されるようになってきている。


いい機会だし、プロゲーマーであるninjaのありがた〜い説法を今一度聞いてみよう。

「まず当時やってたアルバイトと大学をちゃんと続けながらHALOの大会や配信を頑張ってたんだ」
「良い成績取ったりサッカーも頑張ったり、努力したらたくさんゲームする時間も許されたんだ」
「将来のことも考えて学校でしっかり勉強したよ」
「子供たちよ、全てを辞めてゲームで生活することに専念するのはダメだよ」
「プロゲーマーや実況者という職業の競争も上がってきている」
「まずは将来の安定を考えて行動して余った時間をゲームに費やしてほしい」

そうだけどさあ!

そうだけどさあ、なんだろう‥‥ちょっと関係ない話なんだけども、一切の欺瞞が無い死体蹴りってズルくないですか?こんなこと誰も彼も頭のどこかでほんとうはわかっているし、それがままならないとも思っている。だからこそ逃げの方向に認知バイアスがかかるんじゃないですか?いやそれが自然だから看過されるべきって言ってるんじゃないですけど、僕だってほら、そういうメンタリティは大事だと思ってるし、なんならninjaに近いこと言ったことすらありますよ?ワナビでいるのは良くないとか‥‥でもそれは言う奴によってはオーバーキルだろ!?ホントなんで、裕福な白人青年に後光が差してるとシャクに触るんでしょうかね?ピューディーパイの結婚式とかもそうだけどさあ‥‥僕はE-sportsのドキュメンタリー番組で見た「卒業後は就職せずハースストーンで生活することにした」ってテロップを嗤ったことを撤回したいし、懺悔してます。そのテロップが指した彼のことは好きじゃないし見習おうとも思ってないけど、現実を生きるのも現実的じゃないんだから。ああ、僻み妬みが止まらない!

ninjaの言説が膾炙することそれ自体に、『E-sportsドリーム』的な綺羅星が社会不適合者の幻想として機能しているという意味を持っている。ただ‥‥藁人形を入れてしまうが、この言説とそれが膾炙する背景には、夢想家への忌避感のほかに「勉強やサッカーを頑張ったりできる」能力やリアリストとしてのプランがあった方がゲームでの成功を期待できるよね?というケも含まれているように見えるし、いみじくもサウスパークが揶揄した『WoW廃人と化す子供たち』的なステレオタイプの失効を踏まえると、それってちかごろ顕著になったことで、じゃあそうなった時に原因は日進月歩甚だしいオンラインゲームの変化にもあるんじゃない?という疑問符が浮かび上がってくる。「ゲームは遊びじゃない」が成功者のセリフになったように思う。そこに時代の流れがない?これが、このnoteで言いたかったことだ。

「ゲームをする」ってゲームをプレイする事だけじゃなくなったよね?

・Discord(とLINE)が広まってから通話がカジュアルになったのだが

Discordという、「知らない若年ゲーマーはいない」と言えるメッセンジャーアプリが世に出たのは2015年のことらしい。それにしても、Discordの普及速度は異常でしたね。瞬く間にゲーマーの営為の一部となって、今まで『通話文化』が無かったコミュニティにも行き届いた。その影響で肉声———ひいては現実世界でのやりとりが、かなりカジュアルにもなった。通話は避けては通れない道と感じたコミュニティも多くある。

ゲームを媒体とするコミュニケーションを取るにあたって、Discordの普及が快適さをもたらしたのは論を俟たないだろう。PlayStationのコミュニティ機能もゲーム内チャットもスカイプも、バカにならない問題が多かった。でも通話文化がより手軽でより普遍化したのは痛し痒しだ。ゲーム外の営為が重視されるようになったことの複雑さは大きく分けて三つ感じている。

一つ目は、肉声でのコミュニケーションと文字でのコミュニケーションの純粋な勝手の違いにある。肉声でやりとりすると言うことは本当にさまざまなものを開示するということで、不可避な秘密主義の崩壊もさることながら、『ネチケットの遵守』という知識面でのカバーが行いづらいままならなさもある。話すことそれ自体が難しかったり苦痛だったりするゲーマーも間違いなくいるわけで、通話の必要性を考えると、こうした事実はけっこう息苦しいんじゃないかな、と思う。実際、頑なに通話に出ない知り合い二人のうち一人は、6年間の付き合いがあるグループと微妙に疎遠になってしまった。

二つ目は、Discord(や、LINEなど)でのブレインストーミングや練習環境が、個人の考えや練習より高いバリュー(価値)をもたらし、ソロプレイヤーが弱体化する文化が形成されたことだ。クローズドな場では『チーム○○』のような派閥や集団を形成しやすいし、そこを『象牙の塔』的な高め合いの場を建設することには合理性が伴う。そこで生み出されたデッキ、キャラ対、タクティクス、環境分析、チーム、そして練習環境は、基本的に内側のゲーマー以外は味わうよしもない。たとえば『情報操作』というスラングは複数の対戦ゲームにまたがる語彙だけども、このスラング自体に『無用または信頼の置けない攻略法を、あたかもクローズドな場で発見された攻略法のタレコミかのように伝えること』というニュアンスが含まれている。それだけクローズドな場での情報に価値があるとみなされてる、ということだ。

三つ目は、ゲームでの集まりが多様な交友に派生しやすくなったこと。Discordというアプリは白眉なもので、当初の目的から逸れても、繋がりがほつれないような設計になっている。たとえばフレンド欄を見ると『○○(ゲーム)をプレイ中』というメッセージが表示されて、「あっ、あの人もこのゲームやってるんじゃん」と気付けるようになっているし、(自分が知る限りの)Skypeと比べて画面共有が簡単であるから、ほかの営為にも転用しやすい。そもそも通話文化の浸透で話したり見られたりがカジュアルになったものだから、現実の友達とゲーマーの集まりの境目が曖昧な人も多いのではなかろうか?

・やっぱりめんどいTwitter

オンラインゲーマー的営為においてTwitterの運用はとても重要だし、避けがたい。なぜなら、ゲームを遊ぶために必要かもしれないからだ。

このことには、観念としての問題と即物的な問題の両方が付き纏う。Twitter特有の薄汚い(マイルドな表現。正しくはジャック・ドーシーの心の中みたいな)空間設計に溶け込んで、諂ったり同調圧力や党派性に屈したり、外面を重視したりされたりするのが嫌というのはごく当たり前だし、素性の可視化が起きる事で社会的地位・能力・立場の差異に由来した嫉み僻みや疎外感、しがらみも常に付き纏う。また、影響力を持ったゲーマーがバリューを意識した投稿をしなくなり、鍵垢やDiscordやLINEといったクローズドな場で私的な心情を吐露するようになるのも非常によくあることだけども、こんな風潮が当たり前のようにあって息苦しさを感じる人間がいないわけがない。

そしてTwitterをDiscordの入り口や、練習/対戦相手、チームとの出会いの場として利用するのは、アドバンテージの観点からしてベターという事実がある。こういう眼差しが深化すると、役に立つ/役に立たないことが親交を持つ/持たない動機になってしまう。利益のために親交を持てば過度に迎合的になるかもしれないし、場合によっては人を値踏みしたり、自分を偽るかもしれない。こうなるとコミュニケーションに(比喩的な)営利性が付きまとっているとしか言いようがない。『SNS疲れ』という観念としての問題と、『アドバンテージを取る/取れない』という即物的な問題の両方が付き纏う。

・『time to win』はどこ行った?

あなたや僕が小学生のころのゲームの集まりは、仲間うちで編み出されたような戦術————今思うと非合理的で荒唐無稽な————が猛威を奮っていたのではないだろうか?スマブラで言ったらドンキーコングの掴みで道連れにしまくるだとか、カービィで逃げ回ってストーンを連打するだとか‥‥キャラクターの性能だとか、技の汎用性だとかも肌感覚で見定めていたと思う。そこに一人学者気質のゲーマーが居て、そいつの立ち入った知見で革命が起きる‥‥。

茶番だ!牧歌的な茶番。単純に考察量が多くて、やり込んでた奴が有利だった。でもこういう茶番、ちょっとスケールを大きくすれば、ガチ勢の世界でも結構最近まで生きていたんじゃないかな?と思う。例えばオンラインゲームの上達方法や情報を得たいとして、選択肢として現実的なのはやっぱりyoutube、それとnoteなり攻略情報を開示してるTwitterアカウントなりになってくるのではないだろうか(攻略wikiやデータベースが機能してるか否かは本当にゲームによるだろう)。

これらは最新の利器だ。過去これらに近しいものがあったとして、今ほど洗練されていなかったし、そもそもアウトラインをなぞるだけであるか、主観的で偏りと誤ちが多かった。トッププレイヤーやプロが親切に教えてくれるなんてことはなかった。あったとしても出回る速度が遅かった。単純に考察量が多くて、やり込んでた奴が有利だった。少なくとも僕がやっていた、RTSやFPSや格闘ゲームではない複数の静的なゲームではその傾向があった。出回る情報より個人の考えの方が重要で、まさしくブラックボックスの探り合いだった。

いま現在出回っている情報には、プレイ時間や思考の量で補って然るべきだった情報やノウハウが多分にある。だから、時間で穴を埋めるような真似そのものが難しいと感じる。いまは情報が素早く伝達する。とめどなく移ろうゲームバランスの本質が捕捉される。プロやランカーのプレイとノウハウが、白日のもとに晒される。『象牙の塔』でブレインストーミングが行われる。本当に高みを目指すのならば、圧縮された価値を合理的に掠め取らなければいけない。

僕はRTSやFPSや格闘ゲームのような動的で競技性の高いゲームでは本物の雑魚なので、浅い知見で語らざるを得ないかもしれない。ただ、雑魚なりに真摯に取り組むことのハードルの高さは肌で感じたし、トレンディーなオンラインゲームの『ガチ勢』の平均水準が底上げされていることに、例外はないと思っている。オンラインゲームのヘビーユーザーの平均プレイ時間は伸びているらしい(このソースにどれほどの信用性があるのかはわかんない!)。e-sportsの浸透や規範/価値観の内面化を踏まえると、ガチ勢のゲームに対する意識はよりシリアスになっていると思われるし、攻略情報の質と伝達速度の強化や、競技的志向に受け応えたゲームバランスの構築(例えばスマブラSPでは、トッププレイヤーが制作スタッフに加わることも、トッププレイヤーがTwitter上で発信した意見がゲームバランスに反映されることもある)だけに絞っても、ガチ勢の平均水準を強化しないということはありえない。カービィのストーン連打が非合理的で、コンボが合理的なんてことはyoutubeを見れば3分でわかるし、その練習をトレーニングモードで反復する‥‥なんてことは前提条件でしかなくて、差をつけるにあたって大切なのは時間の使い方の巧さと知己との繋がりなのだ。「昔からゲームには要領(能力)が求められていた」という指摘が事実でも、それは張本勲が居たNPBと、いまダルビッシュが居るMLBで要請される能力を同一視するのと同じなのだ。

なんか「ゲームは遊びじゃない」ことも複雑になりましたよね。こういうのって、旧態依然のネトゲ廃人に遂行できるんだろうか?少なくとも僕はけっこう、厳しくなった。

ハリー・ポッターと健常者への道

ここからはボヤき。飛ばしてもらって構わない。

プロゲーマーが『nerf後の使用感を確かめる』配信で何が強いか何が強く無いかが見定められることはあるべき姿なのかもしれないし、一番冷静なDCGプレイヤーが、鮮やかとしか言いようのない精密さでヒキキモンを打ち倒す結果に収束していくのは正しいとすら思う。ぶっちゃけこのnoteはオンライン(対戦と言った方が?)ゲームを一刀両断できる切れ味があるわけでもないし、私的な感情を無理くりマクロな問題にしようとしてるだけで、全編通してボヤきでしかないのかもしれない。ただ、ぶっちゃけそれでもいい。漠然と感じる「けっきょくどこでも頭のいい奴が勝つんじゃん」という無力感は、なんの花にたとえられよう?


こないだ「俺らがランカーだった頃のポケモン対戦は茶番だったね」という言葉を、4、5年前のポケモンオタクとのサシ飲みで話した。僕も彼も、当時は対戦に本気だった。ただ本気だった対戦そのものについて、全くと言っていいほど話さなかった。話せなかったのかもしれない。4時間ずっとポケモンオタクの私的なエピソードを語っていただけ。

僕と彼がninjaが言うところの「全てを辞めてゲームで生活する」ことをしていたのは、ひとえに「良い成績とったりサッカーも頑張ったり」 できなかった人間だったがゆえの逃げで、ゲームに本気でいられなくなったのは、単に現実逃避の耐用年数が過ぎ去ったからだ。ただ、そのサシ飲みで未来どころか過去すら語ることができなかったのは、『走っていたあの頃』の正体が『走っている夢』でしかなくて、そのことを今じっさいに走っている人たち(e-sports的な規範/価値観を内面化したトッププレイヤー)が実績を出すことで大っぴらにされたからだ。そうなれば『走っていたあの頃』そのものの実態を反芻すること自体が偽で、虚構で、むなしいという観念が伴う。僕たちには只々本気だったという事実と、そこで見知った人間のありようとその尊さしか残されていない。だからオタクの私的なエピソードについてしか話せなかった。

僕と彼が夢と現をすり替えていたことを擁護するのは、到底無理だ。本気になれなくなったのは年齢に依拠した耐用年数の問題だ。ただ、僕と彼が見ていた夢に虚構性が帯びた———在りし日の思い出ですらなくなった———背景に、『ゲームをすること』の複雑化———e-sports文化・ストリーマー文化の内面化に伴う社会的地位や能力的な差異の可視化/強調や、人間関係に対する営利性の導入————があって、それがオンラインゲームの核であるインターネットにおいて普遍的な構造なのだとしたら、未来を語ることの立ち行かなさと、どこまでも私的な辛さを感じる。

社会生活でのバリューが、インターネットと癒着していってるように見えることが苦しい。「吃音があるからスプラトゥーン2がやり辛い」だとか「ストリーマーが企業に引き抜かれて、スポンサーに忖度したことしか言わなくなった」だとか、そういうことが容易に想像できるインターネットが苦しい。茶番にはない不快感がある。

プロゲーマーがスポンサーの商品を宣伝するとき、攻略noteが有料化するとき、女性ゲーマーにおっさんが群がるとき、親のステイタスとしてジュニアゲーマーが創られるとき、ストリーマーが企業に引き抜かれるとき、脱落したゲーマーが動画勢になるとき、ヤリモクという言葉が浸透するとき、このとき本当の意味で「ゲームは遊びじゃない」ことに気づいて、僕は一抹の空虚さ———膨大な無力感を抱くのだ。

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