見出し画像

『おかしな人間の夢』―『作家の日記』より⑪―

『作家の日記』1877年4月号第2章は、とても奇妙な、まるでおとぎ話のような短い創作作品にあてられている。

『おかしな人間の夢―空想的な物語―』と題されたその短編小説は、その副題が示す通り、あまりに荒唐無稽であり、私は、二度読み返してみたが、これをどのように受け止めればよいのか、結局よくわからなかった。
よくわからないまま、文章を書きながら、ドストエフスキーの意図を考えてみたい。

夢の中の自殺

おおまかなあらすじは以下のようなものだ。

主人公の「おれ」は、自分のことを「おかしな人間」と考え、世界と調和することのできない厭世的な男である。もう二か月の間、常に自殺することを考え、すでにピストルも入手済みだ。
男は、「世の中のことはどこへ行っても、なにもかも要するに同じことだ」という確信にとらわれ、煩悶を募らせている。

……おれはずっと前から、これを予感していたが、完全なる確信としては、最近の一年間に、何かこう突然やって来たのだ。おれは忽如(こつじょ)として世界が存在しようがしまいが、あるいはなに一つどこにもなかろうが、おれにとっては同じことだと感じた。おれは自分の全実在をもって、おれの身についているものはなに一つないのだ、ということを直感するようになった。……(岩波文庫版『作家の日記』(四)、一八七七年四月、第二章。米川正夫訳。以下同じ)

ある晩、男は、今夜こそ自殺しようと考えながら貧しい下宿部屋に帰り、テーブルにピストルを置いて、ひじ掛け椅子に腰かける。そして、いつでも決行できる態勢をとりつつ、もの思いにふける。

男は、その夜、帰宅の途中、母親が病気で死にかけているらしい小さな女の子から必死に助けを求められたのだが、すげなく追い払ってしまった。今から自殺しようとする自分にとっては、世の中のいっさいがどうでもよいはずだ、と思えたからだ。
ところが、男は、いまさらながらその少女が可哀そうでたまらなくなり、なぜ、これから死のうとする人間が、憐憫の情に心を痛めたり、また自分の卑劣な行為に羞恥の念を覚えずにいられないのかといぶかりながら、いつしか眠りに落ちてしまう。

夢の中で、男はピストルを心臓にあてて引きがねを引き、自殺を遂げる。気づくと、男は棺の中に横たわっている。男は墓に葬られ、暫く苦痛を忍んでいると、突然、墓がさっと開く。

男は「誰ともしれぬ模糊(もこ)とした存在に抱き取られ」、いつしか、地上をはるかに離れた闇の中を飛翔していた。

原初にあった地上の楽園

男は宇宙空間のはるか彼方へと連れ去られ、やがて、引き寄せられるように、もう一つの太陽系に到達し、そこに存在する「楽園のように美しい」第二の地球の上に降り立つ。

そこは「まだ堕罪に汚されない土地」であり、そこには「罪悪を知らない」人間たちが住んでいた。彼らは、男のそばに自然と集まってきて、男を優しく愛撫する。
これらの「無垢な美しい」人々は、科学を持たず、人生についての認識を追求することもなく、それでいながら、深く、かつ高遠な知識を直感によって備え、いかに生くべきかを知っていた。

 彼らは子供のように快活で元気がよかった。彼らは自分たちの美しい森や林をさまよいながら、すばらしい歌をうたっていた。彼らは自分たちの木になる木(こ)の実とか、自分たちの森で採れる蜂蜜とか、彼らを愛する動物の乳とか、すべて軽い食物を糧(かて)としていた。衣食のために働くのは、ほんのちょっと、わずかな間であった。彼らにも恋はあって、子供も生まれた。しかし、われわれの地球に住むいっさいの人間に巣くっていて、わが人類のほとんどすべての罪の源となっている残忍な情欲の発作などは、ついぞ見受けたことがなかった。彼らは新しく出生した子供たちを、自分たちの幸福に参加する新しい仲間として、喜びむかえた。彼らのあいだには争いもなければ、嫉妬騒ぎもなく、それがいったいどんなものであるかさえも知らなかった。彼らの子供はみんなのものであった。というのは、すべての人が、一家族を形成していたからである。彼らの間には、ほとんど病気らしいものがなかった。もっとも死というものはあったが、老人たちは別れを惜しむ人々に取り囲まれて、彼らを祝福し、彼らに微笑を送り、またみずからも彼らの微笑に送られながら、静かに死んでゆくのだ。……

楽園の人々には神殿もなく、信仰も持たないようだったが、その代わり、「宇宙の統率者との絶え間なき生きた連繋(れんけい)があって、それが何か日常欠くべからざるものとなって」いた。いわば、集団的な意識として、「神」のような絶対者との絆を日常的に共有していたのだ。

おかしな男の夢に現れた楽園の描写は、まるで、絵空事のようだ。
男にしても、これらの楽園の住人たちを完全には理解できないのだが、それでも「彼らのまえでは、自分の心までが彼らの心と同じようにけがれのない、正直なものになってゆく」ように思われ、彼らの世界が「言いようもないほどの調和に満たされ、魅力と美と真実に貫かれて」いると感じる。

ところが、男の夢の世界は、思いもよらぬ事態へと発展する。

罪に堕ちた楽園

どのような経緯かは不明だが、男は、自分の存在によって、楽園の住人たち一同を堕落させてしまうのである。

……おれは要するに、堕罪の原因が自分だったということしか知らない。ちょうど豚に寄生するいまわしい旋毛虫のように、数々の国に病毒を伝染させるペストの菌のように、自分の来るまで罪というものを知らなかった幸福な国を、おれはすっかり毒してしまったのだ。彼らは噓をつくことを習い、噓を愛するようになり、嘘の美しさを知ったのである。いや、その始まりはおそらく無邪気なことだったのであろう、冗談から、媚態(びたい)を装うことから、愛の戯れから、または本当に目に見えぬ黴菌みたいなものから、始まったのかもしれない。とにかく、この嘘の黴菌が彼らの心に侵入して、しかも彼らの御意に召したのである。それから、急速に情欲が生まれ、情欲は嫉妬を生み、嫉妬は残忍を生み……おお、おれはよく知らない。覚えていないが、やがてすみやかに、きわめてすみやかに最初の血がしぶきをあげた。彼らは驚愕して色を失った。こうして、分散し孤立しはじめたのである。種々な同盟が現われたが、今度はもう互いに対立するものばかりだった。……

こうして、相互の間での闘争が始まり、悲哀を通じて真理の探究と科学が出現し、邪悪さによって正義の観念がもたらされ、数々の法典が書かれ、それを保証するためにギロチンが発明された。

彼らは、かつて無垢で幸福であった記憶をほとんど失いながらも、再び無垢で幸福になりたいという希望をいだき、その希望の前に跪拝して、無数の神殿を建立し祈りを捧げるようになる。宗教が誕生したのだ。
そのくせ、そのような希望の実現は不可能であると信じている。

「知識は感情よりも尊く、生の知識は生よりも尊い、科学はわれわれに叡智を授け、叡智は法則を啓示する。幸福の法則の知識は幸福以上だ」というスローガンが彼らのモットーとなる。彼らのそれぞれが自分のことだけを考え、他人の個性を低下させ、縮小させることに、全生涯を費やすようになる。

階級と序列が形成される一方で、新たな社会的結合の理念をめぐって戦争が繰り返される。
それぞれの陣営が、自分たちの理想を掲げ、それを理解しない「叡智のない」人々をせん滅せんとして互いに交戦し、競い合った。
ついには、人々は無意味な労苦に疲れ果て、苦痛にとらわれながら、その苦痛の中に美と思想を見いだし、苦痛を歌い上げる有様となる。

男は、かつての楽園の住人たちの身の上を嘆き悲しみ、絶望のあまり自分自身を責め、かれらに「(自分を)十字架にかけて磔(はりつけ)にしてくれ」と哀願する。
ところが、彼らは「自分たちはお前から、ただほしいと思ったものを受け取った」のであり、「今日あるいっさいのものは、すべてかくあらねばならぬものなのだ」と言って、取り合わない。

言いがたい悲しみに胸がしめつけられるような思いの中で、男は目を覚ます。

おかしな男の回心

夢から覚めた男は、いつの間にか、百八十度の回心を遂げていた。

……おお、いまこそ生きるのだ、あくまで生きるのだ! おれは双手(もろて)をあげて、永遠の真理に呼びかけた。呼びかけたのではない。泣きだしたのだ。狂気の念、はかり知れぬ狂気の念が、おれの全存在を揺りあげた。そうだ、生活だ、そして伝道だ! 伝道ということを、おれは即座に決心した。そしてもう、もちろん、生涯の仕事なのだ!……

男は、真理の伝道者になると決心する。彼の新たな信念の根拠は、自らその目で「真理を見た」ことである。

おれは見た。だから知っているが、人間は地上に住む能力(ちから)を失うことなしに、美しく幸福なものとなりうるのだ。悪が人間の常態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことは本当にしない。

「地上に住む能力(ちから)を失うことなしに、美しく幸福なものとなりうる」こと、それを「あまりにも充実した完全さ」で見てしまった男は、それが人間にとって不可能であるとは、もはや信じられない。

まず肝腎なのは、おのれ自らのごとく他を愛せよということ、これがいちばん大切なのだ、これがすべてであって、これ以上まったく何にもいりゃしない。
「生命の意識は生命よりも上のものだ。幸福の法則の知識は幸福よりも貴い」というやつ、つまりこいつとたたかわなければいけないのだ!

男は「伝道に出かけるのだ!」という決意を繰り返し、小説は終わる。

作品から読みとれるもの

筆者自身、話の内容がよく呑み込めないまま、あらすじの説明が長くなってしまった。

果たして、この作品から何を読みとればよいのだろうか?

おかしな男の夢の中では、原初の楽園のような幸福な世界と、男によって堕落させられてしまった後の、嘘と争いにまみれ、苦痛に満ちた人間社会との対比が鮮明に描かれる。
そして、後者の世界は、おそらく、男が現実に生きる世界と重なるものである。

とすれば、これは、(当時の)文明化された現代社会に対する風刺であったのだろうか?
人間が本来持っていたはずの単純で無垢な幸福を忘れ去り、いたずらにおのれの正義や権利を振りかざし、能力の優位を競い合って、互いに他者を見下そうとする現代の人間たちに気づきを与えたかったのだろうか?
男が夢の中で見たように、世界を美と幸福で満たすことは可能であるという真理を説こうとしたのだろうか?

原初の楽園のような世界と堕罪後の汚れた世界、これら二つの世界を端的に暗示するキーワードとして、前者に対しては、生命、感情、幸福、後者に対しては、科学、知識、法則といった言葉が対置されているように思えた。

   感情 対 知識
   生命 対 科学
   幸福 対 法(則)

当然のことであるが、私たちが生きる現代社会は、知識においても、科学においても、法制度においても、19世紀末に比べ、さらに飛躍的に発展し、細分化し、複雑化している。
科学技術は、ほとんど制御不能と思えるほどに高度化し、日々、無尽蔵と言える情報が新たに生み出され、ネット空間に氾濫している。
流通する情報量があまりに膨大であるため、もはや、なにが必要な知識でなにが不必要であるかすら容易に判別できない。
というよりも、むしろほとんどの情報が不要なものであり、私たちは、毒にも薬にもならぬ無意味な知識の大海の中を無邪気に浮遊しながら、それでいて、自分が必要な情報を的確に摂取して、消費しているつもりでいる。

そんな21世紀の文明社会をドストエフスキーが見たらどう思うだろうか?
果たして、私たちが獲得した人生についての知識は、おかしな男の夢の中の原初の楽園の住人たちが自然と身につけていた「深く、かつ高遠な」知識と比べて、より重要で、必要なものと言えるだろうか?

話が少し脱線してしまったかもしれない。
問題は、この作品自体に込められた率直なメッセージは何か、ということだ。

知識は感情よりも尊く、生の知識は生よりも尊い。幸福の法則の知識は幸福以上だ。
この堕罪後の世界のスローガンを逆に考えてみよう。

人間にとって真に必要な知識は、生命そのもの、感情そのものに根差したものであり、直感的な、単純なものである。
いささか性善説のようにも思えるが、ドストエフスキーがおかしな男に啓示した真理とは、そのようなものだったのではないだろうか。

蛇足

最後に、それこそとるに足らない、トリビアな情報をひとつ。

楽園を堕落させ、悪徳を広めてしまった病因の比喩として、「旋毛虫」という言葉を見た時に、私は、「ああ、また出てきた」と思った。この言葉には見覚えがあった。

その言葉は、『罪と罰』のエピローグにある。

シベリアで服役中のラスコーリニコフは重い病気にかかり、監獄内の病院に入院するのだが、その病床で熱にうなされ悪夢を見る。その夢の中で、世界は前代未聞の疫病の流行に呑み込まれる。まさに、パンデミックだ。
病原体は、新しく発見された旋毛虫であり、これに感染した人間は、たちまち発狂し、誰もが自分ひとりの真理を主張し、決して互いを理解し合えず、非難し合い、殺し合うのだった。いくつもの町や民族が、この病気に侵されて発狂し、人も物も全てが滅びていく。……

『おかしな人間の夢』と『罪と罰』のエピローグで、ともに主人公の夢の中に現れ、人間に寄生し、人間社会を脅かす元凶とされた「旋毛虫」。

念のために、それぞれの原文を確認すると、ともに ‘трихина’(トゥリヒーナ)という語が用いられている。辞書で調べると「センモウチュウ(人・ブタ・ネズミなどに寄生)」とある(和久利誓一ほか編『岩波ロシア語辞典』1999)。

罪悪や悪徳というものは、疫病のように人から人へと感染し、瞬く間に社会全体や、さらに国や民族を超えて人類全体にまで蔓延していくものだ。
ドストエフスキーは、そんなイメージを持っていたのかもしれない。

※画像は、ロシアの画家イワン・シーシキンの「オークの木立ち」(1887、部分)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?