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社史はプロフィール

社史は自己紹介するときのプロフィールにあたるコンテンツと考えるとすっきりする。

過去の出来事を説明するものなので、客観的な事実しか残らない。あくまでもオーソドックスな社史に求められるのはそこだろう。ドキュメンタリーにすれば面白くできるし、人となりが表現できるが、そこには社史っぽい雰囲気は無くなってしまう。

柴山信之は、1993年3月に大原高等学校を卒業し、1年間浪人生活を経て、翌年の1994年4月に国際基督教大学に入学した。

これは事実だけど、面白みはどこにもない。履歴書のように箇条書きになっていても間違いはない。なんというか、変えられない事実であり、伝えておくべき事実を端的に表現していて、事実として固定化したコンテンツ。これが社史のコンテンツの基礎だろう。別に浪人生活、自宅近所の焼肉屋でアルバイトして、はじめてホッピーと出合ったとかは、不要な情報で、履歴書には書かない。

つまり、会社紹介のためのコンテンツが社史のコンテンツとなる。そして、社員全員が共有して、説明できるようにしておき、だれが説明しても同じ内容を伝えられるように整えたものが社史ということかなと。

履歴であり、歴史でもあるコンテンツなので、できるだけ客観的かつ事実に即した正しい情報であることが大切だと考えられる。嘘をついたら、そこは詐称で訴訟な感じか。さておき、そういう意味では評価も定まり固定化されたコンテンツということで、個人的は社史で扱うコンテンツは堅苦しいイメージもあるので「ソリッドコンテンツ」と表現したいところ。

これはこれで社史の一つの側面としては正しいかな。

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一方で、社史で扱いにくいコンテンツは、評価の定まっていない施策や「想い」や「情熱」という感情や情緒、そして経営者や功労者の「人となり」。社史の主語は当社になるわけで、動くのは組織としての会社になる。会長でも社長でも、大きな影響があるのは当然だが、会社にとってはその一部でしかない。もちろん無碍に扱う事柄ではなく、重要かつ大切にしたい伝統や指針ともなり得るコンテンツ。

何が難しいかと言えば、正しく公平に評価できないこと。想いや情熱、人となりは「言葉」や「行動」から推し量るしかない。物語のようなストーリー仕立てで、面白さがないと読者はまったく共感できない。もちろん、その物語が創られたものでないことをしっかりと裏打ちしておかないと、これまた厄介なことになりうる。

こうした情報は、社史の本筋から少し切り離してコラムにしてしまったり、別に小冊子を作ってしまったりすることで、社史の独特な正当性の立場を保つ。まぁ、歴史とは大なり小なりの胡散臭い面が多々あるのは仕方がないことだし、社史という小さな世界でどこまでの確かさを求めるかは、発行元の判断による。

個人的には、ズバーンと言い切ってしまう大胆さが、一歩前に進むコツなんじゃないかなぁと思ってしまう。