愛という名の暴力 - 『ドキドキ!プリキュア』で描かれる愛と虐待について


 たくさんの方に読んで頂き、たくさんサポートして頂いたので、さすがに何か書かないとまずいぞ!となり、とりあえず「他にもこういうアニメがあるよ」という紹介をしておこうと思います。以前ブログで書いたものの再公開になるのですが・・・。

 2013/11/11に公開したものからネタバレを抜き、少し加筆しました。いずれにしても最終回前時点での考察になります。また、昔に書いたものなので、いろいろと論の運びが怪しいところが……ご承知おきを。


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◯ 愛という名の暴力について -『ドキドキ!プリキュア』39話感想

 





「プリキュアは私の敵……パパを苦しめる…敵なのよ!」

「…そんなの知らない。
パパには私しかいない。…私がいなくなったら、パパは一人ぼっちになっちゃう。
…だから、パパは、私が絶対に守ってみせる。」

「パパの敵は、私が全部消してあげるっ!」

(『ドキドキ!プリキュア』39話より)

 



「マナ…わたし、嬉しいの」

「パパは…世界を滅ぼしても…娘のわたしを救おうとしてくれた」

「あなたたち…そんなに大きな愛をもらったこと、ある?」

「地球とか、宇宙とか。そんなものより大きな愛をもらったこと、ある?」

「わたしだけよ、あるの。」

「そんなわたしが、パパを捨てるわけない!」

「わたしは最後まで、パパのために戦う!」

(『ドキドキ!プリキュア』46話より)




『ドキドキ!プリキュア』は、「家族」と「愛」についての絶望的なあり方を描いているように見える。敵の娘であるレジーナは、一度はプリキュア側に寝返り父を説得しようとするも、父から攻撃を受け姿を消してしまった。そして、再び姿を表したときには、「パパには私しかいない。…私がいなくなったら、パパは一人ぼっちになっちゃう。…だから、パパは、私が絶対に守ってみせる。」と叫び、プリキュアと戦おうとする。

 この描写だけでも胸が苦しくなる。これはどう見ても絶望的な家族のあり方だ。そして、「愛」を主題にしたプリキュアで、こうした破滅的な「愛」の形を描こうとしている点に、意外性を覚えるとともに期待を抱かざるをえない。

 この記事では、「親子の愛」を一種の「暴力」としてとらえる見方を提示して、このエピソードを理解するための補助線を引ければと思っている。


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 愛は強制力をもつ。その強制力は時に、現実に対する認識を大きく歪めることもある。フロイトなどによって有名になった、シュレーバーというとあるドイツ人親子の話から始めてみよう [今井康雄『メディアの教育学』,2004]。

 息子シュレーバーの父は高名な教育学者だった。息子は自分の父から、彼の提唱する厳格な教育を施されながら成長する。
 しかし、その教育内容は「厳格」を通り越した悲惨なものであった。たとえば「垂直姿勢器」によって前かがみになることを禁じられ、「頭部固定器」によって頭を動かす自由を奪われた。真冬でも冷水浴を強制されたという。こうした教育の結果か、(もとより生まれが名門の家系だったというのもあり) 子シュレーバーは晴れてザクセン州控訴審判員長となる。

 ところが、ある日を境にシュレーバーは突然発狂してしまう。そして、発症したシュレーバーが綴る自身の子供時代のなかでは、「父による迫害の経験」が、「『神』による迫害の経験」という“妄想”として処理されていた。父からの教育は、「なかったこと」にされてしまったのである。

 シャッツマン『魂の殺害者』は、この症例を父親の教育という視点から読み直す。シャッツマンによれば、「父親の迫害」が妄想へと変換されてしまった原因は、「愛情」にあるという。
 つまり、父親が息子を迫害しようとしたのではなく、愛情をもってしてその行為に及んだがゆえに、息子にとってその経験は妄想という形で処理されるしかなかったというのである。
 父シュレーバーは、自身の行為を息子のためを思ってしているがゆえに、息子に「自分のため」の教育であるということを納得させ、また感謝さえ要求していた。息子もまた、父の教育に感謝し、自らの意思で(!)そのような教育に従い続けたのだ。
 こうして、息子シュレーバーは、自分の感情を抑圧し、抑圧したという事実さえも抑圧し去る。「父が私を迫害した」という経験は、-否定のイメージがそもそも存在しえないがために- その主語を転換して「神が私を迫害した」というイメージへと加工されたのである。

 親の愛は一種の暴力性を持ちうるが、その暴力性は「それが愛である」がゆえに認識されないままになってしまったりする。親子の関係ではこうしたことが起こり得るし、そうなると相互の同意のなかで虐待が起こりうる。そういうことをここでは確認して、もうすこし考察を進めてみよう。


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 R.D.レインによれば、家庭とは成員同士の存在証明を賭けた相互テロリズムの場であるという。

 レインはこんなふうにいう。家族とは、「もしだれかが限界を踏み越えようものなら、誰もが暴力で彼を脅か」すという「暴力」、つまり家族を破壊する力に対する暴力が存在する場所である。そして、それぞれのメンバーが、この「暴力」が自分自身に対して振るわれないために相互の保護・安全を提供する『相互テロリズム』の場所である(Laing[1967=1973:94])。
*奥村隆『他者といる技法』,1998より孫引き

 要するに、「家族」は、「家族」という場を守ろうとする組織だということだ。そして、それを破壊する者に対しては、自己防衛を行う。では、「家族」という関係を破壊する者が、家族のなかにいたとしたら…?

 親が、「家族」のために子どもを傷つけていくことがある。そのような症例を見てきたレインは、それらをより一般化・抽象化した形で表現した。『結ぼれ』『好き、好き、大好き!』といった詩集である。そのなかから一節引用してみよう。

子どもたちが私たちを愛し、たっとび、私たちの言うことを聞く子になるように育てあげるのが、私たちの義務なのだ。
子どもたちがそうしなければ、罰を加えてやらなくてはいけない。
さもないと、私たちは義務を尽くしていないことになろう。

子どもたちが育ってから、私を愛し、たっとび、私たちの言うことを聞くようになれば、
育て方が正しかったといわれて、私たちはつねづね祝福を受けてきた。(…)

息子は父親を尊敬してしかるべきだ。
父親を尊敬するように教えてやらねばならぬ、などということはないはずだ。
それはなにか自然なことなのだ。
とにかく、私はそんなふうにして息子を育ててきた。

もちろん、父親たるもの、尊敬されるにふさわしくなくてはならぬ。
まずいことをして、父親が息子の尊敬を失うことだってありうる。
だが、せめてこれだけは期待したいな。なにしろ、私を尊敬するもしないも勝手にさせてやったからには、それだけでも息子は私を尊敬するだろうさ。
[レイン『結ぼれ』,村上光彦訳,1973]

 この詩は、愛についての語りがトートロジー(同語反復)な形式をもつことを示唆している。

 愛することに根本的な理由はない。それゆえに、愛はトートロジカルな形式をもつ。とくに家族の場合は。
 父は息子を愛する。それはなぜか。父は息子を愛するものだから。
 息子は父を尊敬する。したがって、どのような場合でも (たとえ尊敬されないときであっても) 父は息子から尊敬される。
 
 こうしたトートロジーがうまくいく場合がある。たとえば家族というものを維持するために、こうしたトートロジーが良い機能を果たすときがある。しかし、一度その歯車が狂うと、トートロジーは物事を破滅的な方向へと向かわせ、かつ当事者をそこに閉じ込めてしまうことになる。例えば、愛を掲げて傷つきあいながら、愛することに理由がないから (「親は子を愛し、子は親を愛す」ことは当然で絶対のものとして受け入れられているから)、それを拒絶する可能性が失われてしまう。絶望的な関係から、抜け出せなくなってしまう。そういうことが起こりうる。

 このスパイラルを止めることができるのは、第三者である介入者だけである。だからこそ介入者としてのプリキュアが必要になるのだろう。先に確認したとおり、「愛」による関係はときに、相互の同意に基づいた虐待に発展しうる。そのような関係のなかで、「これは違う」と当事者同士が気づき、コミュニケーションを止めることはできない 。なぜなら、それは愛にもとづくものであり、かつ根拠なきトートロジーでしかないからだ。だから、第三者が介入して止めるしかない。そういう瞬間が、ある。


* * * * *


 しかし、同時に注意すべきことがある。
 介入者 (プリキュア) の「愛」もまた、おそらくトートロジーにほかならない。

  
 虐待と依存の関係に陥った親と、そのスパイラルに手を差し伸べようとする介入者が、「愛」の大きさで子どもを奪い合うとき、いずれにせよ子どもはただの操り人形でしかない。
 そして子どもが操り人形でしかない以上、どのような決着になろうと、依存の関係がなくなることはないだろう。
 したがって、その関係は再び負の連鎖を呼び起こすことになる。介入者が勝ったとしても、それは新たな依存関係と「愛」による暴力の事例が一つ増えただけである。

 だから、介入の仕方がどのように描かれるかに、今後は注目したいと思う。依存に陥るのではない形で、介入することができるのかどうか。そこに破滅的な関係から抜け出す可能性を描き出せるかどうか。そういうところに期待して注視していきたい。



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