西阪仰『相互行為分析という視点 文化と心の社会学的記述』序章 (まとめ)

序章 社会という領域


◎ 1節 相互知識のパラドックス

 社会が成立するためには、「互いの存在を知りあっていること」、そして (競争や協力にあたっては)「同じコノもの、アノものを見ていること」を必要とする。しかし、いくつかの例に従って検討を行うと、この条件が成立するためには社会の成員が無限の「相互知識」を持つ必要があることとなってしまう。

〇 親しみとして軽蔑の言葉を送るという儀礼について。
 条件1: BがAのことを覚えていないならば、行為できない。
 条件2: 1が成立しても、それをAが知っているとBが知らないならば、行為できない。
 条件3: 2が成立しても、それをAが知っているとBが知らないならば、行為できない。
 条件n: n-1が成立しても、それをAが知っているとBが知らないならば、行為できない。
  ⇨ Aは無限にBの知識状態を確認し続けなくてはならない。
 〇 上映予定が変更された映画xについて。
 条件1: Aがxへの変更を知らないならば、AとBは同じxを指すことができない。
 条件2: 1が成立しても、Aが「xへの変更」を知っていることをBが知らないならば、同じxを指すことはできない。
 条件3: 2が成立しても、Aがそれ (Aが「xへの変更」を知っていることをBが知っているということ) を知っていることをBが知らないならば、同じxを指すことはできない。
 条件n: n-1が成立しても、Aがそれを知っていることをBが知らないならば、同じxを指すことはできない。
  ⇨ AとBは無限に知識状態を確認し続けなくてはならない。
 

 社会は「慣習なり規範なり規則なり」によって成立するという考え方も同様の困難に陥る (:5)。それが成立するためには、人々が互いに相手の知識状態 (その規則を知っているか) を確認できなければならないからだ。
 こうしたパラドクスを指摘したクラークとマーシャル自身は、(a) 当事者と指示対象が同時にそこにあり、(b) 互いの合理性を想定することができ、(c) 帰納的推論図式を利用することを認めるならば、これは解消可能であると考えた (:8)。
 しかし、(a’) 規則・習慣は同時にそこにあるものとして想定可能だろうか (:9)。そもそも、規則・慣習が当事者たちにとって「明らかな」かたちで見えてくること自体が、共通の習慣に支えられているのではないか (:10)。また、(b’)(c’) 合理的な推論ができることそれ自体もおそらく (ある種の慣例や規則である) 訓練によって可能となることではないか (:11)。
 
 しかし、実際に社会は成立している。となれば、以上の困難は、解かれなければならない「背理」であるということになる。
 この背理を解くためには、「志向」に注目することから離れる必要がある (:12)。そもそもそれぞれの主体がそれぞれに何かを志向していて、それが束ねられるところに社会が成立すると考えるのは困難であり (:14)、それゆえに「志向を重ね合わせることができるか」という形でたてられていた以上の問いはいずれも意味をなさない。規則についても同様である。つまるところ、社会とは「人間たちがたばねられて」成立するものではない (:16)。


◎ 2節 物理的秩序と社会的秩序
 パーソンズは社会システムの構成要素をある種の「期待」に求めた (:18)。いかなる期待とも無関係の出来事は相互行為ではない。さて、相互行為が期待に仲立ちされた関係であると考えるならば、「それぞれの行為はかならず相手の出方に依存する」ということになり (:19)、ここに「二重の依存関係」の問題が登場することとなる。
 周知のとおりパーソンズは「規範が『内面化』されている」という想定によりこの問題を退けようとした。しかし、規範をそのようなものとして想定するならば、(規範に反する行為であるところの)「逸脱行動」は理論内に適切に位置付け不可能となる。逸脱は適切な説明を与えられないままとなり、それゆえにパーソンズ理論においては、システム内の出来事は規範によって許容された選択肢の側へとただ偏りを示すものであるかのようになってしまっている。だが、社会的秩序とは「やってよいことと悪いことが区別されている状態」であり、それは実際にどのような行為が行われるかとは別の水準にあるはずだ。パーソンズの想定は、そのような「秩序の水準」を捉え逃してしまうのである (:22-3)。
 また、パーソンズの社会学は「日常概念の修正の必要を説く『修正主義』社会学である」(:26)。しかし、日常的概念はそれ自体現実の一部である。例えば「自殺した」と「ハンガーストライキで獄死した」ということの区別は曖昧であり、その点で「自殺」という概念もまた曖昧ではあるのだが、我々の現実の社会はそのような曖昧な概念によって組織されている (:27)。また、特定の概念を用いることはそれ自体が (例えば特定のメンバーを誘いかける、排除するといった) 一つの行為であり、言葉や概念を用いることそれ自体が社会的現実の一部を構成しているのである (:28)。したがって、「社会の成員たちが、実際にどのような概念・カテゴリー (およびその他さまざまな資源) をどのようにもちいながら、社会秩序を編み込んでいくのか」が研究の対象とされても良いはずである (:32)。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?